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CATEGORY : 御言葉
〔2009年10月11日 主日の御言葉〕1、この時代もノアやロトの時代のように、それと同じくそうだ 2、遅れるな、主がせきたてて導き出される時に早く行いなさい
DATE : 2009-10-16-Fri  Trackback 0  Comment 1
〔本文〕
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17



ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。

今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。

人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。

この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。

神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。

今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年10月4日 主日の御言葉>
DATE : 2009-10-07-Wed  Trackback 0  Comment 0
1、神様と聖霊様とイエス様が現れるとしるしが起こる
2、見える人を中心にせず、自分の肉体と考えを中心にせず、自分の霊がただ主と相談して行ないなさい


本文 ローマ人への手紙8章5−11節
   ヨハネによる福音書6章63節
   ヨハネによる福音書11章43−44節

ハレルヤ!主の平安を祈ります。今日初めて来た人たちと、教会に来て間もない人たちと、早く来た全ての人たちは、本当に神様と主が現れることを願いますか。その出会いを自分の人生の最高の希望と思いますか。一国の王に会うのも難しいのに、救い主イエス様に会うことになるならどれほど幸せな人でしょうか。
神様と聖霊様と主は全ての人々に会って心を話したいと思って一日を千年のようにやきもきして待っていらっしゃり、条件を備えた人をお探しになっています。それほど人々に会うことを願っていらっしゃるのになぜ皆に現れないのでしょうか。備えるべきものを備えて条件ができた人に現れます。今この時間にも御言葉で現れて前に来ていらっしゃいます。そして御言葉を送って私たちがどのように聞くのかご覧になっています。
主が各自に現れる状況はいろいろです。人間が切実に求めるときに現れ、ある困難に遭ったときに現れ、愛するときに現れ、行事のときに現れ、栄光を帰すときに現れ、礼拝を捧げるときに現れ、孤独でわびしい時に現れ、病気にかかって苦痛に遭うときに現れます。そして神様も、主も、聖霊様も、時に従って必要なときに現れます。
主は条件ができた人をお探しになっています。主は摂理の全ての人たちに、各教会に、各民族に、各個人に、話したいことを話して下さり、その心情と心を話そうと、祈りの条件、悔い改めの条件、きれいな条件、主の愛の条件ができた人をお探しになっています。
主に会うには「主が願われる条件を立てて主を呼んで求めなくてはいけない。」と言いました。主に会った人たちの話を聞いてみると、長い間条件を立ててきた人たちでした。ある人は主がその人に必ず会ってその人を通して仕事をしなくてはいけないから会って下さることもあります。
ある人は主のやきもきする心情を分かってあげ、その御言葉をはっきりと悟って切実に祈って主を求めると、主が「うん。あなたは心を分かってくれるんだ。あなたが私の心と心情を分かってくれるから私の心があなたの心と一体になってあなたのところに来た。」とおっしゃって、「あれほどにも御言葉を通して私の心を話してあげ、啓示者たちを通して話してあげたのに、人々は私の心を分かっていない。真に悟って分かっているのか私は見てみれば全て分かる。真に私の心情を分かってくれてこそその人と対話をすることができる。」とおっしゃったそうです。そしてこれからどのようにしなさいと教えて行かれたそうです。
主の心情は数十種類、数百種類に現れます。また数十種類、数百種類に主が話そうとされることがあります。主は該当するものを備えた人に現れてそれについて話して下さいます。

主を信じながらも、主が自分をどれほど愛しているのか分かっていません。主を信じない人たちは、自分が信じないから主が自分をそんなに愛していらっしゃると考えられません。主はご自身の体を与えて私たちを買いました。だからご自身の体のように全ての人々を愛していらっしゃるということを知らなくてはいけません。
主はご自身の体を与えて万民のために代わりに死んで下さったために肉がないので、ご自身の体を与えて買った肉体を使って働きかけられます。だから私たちの肉と霊をどれほど尊く思って愛していらっしゃることでしょうか。一度考えて分からなければ二度、三度考えながら、主が私たちをどれほど尊く思っていらっしゃるのかその心情を悟らなくてはいけません。
主がお使いになる体をサタンが引っ張って行き、惑わして行っても、人々は分からずに生きています。また神様と主が天国を予定してみんな来るようになさったのに、知らないから自分の思い通りに生き、知らないから偶像に仕えて生きています。それによって死んだ後に良い世界に行くと思って、この世に生きるときも大きな祝福を受けると思って生きています。また暫しいて離れるこの世でもがき、そこに全ての人生を投資し、あらゆる物質を投資しながら生きています。主がこれをご覧になって本当にやきもきしながら見ているのに分からずに生きています。
10000分の1%も永遠な地獄に行って苦痛を受ける必要はありません。サタンと悪い霊たちの惑わしと主管を受けて肉体がそういう方向へ生きてその霊が地獄へ行く人たちが多すぎて、主は一日にも雲のように多くの人々が地獄へ落ちるのをご覧になっているそうです。
このように主はやきもきする心と愛の心で人々に接し、私のところに来なさいとおっしゃっているのに、人々はその心情を知らずに生きています。自分が主にして差し上げたこともないし、善良なことをしたこともないし、また主を信じても特別な存在ではないのに主が本当に自分を愛して好きだと言うから理解ができません。
摂理人たちもこれを再び悟って伝道し、新しく来た人たちもこれを悟るようにしてあげなくてはいけません。だから主が私たちを愛されるように私たちも主を愛さなくてはいけません。そうしてこそ主が訪ねて来て対話なさいます。
先生も神様と主の歴史を30年間広げてきながら、全ての人々をそれほどにも尊く接して愛で接してあげました。その時、人々は、自分のような人を何を見てそんなに尊く接して愛で接するのか分からないと言って、むしろ負担だと言って遠ざけたりもし、異性的に考えていると言って誤解し、自分なりに他の人たちに話もして噂を立てたりもしました。
ある時はある女性が御言葉を学んで修了した後に私のところに挨拶しに来ました。美しい顔にハエがくっ付いていたので私の手が伸びたら、その女性は「どうしてこんなことするんですか。こんなことしないで下さい。」と言いました。ハエが逃げて行ったから証人もいませんでした。汚いクソバエがくっ付いていたから追い払ってあげようと手が伸びたと言うと、その女性は自分の主観で考えました。その後、近くでは見えませんでした。下品なハエのせいで一人の命が誤解しました。ハエのせいで私の手が伸びたのに、誤解したのです。そういうことが多いからうまくやらなくてはいけません。
先生がよく接してあげるとある人は「感謝します。私も神様と主を愛して先生も愛します。」と言いながら青春が老いるのも気づかないほどに生きてきました。ある人はよく分からなくて「かっこいいしきれいだから愛するんだろう。」と考えたりもしたし、ある人は「私を摂理で使おうとして尊く思うんだ。」と考えました。ある人は「伝道して信者が多くなるようにしようということだから、当然だ。」と考えたりもしました。
これまで先生は食べる物もまともに食べないで、着る物もまともに着ないで、あらゆる迫害と無念な思いと濡れ衣を着せられながらも、じっと我慢して、ひたすら尊く思ってあげ、愛してあげました。主が血で代価を払って代わりに死んでくれて、天国へ行くように予定しておかれたから、永遠に歯軋りしてあらゆる苦痛を受ける、サタンと悪い霊たちが暮らす地獄に行かないで、地上で主を信じて愛し、主の肉体になって祝福されて生きて、天国に来なさいと、主は先生を通してそのように愛して下さり、気を遣って下さり、事故や害を被らないよう守って下さったのです。もう悟りましたか。

人の美しさも、名誉も、毎日虚しくあの空の浮雲のように流れて行きます。主は私たちの肉のためにそのように愛して下さるのではありません。永遠に存在する私たちの霊のためにそのように愛されます。私たちの霊のためにそのように犠牲になり、愛されるのです。私たちの霊が地獄に行くかと思って主がそのようになさっているから、私たちも霊のために悟って生きなくてはいけません。これだけ悟って主に告白しても主は「私の心情を分かっている。」とおっしゃって直ちに来られます。
この時間以降、悟って心で告白してみて下さい。主から「そうだ。」と一言でも答えが来るでしょう。これを分からずに誤解して摂理の懐を離れて行った人たちと、特に関心なくついて来ていた人たちの最後がどのようになったのか見て下さい。またついて来たとしてもこのような根本を知らずについて来た人は成長しませんでした。
主は啓示者たちが心情を分かってくれるから「私の心情を知らずに肉でだけ信仰生活をしていて、引き上げられず、地上に残って患難と迫害を受けて地獄へ行けば、その時行って歯軋りしながら後悔するだろう。メシアである私も、この世の私の時が終われば背を向ける。私が背を向けた後にはいくら呼んでも見ることができない。各自に十分に機会を与えたのにやらなくて終わったのだ。だから呼んでも何の役に立つだろうか。」とおっしゃったそうです。
肉体が老いて年をとったからと言って気を緩めないで下さい。主は霊をご覧になってもっと働きかけられます。霊は非常に若いです。
人々はなぜ全知全能な主が自分をそんなにも愛するのか分からずに生きています。分からないことも罪です。親や自分の恋人が、自分が何かをしてあげたから、功績があるから愛しますか。何の功績がなくても親や恋人は愛で生んで育て、愛するものです。神様も主もそうです。神様と主が下さる愛を受けられなくて、後になって後悔し、滅亡するこの世の愛を受けてはいけません。
神様は全ての人々を子供として選んでおかれ、地獄に行かないで天国に来て生きなさいと愛して下さいます。
主が「私の肉体を渡してあなたがたのために代わりに死んであげたから、あなたがたは私のものであり、私の新婦たちだ。サタンと悪魔と悪い人たちが私を十字架で殺したから、私が伝えようとしていた天国の福音を伝えられなかった。だから私の言葉をよく聴いて伝えてあげ、サタンを滅ぼし、悪人を悔い改めさせながら、この世で祝福されて生きて、天国に来て永遠に喜びで生きなさい。この世で私の仕事をしていてやりたいことができず、享受できなかったことを、天国に来てすべてもらい、享受しなさい。」とおっしゃいます。
主はそのまま放っておいたら特に価値もない人々をそれほどにも愛していらっしゃいます。この全ての御言葉は主の啓示の御言葉で、説教で解いて伝えてあげているのです。
ある啓示者に主が啓示なさった内容を見ました。その人に罪があってサタンが引っ張って行こうと詰問したそうです。主がご覧になって、そのままでは引っ張って行かれるのでご覧になりながらその人にどのようになさったのか、啓示の内容を送ってきました。
その人が悔い改めをしましたが、悔い改めるべき期間までに全てできなかったのです。だからサタンが少し残っているその罪の条件によって何が何でも引っ張って行こうとしたそうです。そのとき主がサタンに「サタンよ。そのままにしておけ。そこに置いておけ。その残った罪は私が責任を負う。」とおっしゃり、その罪をまた引き受けて代わりに十字架の苦痛をお受けになったそうです。
罪を悔い改めてこそ主が代わりに十字架を負われません。だから主は「どうか自分の罪を悔い改めなさい。私の苦痛のために赦してあげる。」とおっしゃいます。主は生きていたとき肉的に十字架を負われ、死んだ後にも私たちの霊を生かそうとして霊で十字架を負ってまた苦痛を受けていらっしゃいます。主を愛するなら罪を悔い改めてその心情を分かってあげて生きなくてはいけません。そういう人は主に十字架を負わせない人で、主がこの上なく愛されお喜びになります。

主はおっしゃいました。
「私と通じる人は自分の考えと主観、肉性を全て捨てた人だ。私は幼子のような人たちのところに行く。天国は肉性があると行けない。肉性のせいで天国に行けなかったらどんなに無念だろうか。自分の肉性を葬りなさい。そうしなくてはいけない。霊で考えてこそ私と通じる。私を優先権にしなさいと言ったのに教役者たちも、また教団に立てた人たちも、各機関も、まだ自分の考えを優先権にして決定している。私の意見と私の考えを訊いてみなさい。一時間も二時間も祈って私の答えを聞かずにどうして自分の肉の考えで決定するのか。良い意見は全て受け入れてまとめて報告し、決裁を受けて行ないなさい。」とおっしゃいました。
それで先生は主に、肉に属した人たちが分からないから、これから霊に属した人たちを立てて主がその人に啓示なさって相談して決定させようと相談しました。
主は「それでは、肉的な人たちの結果がどうなるだろうか。直して霊に属した人になってこそ天国に行くのではないか。肉が霊の考えに新しく変わらなくてはいけないのではないか。一年だけ待って下さいと言ったのではないか。自分が全ての肉性と肉に属した考えを殺し、霊に属した考えをして私イエスの考えをしなくてはいけない。誰でも個人も、教団も、各教会も、各部署も、全世界みんな、集まって会議をするならそのようにしなくてはいけない。」とおっしゃいました。
主はこれを啓示者たちを通して指摘したりもなさいました。みんな主を優先権にするという概念だけ持っていて、決心だけしているからです。実際に行なうときは見たり聞いたりすることに考えが向かって、考えと自分の肉性で行なっています。こういう人は自分優先の人です。霊の考えを持って主の考えで絶対に主最優先にしなくてはいけません。

主は「祈りだけが対話か?明け方に私と対話した人は昼にも私と対話すべき人だ。」とおっしゃいました。主は啓示者たちに「私は全世界の人々がすることをすべて見ている。」とおっしゃいました。天使も全て記録します。
ある人は「世の中に主を求める人たちが数え切れないほどたくさんいるのに、明け方のその短い時間に主が何人も直接会って下さるのか。」と言います。啓示を受ける人たちがそれぞれ啓示を受けた時間を書いて先生に送りましたが、ほとんど同じ時間に受けた人たちが多いです。
主が下さった啓示を記録すると、ある人は30分かかり、ある人は2時間かかったりもします。手紙を少し長く書くときも明け方まで校正して再び補充して書くと本当に時間がたくさんかかるでしょう。
先生もこの御言葉を朝から書いていますが、今、午後5時近くになっています。主に、土曜日の午前に書き終えると大きなことを言いました。笑いながら、午前に御言葉を書き終え、午後には校正し、残りの時間は手紙を書いて決裁すればいいと言いました。主はすでに全てご存知で、できないとおっしゃいました。良くおっしゃっただけです。しかしまだまだです。祈りの時間にも祈らなくてはいけないから、明日の午後までにしてこそ校正まで終わります。説教も一冊の短い本です。
啓示を受ける時間について話したでしょう。同じ時間に主が下さった啓示が同じ内容であれば、数百人でも数千人でも同じ時間に受けることができますが、その内容を見るとそれぞれ異なって啓示して下さいました。いつか、同じ日にち、同じ時間に啓示を受けた人が3人くらい出て来て話してみて下さい。同じ時間に受けた啓示なのに不思議に内容は異なります。
主は「百万人でも一千万人でも条件ができればそれぞれ同じ時間に啓示してやることができる。」と言いました。他の霊たちは主が使命を下さればある程度はしますが主のようにはできません。しかし主は霊でいらっしゃり、全知全能な三位体なのでなさいます。だから摂理人たちが多いからと言って同じ明け方の時間に主が自分に啓示して下さることはできないと心配しないで下さい。その心配も全て肉の考えです。
肉の考えは霊の考えとてんで違います。なぜ違うでしょうか。霊界と肉界も違い、霊と肉のその能力自体が違います。肉は自分の体では空中を巡ることはできませんが、霊は思い通りに行き来します。肉の目ではわずかな距離しか見えませんが、霊の目では天の国まで見て地球世界を貫いて見ます。だから霊と肉は法も、生き方も、理致も違います。
肉性は神様と主の仕事を妨害すると言いました。この御言葉を聞いて実践すれば霊的な人たちになって、主が勝てる人たちが本当に多くなるでしょう。肉性を全て殺して葬らなければなりません。自分の使命にだけ溺れないで、心から主を呼びながら深い対話を願い求めなくてはいけません。まずやきもきしている主の心を分かって接しなくてはいけません。
主の平安が満ちることを祈ります。

今は私たちの神様の能力と、主の愛とその深い御言葉と、聖霊の熱い感動、感化、御働きが、御言葉を聴く全ての人たちに満ちることを、聖父、聖子、聖霊の御名によって祝福します。アァメン。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年9月27日 主日の御言葉>
DATE : 2009-10-02-Fri  Trackback 0  Comment 0
肉の世界は肉で、
霊の世界は霊で、霊たちと戦いなさい


本文 エペソ人への手紙6章11−17節


主の平安を祈ります。全ての存在物は連れ合いがあります。相対性の世界だということです。男性と女性のように、相対的でありながらも連れ合いになります。創造主、神様は、全ての万物を相対性の世界として創造なさり、また連れ合いになるように創造なさいました。
神様はイザヤ預言者に「あなたは世の中を見なさい。どんなもの一つも連れ合いがないものはないのではないか。私がそのように創造したのである(イザヤ34:16)。」とおっしゃいました。
相対性の世界、連れ合いの世界だと言いました。この御言葉を改めて考えなくてはいけません。昆虫の世界、動物の世界、植物の世界、人間の世界は、否認することのできない相対性の世界です。その相手はすなわち連れ合いになります。全て連れ合いになり得ますが、双方の間で最も自分に合う連れ合いを見つけるようになります。
昆虫、動物、植物の世界は常識として分かって次に移ります。人間の世界を見ましょうか。人間の世界で男性と女性は相対的にみんな連れ合いになって生きることのできる条件になっています。けれど多くの人々の中でいったい誰が自分と一番心が合い、行いが合うのかによって相手が決定されます。心と行いが最高によく合うときに天が定めた縁、天上の配偶者だといいます。
男性と女性は互いの相手になりますが、みんな自分の相手として暮らせはしないでしょう。動物も雄と雌が互いに相手になります。だから牡鹿と雌ノロは相手になります。だからと言って「あなたと私は配偶者だ。連れ合いだから一緒に暮らそう。」と言えば暮らしはするでしょうが、それほどもたないでしょう。
山ノロと野ノロも鹿と同じシカ科だと言いますが、牡鹿と雌ノロは連れ合いとして理致が合いません。鹿同士連れ合いを成すほうがノロよりははるかによく合います。しかし鹿同士多くの鹿の中から互いに合う鹿と連れ合いを成さなくてはいけません。
これと同じく人間も男性と女性はみんな相手になって連れ合いを成して暮らすことができます。その構造がみんな相手になります。男性と女性は誰でも構造上、連れ合いになって子供を産んで暮らすことができます。しかし無条件、男性だからと言ってどの女性でも連れ合いになることはできないし、無条件、女性だからと言ってどの男性でも連れ合いになることはできないということです。

神様は男性と女性の構造をそのように創造しておかれました。だから男性と女性は誰でも互いに連れ合いになることができますが、数千万、数百万の人々の中から自分と性格が合い、心が合い、行いが合う連れ合いがいるということです。その人に会うときに「天が定めた縁」だといいます。
人間が、構造が相手になるからと言って連れ合いを成したら「縁」と言えません。構造が相対的な男性と女性は互いに愛したら連れ合いになって暮らしていきます。最初は好きで、きれいで、素敵だから愛して暮らすようになりましたが、時間が過ぎると別れます。最高に愛したのに別れます。誰でも愛するときは愛を残して愛したりしません。一度愛する時に全ての愛を降り注いで愛します。けれど暮らしているうちに別れます。なぜでしょうか。
聖書では「初めの愛を失った。最初に愛するように愛する心を失ったからだ。」と言っています。根本は神様の御心ではない愛をしたからであり、最初は互いによく合わせて付き合っていて、時間が過ぎると性格の違いのせいで暮らせないのです。個性が合わなくて暮らせないのです。原因はたくさんあります。「暮らしてみると性格が合わない。」、「暮らしてみると最初のようではなかった。」、「暮らしてみるとそれほどでもなかった。」、「暮らしてみると私が願う人物ではなかった。」、「期待に外れた。」と言う等、その種類を全て話そうとすると御言葉をこれ以上できません。
最も大きいことは第一に、初めの愛が冷めて心が変わったからです。第二に、性格のせいです。もう一つ言うなら、最初に見たとき自分の目には世の中で最高にきれいで素敵で天使のように見えたけれど、暮らしながら改めて見るとそうではなかった、他の人より劣る、自分にあまり関心がない、別に役に立たないという理由のせいです。
構造は合っても性格が合わなければ合わない分争いながら暮らすなり、そうでなければ結局別れます。だから人間の心を完全に作らなくてはいけません。人間は心が値打ちです。霊魂が値打ちです。神様と主とも性格が合わなければ別れるのです。
ここでこの御言葉を終えて、続く御言葉を伝えます。
世の中には男女間の連れ合いがあるし、動物も連れ合いがあるし、植物も連れ合いがあるし、昆虫も連れ合いがあります。これはみんな100%知っています。知っているのにどうして何度も話すのでしょうか。信じなさいというわけでもないし、学びなさいというわけでもありません。これと同じく、天と地の世界も、霊と肉の世界も、相対的に連れ合いだと話すためです。

主は何か話そうとして下さるときにはいつも「これと同じくこうだ。」とおっしゃいます。深い話をして下さろうとしてまず理致に合わせて語られながら、これと同じくこうだと理解をさせて下さりながら、疑いなくはっきりと信じさせて下さいます。
全人類の一人、一人について見るときも連れ合いがいます。相手がいます。これは自体の相手です。肉があるように、必ずその人の霊があるということです。神様はそのように創造しておかれました。自分の肉が母の胎の中で成長するように、霊も肉を通して成長します。霊は霊体として生き、肉は肉体として生きていきます。誰でも肉体がある限り、絶対に自分の霊が存在しています。自分が男性ならその霊も男性であり、自分が女性ならその霊も女性です。
霊は自分の肉に似ています。自分の肉は自分の霊に似ているし、自分の霊は自分の肉に似ています。しかし祈っているときや夢で自分の霊を見ると、鏡で自分の肉体を見るようにすぐに見分けられません。似ていますが少し似ているからです。
霊はまるでくるみの中身、穀物の中身、栗の中身が成長するように、自分の肉体の中で肉体を中心として成長します。全ての果物は木という肉を通して栄養分を吸い込んで成長します。これと同じ理致で霊は肉体の栄養分である肉体のあらゆる行いと考えを吸収して受け入れながら成長します。
肉の考えと行いが悪い人は、その霊も肉の考えに似てその性格と行いによって成長します。肉の考えと行いが善良であれば、その霊も肉に似てその心と行いが善良に成長します。霊は必ず肉に従って成長します。
世の中で男女が互いに連れ合いになったとき、男性が寛容であれば女性もその男性と一緒に暮らしながらいくらか寛容になりはしますが、ほとんど一体となるかのようにはなりません。だから性格が合わなければひとつになりません。すると結局一緒に暮らせません。しかし自分の霊と肉はほとんど性格が同じです。100%だと言ってもいいです。肉が嘘をつくと霊も嘘をつくし、肉が神様とイエス様を信じれば霊も信じます。肉の考えを霊もほとんど持っています。
万物は互いに連れ合いがあり、人間も互いに連れ合いがあると教えてあげようとしているのではないと言いました。皆100%連れ合いがあるから教えてあげなくても知っています。しかし霊と霊の世界については教えてあげなければ分かりません。万物と人間たちの世界は相対性の世界としてみんな連れ合いがあるように、肉と霊は相対性の世界として創造されているということです。
霊は自分の肉の連れ合いです。霊は男性の立場であり、肉は女性の立場です。これは絶対的です。「万物と人間たちに互いに連れ合いがあるように、肉と霊は相対性の世界であり、連れ合いだ。」と言いました。
神様は人間を神秘的に創造なさいました。霊と肉はこの世で生きる間、天が定めた縁です。一体です。ある男性と女性が、天が定めた縁であるのと比べられないほどにもっと近くいつも傍に生きている一対です。ほとんど一体となって分かって生きれば100%合います。霊と肉は考えも行いも合います。

自分の霊がいない人は世の中にたったの一人もいません。自分の霊がいなければ動物です。動物は霊がなくて、魂と精神だけあります。ある人は、人間の精神が霊ではないかと言います。動物を見るように人間を見てはいけません。人間の精神は肉に属したものです。精神は肉体の主人です。
精神は脳から発生するでしょう。モーターから電気が発生するように、脳から精神が発生します。モーターは回りさえすれば電気が発生します。精神もそれと同じです。人間の心は、目で見ながら、耳で聞きながら、体で感じながら、考え、すなわち思いが発生します。
何でも目で見たり耳で聞けば思いが発生します。五感の中の一つである鼻から匂いが入ってくると、脳で感じるようになります。これがすなわち「考え」というものです。話すときに考えが発生し、体で感じるときに考えが発生します。
人間は目で見たり、耳で聞いたり、話をしたり、体で直接ぶつかって感じたり、鼻で匂いをかぐと、脳で受け入れます。そうなると「どうしようか。見たから食べようか、食べまいか。しようか、すまいか。」と判断します。この全てのことが肉体に属したものとして脳から発生します。
霊は霊の脳があり、肉体に五感があるように、霊の五感があります。霊は肉体より考えがはるかに優れていて、体も肉とは比べられないくらいに優れています。だから霊のことは霊を使ってしなくてはいけません。霊は肉より数百倍できます。霊のことは霊でして、肉のことは霊が肉を通してやってこそ、肉が一人でするより数百倍優れてできます。
霊が1分で行く距離を肉は100年かかっても行けません。行く途中で老いて死にます。霊が1分間行った距離は、人間が造ったアポロ宇宙船、飛行機、列車、セダンで一生行っても行けません。ものすごい差が出るでしょう。
だから霊について学んで自分の肉の主人になる霊、自分の新郎のような霊と共にしたり、霊でしなくてはいけません。霊は、霊自体ですべきことがあり、自分の肉を通してすべきことがあります。肉界のことは肉体を通してするし、霊界のことは霊一人でしなくてはいけません。霊の世界、地獄や天国に行くことをする時は霊自体でします。
もう自分の霊があるということをこれ以上話さなくてもはっきりと信じて下さい。自分の霊があるのか、自分の霊を何度も呼んでみて下さい。霊が答えれば自分の心を通して聞こえてきます。これは自体霊通です。一生自分の霊を呼んでみたこともなくて、肉が死んで土になり、霊は暗闇の世界へ行くこともあります。自分の霊と通じるのが1段階です。自分の霊は絶対に自分の肉を欺きません。自分の霊のために神様に主の御名でたくさんたくさん祈ってあげなくてはいけません。
霊が能力があって神霊でなくてはいけません。肉が霊と一緒に讃美を歌って神様に栄光を帰さなくてはいけません。暫く讃美を歌ってみると、自分の霊が和音を合わせて共に歌っているのを肉体が感じます。自分の霊の歌の声を感じて悟って対話しなくてはいけません。自分の霊をほめてあげ、愛さなくてはいけません。
皆さんがどこに行っても絶対にひとりではありません。霊と対話すれば、肉が知らなかったことも分かるようになるし、不思議なことがたくさんあります。自分の霊にサタンと悪霊が働きかけないようによくしなくてはいけません。自分の霊のためにしっかり祈ってあげなくてはいけません。
霊は肉によく教えてくれます。肉が知らないことを本当にたくさん教えてくれます。霊が成長し、肉が霊によくしてあげれば、夜に寝るとき、霊が肉体を離脱して地上霊界や天上霊界にも行って来ます。有能な霊になると昼にも肉体を離脱して霊界に行きます。こうなるには本当にたくさん祈って、努力して、御言葉についての知識も豊富でなくてはいけません。しかし霊界にも法があるので絶対に主が承諾なさらなくてはいけません。
今日からもっと自分の霊を愛して自慢し、見えなくても自分の恋人のように思っていつも祈ってあげ、愛してあげなくてはいけません。このようにしながら一週間から一ヶ月が過ぎれば自分の霊を見る人たちがたくさんいるでしょう。霊は自分の肉の連れ合いとして絶対的な相対体です。
イエス様の霊の写真を見たでしょう。そしてその他の写真を通して霊の姿を見たでしょう。イエス様の霊が最高の美男です。義と使命によって霊が美しく、素敵で、神秘的で、奥妙で、人格と人となりを漂わせます。肉体が義を行ない、主の御心どおりに生きて、主を最高に愛して喜び、神様の御心通りに生きて、聖霊の働きの中に生きれば、自分の霊は輝く霊になります。

神様は天国を作っておかれ、人間たちが神様を信じ、その方が遣わされたメシア・イエス様を信じてその方の御言葉に従順して、みんな天国に来て暮らしなさいと予定しておかれ、人間たちがその御言葉通りに行なって天国に来ることを本当に待っていらっしゃいます。神様も主も時代ごとにこれを先に信じて悟った使命者に叫ばせられました。
神様と主がそれほどにも地獄に行かないで、神様と主を信じて愛して生きなさいと使命者たちを通して叫んでいますが、人間たちはほとんど天国へ行けなくて地獄へ行きます。なぜそうなるのか。主は今日このことを話そうとなさいました。
第一に、神様と主を正しく分からなくて正しく信じないからです。
第二に、信じても世の中へ傾いて心から信じられなかったために悔い改められないことで本当に清潔な人になれなくて、きれいな霊になれなかったからです。
第三に、私たちが神様と主を信じるとき、肉的な患難と苦痛を受けるようになります。これは悪魔が人々の肉体を使って迫害し、惑わして異性で堕落させたり、様々に苦痛を受けさせるからです。これによって神様と主を不信し、自暴自棄させて患難に打ち勝てなくするからです。
第四に、霊界で見るとサタンの霊は、救われて天のために生きる人たちの霊を止めて、主と一体になるのを妨害しますが、このようなサタンに打ち勝てないからです。
大きく二つに分けると第一に、サタンが不信した人たちの肉を通して妨害するので肉的に患難が来ますが、これに打ち勝てないから天国が予定されていても行けないのです。第二に、サタンが私たちの霊を妨害するので霊的に患難が来ますが、これに打ち勝てないから天国が予定されていても行けないのです。これが主がおっしゃる二つの御言葉です。
主は「あなたがたが天国に行くにあたって必ず二つに打ち勝たなくてはいけない。」とおっしゃいました。「肉的な世界から来る患難は肉体で戦って打ち勝つ。そして霊物であるサタンが来たらあなたがたも霊が出て行って戦わなくてはいけないのであって、肉で戦ったら負ける。」とおっしゃいました。肉のことは肉で戦って打ち勝ち、霊のことは霊で戦って打ち勝たなくてはいけません。

私たちが天の国に行くにあたってまたもう一つ戦うべきものがあります。まさに「サタン」です。サタンは私たちの霊に苦痛を与え、悪評し、あらゆる悪いことをし尽くします。サタンは霊物です。肉ではありません。肉に属して肉で妨害することは肉で戦わなくてはいけません。しかし霊界でサタンの霊が妨害をしたら誰が出て行って戦うべきですか。肉体は目に見えるし弱いから駄目です。
サタンは霊なのでありとあらゆることをし尽くします。ある時は背が高く見えるように変装し、ある時は女性に変装します。この世でできないことがありません。霊物だからです。ある時はイエス様に仮装して現れることもあります。詳しく確認しないと騙されます。サタンは前後左右を全て確認しなくてはいけません。
ある時はサタンがイエス様に仮装してある人のところに現れて「私はイエスだ。それなのにお前はどうして疑うのか。信じないなら帰る。私は忙しい。」と言ったそうです。それで「サタンよ!退け!イエスの御名で命じるから退け!お前は絶対サタンだ!」と言ったそうです。するとサタンがくすくす笑いながら行きましたが、その後姿を見ると、後ろ側は暗い色だったそうです。すると突然全体が真っ黒な悪魔に変わったそうです。本当によく確認しなくてはいけません。
主は「サタンが霊で来て妨害し戦おうとするから、あなたがたもあなたがたの霊で出て行って戦って打たなくてはいけないのではないか。サタンが霊で来たらあなたがたも霊で出て行って戦わなくてはいけない。サタンを思い通りにする私イエスとあなたがたが皆一つとなって戦わなくてはいけない。肉も私の兵士になって自分の命を保護し、摂理国のために戦わなくてはいけない。」とおっしゃいました。
このように霊でサタンに立ち向かって打ち勝たなくてはいけないので、主は続けて条件ができて熱心に祈る人たちに現れて啓示して下さり、命令なさり、指示なさったということです。だからみんな証として聞くだけでなく、その御言葉を聞いて悔い改めて行なわなくてはいけません。そうしてこそ自分の霊がサタンに打ち勝ち、主の再臨を迎えて予定された天国に行くようになるということです。
霊は肉より数千倍有能で、数十億万倍速いから、サタンの霊が来るとき、霊の能力で追い出し戦わなくてはいけません。

誰でも信仰生活をすると、サタンは第一に肉に属した人たちを通して肉的に妨害し、第二に霊で妨害します。霊物であるサタン、悪魔は霊体で私たちの霊を直接妨害します。霊界で見るとサタンが、私たちの霊が天国に行けないように妨害し、苦しめ、私たちの霊を殴り、惑わすこともあるし、落胆させて変わったことをし尽くします。そのように数十種類で自分がすべきことをし尽くします。
私たちの霊はサタンと執拗に戦います。私たちの守護天使も来て一緒に戦ってくれます。ミカエル天使長のために祈ってあげ、自分に配置された天軍天使たちのために祈ってあげ、応援してあげなくてはいけません。私たちがサタンと戦うとき、私たちを助けてくれようと天軍隊長ミカエルが瞬間瞬間来て助けてくれて行きます。主にミカエル天使長を遣わして下さいと言えば遣わして下さいます。
御言葉の斧でサタンの頭をめちゃくちゃにぶち切らなくてはいけません。それでも彼らは死にません。「いくらサタンでもそんなに残忍に斧でぶち切るのか。」と言う人もいるでしょう。サタンに一度やられてみてこそその行為がどんなに残忍なのか分かるでしょう。サタンがどれだけ損にならせたのか知らなくてはいけません。私たちがそのようにしなければサタンが私たちにそのようにするということを知らなくてはいけません。
御言葉の斧でサタンの首をぶちきってその頭を完全に叩き割らなくてはいけません。それでも霊なので全く死なず、負けたときは逃げていきます。かわいそうだと思わないで安心してはさみで切って御言葉の剣で切らなくてはいけません。霊界でサタン、悪魔に会ったら戦って完全に打ち勝たなくてはいけません。先生も祈っているときや夢にサタンが現れたらその首を捻じ曲げて、手をつかんで抜き、脚を引き裂き、目を抜き出します。それでもサタンは死にません。ただくたばって、怖くて逃げて行きます。
天の国に行くには悪いサタンと戦って打ち勝たなくてはいけません。主の御名を呼びながら戦わなくてはいけません。主はいつも眺めていらっしゃいます。サタンについて知らない人にサタンは思い通りに影響を与えながら働きかけます。主は私たちがすることをすべて見ていらっしゃいます。サタンは人間に働きかけてサタンの生き方をさせることが目的です。神様を知らずに生きる人たちは結局サタンの生き方をして死ぬわけです。
サタンと悪霊は全て霊物です。霊体です。霊で突っかかり、霊で私たちを苦しめるサタンに、霊で敵対しなくてはいけません。霊で戦わなくてはいけません。それで主はおっしゃいました。
「悪い霊たちが霊で戦うのにあなたがたが肉で戦ったら勝つことができるだろうか。あなたがたも霊で戦わなくては。だから私が霊でサタンと戦いなさいと、深く祈って条件ができる人たちと対話して彼らに教えてやり、啓示を与えてサタンについて教えてやって分からせてやったのだ。摂理史の数百人に啓示してやった。そして残りの人たちは各自悟るように主日、水曜の御言葉を聞かせて、霊が強くなるようにしたのだ。また聖霊を受けさせてより霊的な人たちにならせたのだ。
霊が弱いと数万人がいてもサタンの霊に勝てない。祈ってみんな霊的な人になりなさい。あなたがたの霊がこの時代、私の霊的な強い兵士になって、サタンが来たら滅ぼし尽くしなさい。肉に属したものは肉を強くして敵対し、肉で耐え忍んで打ち勝たなくてはいけないが、霊に属したものはあなたがたの霊が強くなるように祈って神霊になって霊で戦わなくてはいけない。」とおっしゃいました。

主がおっしゃいました。「神様はこの世の全ての人たちが天の国に行くように予定しておかれた。予定されていても、神様を信じて愛して仕え、あなたがたを救う私を信じて御言葉に従順する条件を立ててこそ天国に行くことになる。しかし神様と私を信じてその御言葉を行なうにあたってあなたがたが天国に行けないようにあれほどにも妨害して止める人たちがいるが、すなわちサタン、悪魔たちだ。あなたがたの目にはよく見えないから分からないが、私は全て分かって話す。なぜサタンがそんなにも天の国に行けないように止めるのか分かるか。自分たちは永遠に天の国に行けないから妬み、嫉妬して止めるのだ。」
第一にサタンは、私たちの肉体を通して私たちの霊が天の国に行く条件を立てるから、私たちの肉体を妨害します。サタンは毎日私たちの肉体を妨害します。これからサタンたちが戦争のときのように押し寄せて来るでしょう。みんな一つにならなくてはいけません。一つになってこそ打ち勝つことができます。
私たちの肉体を妨害するにはより肉体を通して妨害しなくてはいけないから、サタンは神様と主を信じない人たちや、信じてもサタンの主管を受けている人たちや、悪評する人たちと無知な人たちの体を使って妨害します。サタンは彼らを通して、私たちの肉体が神様を信じて私たちの霊のために条件を立てるのを制裁し、妨害し、悪評し、悔しがらせ、ありとあらゆる嘘をつき、根拠のないありとあらゆる粗を探して働きかけます。
このように肉体を通して入ってくるサタンは、肉体を通して耐え忍んで攻撃し、不信し、善なる戦いをしてこそ打ち勝つということです。サタンが肉で来たら肉で対抗してこそ勝利します。
第二に、サタンは霊界で、霊で私たちの霊を攻撃します。この時サタンは霊だから肉で戦っては勝つことができずやられてしまいます。肉がお祈りをたくさんして、御言葉にしたがって生きながら、霊を強く神霊にして、主と通じ、主の啓示を受け、よく悟って、霊の能力でサタンと戦って勝ちなさいと言いました。サタンと霊で戦って勝たせるために主は、啓示して下さり、サタンについて教えて下さり、聖霊の恵みを与えて強くして下さるのです。
肉で戦うときも、祈って、熱心にやって自分の霊が力を受け、霊が肉体を助けて共にしてこそ勝つことができるし、主が私たちの肉体をお使いになって共にしてこそ勝つことができます。霊で戦うときも自分の肉が霊を助けて共にしてこそ勝つことができます。
ヨハネの黙示録を見ると、主は「あなたがたは打ち勝ちなさい。勝利を得る者は天国に行く。勝利を得る者はあなたがたのために用意しておいた家を取るようになる。天国に行けば日のように輝くだろう。」とおっしゃいました。(黙3:21、マタイ13:43)。

天国に行くにあたってこのように二つ戦うものがあるから、難しい条件に打ち勝たなくてはいけないということを今日、主が啓示なさっておっしゃいました。主はこの全ての戦いと根本の御言葉を明け方に教えて下さいました。それで摂理史に啓示者たちをたくさん立ててあげたとおっしゃいました。主からこの御言葉を伝え聞いて、みんな信じて行ないなさいと今日の御言葉を伝えてあげました。
みんな霊も肉も強く大胆であってこそ霊と肉が勝利するようになります。霊も肉も主と一体とならなくてはいけません。自分の肉体に属した精神が完全になってこそ霊も肉も新しくなります。気を引き締めて行なわなければ人生を一生生きてもその段階にとどまってそれ以上上がって行けず、抜け出ることができません。気を引き締め、覚悟を固め、強い執念で生きる人たちはどこへ行っても勝利して生きます。精神が正しく生きられない人は死んだ人です。肉は生きているけれど霊が死んだから死んだ人です。その霊が死亡圏に生きているからです。気を引き締める分、霊も肉もその位置に行って生きるようになります。
摂理の中で正常に走っていたのに、試みに陥ったり、世の中へ出て行って暮らす人たちの霊を見ると、その霊がすぐに変わって暗い服に着替えています。その肉も顔から光が消えてすぐに目につき、見る人も心でその状態が感じられます。
救われて天国に行くのは易しいことではありません。天国に行く生き方をすることがどれほど偉大な生き方であり、価値ある生き方であり、成功した生き方なのか知らなくてはいけません。
サタンについて知れば、サタンはその人を避けて行き来し、その目を避けて行き来します。盗みをする人は自分を見分けられない警察よりも自分を見分ける隣の家の子供たちのほうを恐れます。泥棒であると見分けたらすぐに申告するかと思って怖くてその前では思い通りに活動できません。その子供の家は警戒して行きません。サタンも自分を知っている人と自分について教えてあげる人を一番恐れます。
皆サタン、悪魔について学んで教えてあげなくてはいけません。サタンについて分かれば誘惑されないし、霊も肉も打ち勝つことができます。悪に打ち勝たなくてどうやって天の国に行きますか。悪に負けたら悪の世界に行きます。悪を思い通りになさり、サタン、悪魔を思い通りに治められる主に、誰がよりたくさん切に求めて助けてもらい、その力と能力を使うのかにかかっています。
主はただでは助けて下さいません。主にしがみついて行なう分働きかけて下さいます。深く祈って悔い改めの条件を立ててみて下さい。それぞれみんな働きかけて下さいます。サタンに打ち勝つ条件を立てなくてはいけないし、サタンに打ち勝たなくてはいけません。サタンに打ち勝った人はその時から怠けないで勤勉に自分の仕事を行なえばいいです。主を愛することを第1順位に置いて生きなくてはいけません。この時が主と一体となる機会です。
霊界を見れないしサタンの行いを見れない人たちはサタンの主管を受けて、これまで神様と主をよく信じて生きる私たちを攻撃してきました。彼らの行いを見るととてもよく分かります。いろいろ完全でない行いが多すぎて記録することもできません。サタンが人を通して働きかけることをなおざりに思う人たちはまたサタンのところに行くようになり、サタンの主管圏で生きるようになります。

サタンはひとまず人を憎ませ、仲違いをさせ、こそこそ話し、人の間の平和を壊し、あらゆる嘘で悪評し、分からなくて無知な通りに詰問し、自分の固執によって行なわせます。その人の平素の思考、精神、固執、血気、驕慢、主観を利用して働きかけます。寂しい目に遭わせて挫折させます。自暴自棄させます。
心寂しさと疎外感を感じないで天国に行った人はいません。この世で生きてみると、神様にも、主にも、この世の兄弟たちにも心寂しさを感じるようになります。神様と主はそうではないのに、自分が神様と主を完全に分からなくて自らそのように考えるようになるのです。自分が間違って考えたから自分が正しく悟って戻って来なくてはいけません。御言葉を聞いて悟って戻って来るなり、祈って改心して戻って来るなりしなくてはいけません。万物によって啓示なさり、人を遣わして啓示なさる時に必ず戻って来なくてはいけません。
そして上の人にも、下の人にも、友達にも、伝道した人にも、指導者にも、先生にも、心寂しさを感じたら自分が打ち勝たなくてはいけません。話すべき人には話さなくてはいけません。そして調べてみなくてはいけません。一番良いのは、理解して主の御心に従って、自分の行くべき道を行くことです。当事者は実際、自分がその兄弟を寂しがらせたのかよく分かりません。当然自分の性格上行なったことに過ぎないと考えます。だから自分たちが打ち勝たなくてはいけません。この世に心寂しさを感じたことのない人がいるでしょうか。みんな数十回ずつ味わったことです。この御言葉を聞きながら、悪魔から来る考えを全て捨てなくてはいけません。ただ主にもっとよく仕え、自分も祝福されて生きればいいです。

今日話した二つの戦いで必ず勝たなくてはいけません。
第一に、肉で来る戦いである、人を通して来る迫害と苦難は、肉体が大胆に出て行って主と共に、自分の霊と共に、兄弟たちと一つになって戦ってこそ打ち勝つと言いました。第二に、サタンと全ての悪の霊たちは霊で来るから霊で出て行って戦ってこそ打ち勝つと言いました。
相手は男性が出て来て戦うのに女性を出て行かせて勝ちなさいと応援したら勝つことができません。男性が出て来たら男性が出て行って戦わなくてはいけないし、女性が出て来たら女性が出て行って戦わなくてはいけません。
天国に行くにあたって二つの戦いがあって、肉的な戦いと霊的な戦いがありますが、それに対処して打ち勝ち、戦う方法について今日、主は話されました。
ここで終わります。

今は私たちの神様の全知全能な愛と、主の御言葉と、聖霊様の御働きが、御言葉を聞く全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。




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〔2009年9月20日 主日の御言葉〕祈りは行事ではない。生活だ
DATE : 2009-09-22-Tue  Trackback 0  Comment 0
〔本文〕
テサロニケ人への第一の手紙5:16-18


主の平安を祈ります。
新しく来た皆さん、嬉しいです。神様が選んで愛されたので、聖霊によって感動させ、人を遣わして来させました。これをはっきりと悟ってみんな各自神様に感謝すると言って自分が祈り、イエス様にもありがたいと言って、自分をお呼びになった御心のために生きると告白し、感謝しながら御言葉を聴いて下さい。
自分がどうして教会に来るようになったのか、単純に考えれば友人について来るようになったとか、あるいはある経緯によってのみ来るようになったと無意味に思って信仰生活をすることになります。最初から御心をよく分からずに信仰生活をすると無知の中で5年、10年、20年が過ぎるまでよく分からずに生きることになります。
神様が遣わされたメシア、イエス様の御言葉を聴いてその御言葉通りに生き、その霊が永遠な滅亡の世界である地獄に行かず、痛みと悲しみと苦痛がない永遠な喜びの世界である天国に行かせるために、神様が皆さん各自を選んで伝道者を通して連れて来られたのです。これから自分がどれだけ神様を愛してその御言葉通りに生きるのか、自分を救いに来られたイエス様をどれだけ愛し、その方と一体となって生きるのかに、救われて天国に行くことがかかっています。
神様とイエス様が全知全能でいらっしゃるから全てのことをして下さるとしたら、一人も地獄に行かないで、みんな天国に行くでしょう。ところが霊の世界に行ってみると、人間の肉体が死んだ後にその霊が地獄のほうへ行く人が、天国へ行く人より多いのです。少ない人数が天国のほうへ行きます。
神様とイエス様を信じなかった人の霊と、信じても本当に救われようと心から行なえなかった人たちの霊は、悪い霊たちが地獄へ連れて行きます。本当に神様をよく信じてイエス様を愛してその御言葉に従順して生きた人たちの霊は、天使たちが天国へ連れて行きます。ところが天国へ行く人より地獄へ行く人が、比較にならないほど多かったのです。なぜでしょうか。
神様は全ての人たちが天国に行くように予定しておかれました。しかし神様とその方が遣わした救い主イエス様を信じないで、信じても形式で信じた人たちは、義が足りなくて神様がご覧になると「あんな人がどうやって天国で生きるのか。」と言うくらいに天国に行ける人としてふさわしくないから、その行いどおりに死亡へと行くからです。神様がお選びになりましたが、人々が神様とイエス様を信じないで、信じても正しく信じないからです。
神様は全人類を創造なさり、神様の立場で人間たちにしてくれるべきことを全てして下さったし、天国に来るようにお選びになりました。その人を選んでこの世で神様を信じさせても、自分が信じなくてはいけません。全知全能な神様がお呼びになり、メシア、イエス様が救いの御言葉を下さり、聖霊様が感動させて命の道、救いの道を行かせても、誰でも本人が信じず、感謝せず、心と思いと命を尽くして神様と主の御心通りに生きず、ただ教会にだけ通えば、救いの道は行きますが、その義が足りないから天国に行けません。
誰でも自分の置かれた場所がどうであれ、義を行なうのには支障がありません。
神様を尊く思い、主を愛し、聖霊様が感動させるとおりに勤勉に行ない、主の心情を分かって一体となって生きればいいです。
「一体となる」とはどういうことでしょうか。イエス様がこの世にいらっしゃったときに説教なさって「ぶどうの木とその枝が一つになるように、私イエスと一体となってこそ一体となったと言える。」とおっしゃいました。
心も、行いも、霊も主と一体となってこそ、その心が私たちに臨んで、私たちが主の仕事をするようになり、主の手足になり、主の体になって、主の代わりに行なうようになります。だから位置と立場と環境にしたがって、私があなたがたに仕事を与えたらどこででも私と一体となって私を愛することが、義を山のように積むことです。
ダニエル書5章27〜30節を見ると、バビロンのベルシャザル王について出てきます。神様がベルシャザル王の義をはかりにかけたとき、義が足りなかったので彼はその日の夜に死にました。
皆さん!神様は各自の時になったとき、その義をはかりにかけてご覧になります。その時は髪の毛一本の重さほどの義だとしても本当に惜しく貴いと悟ります。だから自分の時に本当に勤勉に義を行なって生きなくてはいけません。神様がお呼びになった日から自分の定まった日に向かってチクタク時計は出発します。一日も、一時間も遊ばないで勤勉に、骨が磨り減ってからだが磨り減るほど走って、肉と筋肉が競走馬のようにがっちりしていなくてはいけません。
肉体が死ぬときも自分の時だと言いますが、神様がそれぞれの人に機会を下さったから、その日が終わることも自分の時だと言います。その日までにできなければ、ちょうど肉体が死んでそれ以上できない人と同じく、時が過ぎてそれ以上できなくなります。時になってはかりにかける前に早く命をかけて義を行わなくてはいけません。自分の定まった時が一日一日誰も分からないうちに迫って来ます。果敢に義を行わなくてはいけません。

今日は「祈りは行事ではない。生活だ。」という主題の御言葉です。
祈りは行事のようにしてはいけません。祈りは行事ではありません。はっきりと知らなくてはいけません。祈りは行事ではありません。祈りは生活です。生活の中で隣の人と対話するように、必要なときにその都度するべきことです。切実な対話、真摯な対話、深い対話、意味ある対話、理想的な対話、切に求める対話、喜びの対話、赦しの対話、心情の対話です。
したい話を洗いざらい話して対話するように、神様と主と対話して、したい時に随時、その時、その瞬間、一日に十回も百回もするものです。行事を毎日、毎時間、数十回ずつ行事をする人がどこにいますか。祈りは毎時間、十回も数十回もするものです。
祈りをそのようにしなければむしろ祈っている途中でサタンに誘惑されるようになり、サタンの餌食になり、自分の足で歩いてサタンの世界へ行くことになります。
祈りは生活になり、人生にならなくてはいけません。順理の人生にならなくてはいけません。
縮小して話します。一日は24時間です。祈りの時間を定めて一時間、二時間の間祈るとしましょう。その残りはするべき話があるのに我慢してその翌日の祈りの時間にするでしょうか。愛する人同士暮らしていくのに一日に一時間、二時間を対話の時間と定めておいて口が痛くなるほど話した後に、その残りの時間はしたい話があってもしないで翌日の対話の時間にするでしょうか。祈りが生活になっていない人たちはこれと同じくしています。
聖書に「すべての事について感謝しなさい、絶えず祈りなさい。祈りは呼吸だ。」とあります。祈りは食べ物と同じです。食べ物は食べたい時に食べなくてはいけないように、祈りもしたい時に随時、切実にするものです。
祈りを明け方にして終わり、徹夜して終わる場合が多いです。生活の中で神様と主にすべき話があるのに祈りの時間外にはしないでいます。みんな祈りの時間を生活化しなくてはいけません。
「生活」とは、何でも生活の中にその時その時必要なとおりに十回も二十回もすることです。手を洗い、体を洗い、話をしながら歩き回り、車に乗り、服を着て、服を脱ぐ等その時その時必要なとおりに合わせてするのが生活です。祈りもこのように必要なときに随時その時その時にしなくてはいけません。行事のように定めた時だけするものではありません。
ある人は深く祈ろうと、条件を立てようと、徹夜をします。そうして明け方の祈りの時に居眠りし、昼に居眠りし、主日礼拝の時に居眠りしているから恵みになりません。
「祈りは行事ではない。生活だ。」この御言葉を覚えて胸に刻まなくてはいけません。これからこのように祈ることにしましょう。明け方の祈りも生活の祈りです。

私たちは信仰の眠りを完全に覚ましてすべきことをしなくてはいけません。主と一体となってこそ眠りを起こした人であり、主を迎える準備をする人です。
よって皆さんが必ずすべき一つ目のことは絶対に主とまず一体になることであり、二つ目のことは100%主を愛することです。
主が救い主でいらっしゃり、主が裁き主でいらっしゃり、新郎でいらっしゃいます。地上にいる人たちはみんな主を待つ人たちです。
主を100%愛して中心にしなくてはいけません。これを中心において守らなくてはいけません。
主は命をかけて真の愛を下さったから真の愛を受けることを願っておられます。絶対メシアを100%愛さなければ、愛の義をはかりにかけるときに足りなくて裁かれ、救いが成されません。信仰もそうです。100%絶対的でなくてはいけません。
この説教を聴いて必ず決心して御言葉通りに生きて下さい。

ある人は「兄弟たちを心と思いと命を尽くして神様と主を愛するようにしなさいと言いましたがどのように愛するんですか。」と訊きます。主を中心として愛し、絶対に主を100%愛してから愛しなさいということです。主最優先で愛さなくてはいけません。100%でなくてはいけません。そういう生き方をしてこそ全てのことにおいて主と通じます。
主を100%愛することもせずに、主に向かうべき愛をどうして兄弟に与えるのかということです。それでは主の愛の杯を完全に満たしてあげて、余ったら兄弟たちを愛しなさいということでしょうか。そうではありません。
王に捧げるぶどう酒なのに王の杯を満たして余るからと言って臣下の杯に注ぐのではありません。王のものは王のものです。餅を作っても王のものは米からして違い、餅を蒸しても王のものは蒸し器からして違います。迷信を信じる人だとしても自分が仕える神に捧げる器からして違います。
ましてや自分を救って地獄に行かないようにしてくれて、天国に行って永遠に生きるようにして下さる王の王であり、主の主でいらっしゃるイエス様に接するのだから差が出るように愛して仕えて尊く思わなくてはいけません。人間に接するように接してはいけません。神に接するように接しなくてはいけません。主に接した心で人間に接したら神格化することです。
必ず主は神として接し、兄弟たちは兄弟の立場と主が使う使命者の立場で接してあげなくてはいけません。ネコに接することが違い、トラに接することが違い、トラの主人に接することが違わなくてはいけません。これと同じく兄弟に接することが違い、メシア、イエス様に接することが違い、万物を創造なさった神様に接することが違わなくてはいけません。
分別の恵みと知恵で神様と主を愛し仕えて生きてこそ、より大きな恵みと祝福を受けて生きます。

マタイによる福音書22章36〜40節
「あなたの心と思いと命を尽くして主あなたがたの神様を愛して仕え、兄弟たちも愛しなさい。」命を尽くして神様と主を愛し、兄弟たちを愛して生きるのが救いの道、永遠の命の道、天国の道です。主と一つとなった道です。そのように生きるのが主の再臨を準備して備える生き方です。
主のこの御言葉を聞くこの瞬間から本当に信じて行なって生きればいいです。
箴言3章6節
「あなたは全てのことにおいて神様を認めなさい。そうすればあなたの道を導き指導して下さるだろう。」
このように生きたら損害を被りません。自分がするから損害を被り、必要のないことをし、必要のない時間を過ごすのです。必ず神様と主に委ね、神様と主を信じて下さい。

皆さんは以前、神様と主に、この世の兄弟たちに、すべきことを全てしましたか。これからしようとしていますか。ところでどのようにしますか。時が過ぎ去ってしまったのに今するというのですか。もう歴史が過ぎ去ったから、その時できなかったことは今できません。ただ気を引き締めて悟ったら今から現実のことを勤勉にしなくてはいけません。
だからその時その時間にしなくてはいけないということです。試みに遭ってできず、迫害されると言ってできず、環境が難しいと言ってできず、あらゆる理由をつけながらできなければできずに終わるのです。試みを受ける中で祝福が訪れます。迫害を受けるとき、困難に遭うとき、地獄のような苦痛の中でも一生の間祈っていたものをもらうようになります。神様が下さろうとしていた祝福が劇的な苦痛の時に訪れます。その時もらえなければもらえません。

今日の御言葉は「祈りは行事ではない。生活だ。」と言いました。縮小して見る時、まるで行事のように明け方に祈ったり徹夜して祈ったり一度だけやって終わってはいけません。対話は一日中、必要なときに随時しなくてはいけないように、明け方は基本であり、神様と主にもいつも祈りで切実に対話しなくてはいけません。
主と一緒に生きていくから随時いつでも全てのことについて毎時間、毎分、祈りで対話しなくてはいけません。神様は「私の家は祈る家だ。」とおっしゃいました。自分が置かれた場所を祈る家と思わなくてはいけません。
愛する神様と主と対話するのにじっと我慢していて環境が良ければその時にするのですか。その時その瞬間すべきです。
神様の御言葉で「私の家は祈る家」だと言ったでしょう。縮小して見る時、祈る家とは、自分の肉体と心を言います。自分の心の聖殿、神様の聖殿、自分の部屋、自分が置かれた場所が全て祈る家です。これを拡大すると自分の民族であり、さらに拡大すると地球の世界です。地球の世界は神様と対話しながら生きなさいと創ってくれた所です。切実に生活の祈りをすることを祝福します。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年9月13日 主日の御言葉>
DATE : 2009-09-16-Wed  Trackback 0  Comment 0
1、私に従いなさい。命が宝だ。伝道しなさい
2、時を守ってこそ時に合うものを得る
3、今は伝道する時だ。聖霊を受ける時だ。主の再臨を迎えるために最後に準備する時だ



本文 伝道の書3章1−11節
   マタイによる福音書4章18−22節


ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
生気が湧く季節がめぐって来ました。人が時にしたがって生きてこそ、ちょうどよい時にちょうどよいことをするものです。1年について見ても、ちょうどよい季節にすべきことをできなければその次の年のその季節がめぐって来てからすることになります。
−春に蒔くべき種を蒔けなかった人は、その次の年の春がめぐって来てから種を蒔くということです。
−夏に海水浴場に行こうとしている途中で準備ができなくて行けなかった人は、その次の年の夏がめぐって来てから行くことになるということです。それも完全に準備してこそ行くようになります。
−秋に必ずすべき紅葉狩りをできなければ、その次の年の秋がめぐって来てからすることになります。それも自分のすべきことを全てしておいて行ってこそ行くようになります。
−冬にスキーをしたり冬の風景を楽しめなかった人は、仕方なく次の年の冬が来たときにするしかありません。
ある人が、あるいはある団体が、あるいはある国が、その時にすべきことをできなかったためにしなくてはいけないからと言って、季節を法則で創造なさった神様が季節をあべこべにしたり、早めて来させたりしないということです。そうすることはできません。季節の時は絶対的です。例外がありません。
今日は主がどんな御言葉をなさろうとして序論からこのように理致にふさわしい御言葉をなさって、理由をつけられないように話されるのか聴きましょう。これと同じく万事がそうであり、命を救う伝道も時があるということです。その時できなければできません。
人々は人生を生きていきながら数十回、数百回ずつ経験しながらも、ちょうどよい時にできなくて失敗し、仕事を失敗し、後悔し、悲しみ、苦痛を受け、恨み、兄弟同士争い、平和にできず、だめだったと言って主を遠ざけて信仰を破船し、主との愛が冷めて聖霊様が感動を下さってもきちんと感じられないということを主が話して下さいました。
主は「どうしてあなたがたは万物の理致を知りながらも人間に行なわれる神様の時と理致に疎いのか。盲人なのか。不倶者なのか。どうしてそんなに鈍いのか。どうしてそんなに愚かなのか。どうしてそんなに分からないのか。どうして気を遣わないのか。」とお叱りになり、心が痛いとおっしゃいました。
主はどうしてそんなにも心が痛いとおっしゃるのでしょうか。主が私たちをこの上なく愛していらっしゃるので、私たちがいつも成功することを願っていらっしゃるからです。私たちは主のものだからです。主のものである私たちが成功することがすなわち主が成功することです。主の新婦であり恋人なので、私たちが成功してこそ主の苦労が無駄にならないからです。主は私たちが成功することを、まるでご自分が成功することのように思われ、毎日、毎時間、私たちを見守って、必要であればして下さいます。
現実だけ見ないで未来を一緒に見なくてはいけません。現実において矛盾したことが積もって未来に迫ってくるということを知り、現実の仕事をするとき、現実において矛盾したことが積もらないように矛盾を解決して仕事をしなくてはいけません。序論で季節の法則と比喩を使って話したとおり、その季節にすべきことをできなければできないように、ちょうどよい時にできなければ誰もできないということです。

主は「時が恐ろしい。時が時である分、その時にしなくてはいけない。」とおっしゃいました。人間が成功しようとするなら、自分の夢を成そうとするなら、一番目に時を知らなくてはいけません。もちろん神様と主を知ることは根本でしょう。知って主の前で行なって成功したことと、知らずに主の御心を外れて行なって成功したことは全く違います。
主の御心から外れて主を離れて行なったことは永遠性がありません。天の国、天国ではその効力が認められないのでその代価を受けられません。またこの世にだけ属したものになり、結局虚無に終わります。だから主の前で時を知らなくてはいけません。信仰の自分の時を知らない人たちが失敗し、苦痛を受け、苦労しても無駄な苦労になり、後悔し、慟哭しました。
自分の時、この時代の時、神様と主が行なわれる時を必ず知らなくてはいけません。知らなければこの時に合う事をできません。時は春なのに夏にすべきことを汗をだらだら流してあらゆる努力をしながらするようになるから、苦労しても夢が成されないのです。時が過ぎると「あの時あのことを先にすべきだったのに・・・」と言って骨身に沁みて分かるようになります。他の人は分からなくても自分は分かるようになります。
だから神様と主の時、すなわちこの時代の時をまず分かるように祈らなくてはいけません。そして御言葉で主が先生を教えて遣わして時を叫ばせるから、主が皆さん各自に指示なさり、啓示なさり、命令なさる御言葉として聴いて信じて行なわなくてはいけません。信じますか。
伝道の書3章に、神様がソロモン王に知恵で語られた御言葉があるからみんな読んでみて下さい。切実に時を悟るときまで読んでみて下さい。
自分の時が来たら、どんな環境でも、どんな困難に遭っても、どんな苦痛を味わってもしなくてはいけません。その時が過ぎると再び季節が巡って来るように来るものもありますが、ほとんど一生に一度しか機会が来ません。本当に時がどれほど大切で貴いのか知らなくてはいけません。
第一に、神様を知ってその方が遣わされたメシア、イエス様を正しく知らなくてはいけません。第二に、自分の時を知らなくてはいけません。自分の時の中に神様の時が入っています。神様を絶対的に信じて神様と一体となり、主を絶対的に信じて愛し、主に頼って委ねることによって、神様がその人に意図された時を知らなくてはいけません。時を知ったなら、食べて、着て、寝ることや環境が問題ではありません。最優先権である主と共にその時にふさわしいことを最優先に置いて必ずしなくてはいけません。そのようにすればまた時になったときに希望が成されて間違いなく得ることができます。ちょうどよい時にしておいて管理するとおりに成功します。全てのことは過ぎし日の苦労の代価です。
神様は全ての人々に祝福をして下さいました。しかしどれだけ自分の時を分かって行なったのかによって祝福が左右されます。神様も主も望まれ、願われて、全ての人々に祝福をして下さいました。神様として基本的に全ての人々に祝福して下さいましたが、時を知らなくて行えず、時を知ってももがいて行なわず、ちょうどよい時にちょうどよいことをできなくて祝福を受けられずに生きている人が多すぎます。これを悟って行なわなくてはいけません。
ちょうどよい時にしなければ、苦痛を受けることもあるし、死ぬこともあります。また自分が現実において働きながら何に注意し何に気を遣うべきか悟ってしなければ、事故に遭うこともあるし、病気にかかるようになることもあるし、苦痛を受けるようになることもあります。

命を救うことにおいても、神様が呼ばれる時があります。伝道も時があります。その時に必ずしてこそ易しいし御心ある人に会わせて下さいます。瞬間の時です。ちょうど列車に乗っているときに伝道すべき人がいるとしましょう。その人が列車から降りるまでに伝道できなければできないのです。
先に季節の話をしたのは、伝道の話をしようとしてしたのです。旬の果物を食べられなければ食欲が出なくてたくさん食べられないし、また高くて食べられなくなります。その季節に種を蒔き、その季節に育て、その季節に取り入れるように、ちょうどよい時にその人を伝道しなくてはいけません。
ちょうどよい時に伝道できなくてその人が列車から降りてしまったらできなくなってしまいます。「あの時すべきことだったのにためらってばかりだったなあ、心残りだ。私はどうしてこんなに自信がないのか。」と言って胸ばかり叩くでしょう。自信がない人は精神が死んだ人です。一生二度と会えない人が瞬間通り過ぎると思って意識しないでしてこそ主が働きかけられます。ほとんど主が伝道者を使って伝道なさいます。実践者だけが勝利し喜びを得るようになります。人生は旅人と同じで、みんな瞬間出会って別れます。その時、会ったときにそのまま通り過ぎて別れたら一生二度と会えない人たちもいます。その場所とその位置で出会うべき人が誰なのかいつも目を覚まして祈らなくてはいけません。宝を探すように人間の宝を探さなくてはいけません。命は宝です。目が痛くなるほど探してこそ人間の宝を見つけるようになります。
主は伝道する人も、伝道される人も、互いに御心ある人たち同士会わせて下さいます。計画的に会わせて下さったのにそのまま通り過ぎて終わり、甘い話をして終わったら、主は心情が傷ついて「あなたは何を見に荒野に出て行ったのか。」とおっしゃいます。いつも自分がどうしてそこに来たのか、ものの言えない人のようにじっとしていないで主に訊いてみて下さい。すぐに答えて下さいますから。今は心情の携帯電話の時代なのに、どうして使いませんか。今は霊的な時代で、主と一体となるべき時です。
主はその人に予め御心があって主の御心に合わせて育ててきたので、いきさつと縁によって関連させて下さり、御言葉でつなげて下さり、対話でつなげて伝道者と伝道される人が互いに融合するようにして下さいます。
互いに話しながら次第に分かるようになると、神様の御心を成すために会ってつながったと分かって驚きます。そしてはっきりと悟ったときは、胸がじいんとして頭にひらめくように悟って神様と主を仰いで讃美し、神様の御心がいっそう分かったと告白するようになります。本人が悟って確信してこそ主の心が休まります。
伝道する前にはお祈りをたくさんしなくてはいけません。霊的に大きく悟り、使命感が湧き、感動が来て、自信があってこそ伝道したい心が生じるようになります。伝道しているときには深い心情で兄弟たちの霊魂について強いお祈りをしてこそ伝道の火が来て、サタンが妨害できなくなり、より強い知恵と情熱によって人の心を感動させるようになり、歴史が起こります。ちょうどよい時に本当に熱心にしなければ一生一度だけ出会える人に会えなくなります。

主も共になさるからこの時が伝道の機会です。主は「時を逃すな。聖霊を与えて私が共にしてあげるからこの時、この瞬間が過ぎれば伝道すべき人に会えず、その人と別れて機会を逃す。この時が過ぎれば本当に最後の機会を逃す。」とおっしゃいました。
みんなこの時が自分の機会であり時です。祈って啓示を受けると言って欲張ると、サタンが働きかけます。今は伝道すべき時です。
列車に乗って行ってみると降りる時になった時に降りてしまいます。一生の間祈って会うべき人が隣りにいるのに黙っています。早く口を開いてこの人、あの人と対話してみれば、主が選ばれた人がどんな人なのか分かるようになります。主が感動させて下さり、対話の中ではっきりと分かるようになります。
そして劇的に祈れば主は夢にも伝道すべき人を見せて下さいます。

先生は地獄の苦痛を味わった後に、地獄に行く人たちが地獄に行って永遠に苦痛を受けることを考えると、平素より千倍も伝道すべき必要性を感じて命を救わなくてはいけないという精神が強くなりました。地獄を味わったことのある人は敵を見ても「地獄に行くやつ!」と言いません。そこから引っ張り出してみます。
伝道することが空のように高い功績です。善いことです。主も伝道しようと伝道者を瞬間瞬間お助けになります。みんな一緒に伝道すればとてもお喜びになります。悪魔が十匹、千匹へばりついて掴んでいる人も一人行って祈って能力を働かせて奪って来なくてはいけません。主はその分能力を下さいます。そのようにすれば主がとてもお喜びになります。今年が過ぎる前にみんな各々一人ずつは伝道できるように主が働きかけるから、勇気と自信を持ってみんなやってみて下さい。機会と時が来たときにできなければ本当にできません。時があります。

伝道の精神を持たなくてはいけません。伝道するには、死亡へと向かう兄弟を自分の恋人と思いながらしなくてはいけないし、恋愛するように好きで喜びながらその命を主のところへ連れて来れば主が大きく働きかけます。主のところへ命を奪って来る人は命の英雄です。伝道をよくやってこそ一人によって数百人も伝道するようになり、数千人も伝道するようになります。

今、人々は列車に乗って数時間走って行くのと同じだから、この時に伝道しなくてはいけません。彼らが列車から降りる前に会って話さなくてはいけません。人々は永遠な希望を探し回ります。ある人は自分を伝道して本当に希望を持って生きるようにしてくれと言います。
みんな伝道者にならなくてはいけません。
全ての人々をみんな伝道しなくてはいけませんが、まずは御心ある人を選んでその人を伝道しなくてはいけません。順序があります。どんな人が宝なのか見分けなくてはいけません。話してみれば感じで分かるようになるし、主に何度も何度も祈って対話してみれば結局夢に見せて下さって分かるようになるし、伝道すべき人が心に感動が来て分かるようになります。
私たちが必ずすべきことは、伝道する時にはじめの愛で対話するように、伝道された後にもいつも変わりなく管理してよく接してあげなくてはいけません。主のように友達にもなってあげ、兄弟にもなってあげ、偽りなく最後まで自分の身のように接してあげなくてはいけません。そしてサタンが奪って行けないように教育してあげ、主の兵士を作ってあげなくてはいけません。主の兵士になってこそ悪事を働く人たちと私たちを悪評する人たちに敵対させることができます。徹底的に教育して教えることで、御言葉の鎧を着せてあげ、主が行なわれる働きであることを分からせなくてはいけません。
私たちの摂理歴史は伝道することにおいて不利ではありません。有利です。神様と主の御心があるし、30年間しておいたことがあるし、雲のような聴衆があるし、叫ぶべき御言葉があるし、自然聖殿の背景があるし、芸術団がいるし、世界50カ国に福音が広がっているから見せてあげるものがあるし、主が直接働きかけられる恵みの歴史があります。不利だと思うと先生も絶対にできません。伝道だけでなく他のことも、自分が不利だと思って行なえば結局失敗するようになります。自分が有利だと思って行なう人が成功します。
伝道するときは聴衆が集まった縮小版の写真を持ち歩いて見せてあげるべきです。神様が起こされた歴史が何であるか見せてあげなくてはいけません。イエス様を証してあげ、各々自分が経験した神様の働きとしるしと奇跡を話してあげなくてはいけません。

祈ることで自分の苦痛も希望に変わるものです。伝道することで神様の御心がなされ、自分の願いも成されます。
機会を逃してからは、いくらしようとしてもその人がすでに過ぎ去ったから、一生二度と会えなくてできなくなります。機会を失うとそれで終わることになります。畑に隠された宝を誰が分かるでしょうか。多くの人々が畑を耕しても、深く折らないからそこに深く埋もれた宝を見つけられないのです。心の畑を深く耕さなくてはいけません。深い対話をしなくてはいけません。天の運に乗ってこそ神様が承諾して宝の主人になります。宝を発見して掘り出した人は嬉しくて毎日喜びます。

お祈りをたくさんしてこそ本当に伝道すべき人を見て心が強く感動を受けて伝道するようになります。知恵者は心を見て喜びます。表面を見ると本当に分かりません。誰が、自分はどういう人だと話して回りますか。本当に地に埋もれた宝は掘り出す前には分かりません。

「今が伝道する時だ。伝道しなければあなた本当に大きな損害だ。伝道すればあなた本当に大きな祝福を受ける。」という主の御言葉を胸の中に刻んで御言葉通りに行なって下さい。
伝道すれば絶望の中で希望が爆発します。伝道しなさいと主がこれまで隠して育てた人たちを勤勉に探して連れて来なくてはいけません。遅れて連れて来たら他の人が連れて行きます。他の宗教から連れて行き、サタンが惑わして見えない死亡の道へとどんどん引っ張って行きます。目に見える時にしなくてはいけません。死の死線を完全に越えて行く前に伝道しなくてはいけません。
先生を訪ねて摂理の道へ来て先生を信じてくれる人も幸せな人であり、天から与える幸福を授かった人です。先生もこの機会に神様の霊を満ちるほど受けようと思います。どこででも条件を立てれば神様の霊は働きかけます。祈ってこそ自分に運が傾きます。
主の平安が皆に満ちることを祝福します。

今は私たちの神様の大きな愛と、主の御言葉と恵みが満ち、聖霊の感動、感化、御働きが満ちて、伝道の火がついてみんな一人、二人、三人、あるいは数十人ずつ伝道することを、三位の御名によって祝福します。アァメン。




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