摂理のほんやくコンニャク
世界の摂理は広い!摂理の海外情報を勝手にほんやくするブログです。
寄稿 文:チョン・ミギョン

ゲームが脳に及ぼす影響

ゲーム産業を奨励する社会
インターネット強国!500万のゲーム族、100万のチャット族!大韓民国のこの地にインターネットがどの国より発達するようになったのは、明らかに神様が下さったプレゼントだ。しかし、刃物を子供の手に持たせるときは、どう使えば有益であり、誤って使う場合どんな問題点が発生するのか事前に徹底的に教育し教えるのが順序であろう。しかしただインターネットを活用する人口を増やすことを急いだまま、それによって病んでいく青少年たちの文化についてあまりにも無責任な大人たちが、今日の多くの青少年のゲーム中毒者を作り出したと言っても過言ではない。
韓国の満3〜5歳の間のインターネット使用人口は50%を超えるという。この年齢でインターネットを接続してできることがあるだろうか。幼い幼児たちまでコンピュータの前に座って「かたつむり捕り」ゲームに没頭していて、子供たちはもうゲームがなければ退屈で生きられない子供たちに変わりつつある。親たちが、幼い年齢でマウスを触って自らインターネットに接続する子供を見て感心しているうち、子供は自分も気づかないうちにゲームが与える魅力に溺れてしまうようになるということを看過してはいけない。子供たちが単純な暇つぶしとして始めたゲームは、年々より刺激的なゲームへと発展するようになり、小学校高学年くらいにもなると武器を使って残忍に相手を殺すゲームを楽しんでいるのが、子供たちの現実だ。
2005年以降、100億以上投資して作ったゲームは10種を超えるが、こういったインターネットゲームに接続してゲームを楽しむにはお金がかからない。メイプルストーリー等の無料ゲームをサービスする会社は、有料ゲームがないにもかかわらず年刊キャッシュアイテム販売等によって上げた収益が3千億ウォンに達し、2004年の全てのベストセラーを押さえて最高にたくさん売られた本が「メイプルストーリー解説集」だというから、私たちの社会の病的な文化の実態を端的に見せてくれる例ではないかと思う。ゲーム産業で外貨を稼ぐ韓国の経済の現実について見る時、なぜ幼児期から無料ゲームを楽しむようになるのか、その答えはそれほど難しくない。青少年たちの教育と人性問題は後回しにしたまま経済の論理によってゲーム産業を奨励せざるを得ない大人たちに、このまま子供たちを任せてばかりはいられない。

ゲームと脳

「人間は聞いたとおりに話し、見たとおりに行ないます。」
学校と塾を行き来する子供たちは、余暇の時間をどのように過ごすのだろうか。韓国青少年相談院の2008年青少年の余暇実態調査の結果によると、青少年たちは学校と塾の生活を除いた余暇の時間の大部分をテレビの視聴(78.9%、複数回答)とインターネット(一日2時間未満55.3%、2時間以上24.1%)で過ごしていた。そして25歳未満の若者たちのうち80%がオンラインゲームを楽しみ、コンピュータを使用する小中高生の10人中3人はコンピュータ中毒だという。
日本の脳神経科学者である森昭雄博士の研究結果によると、「ゲームをたくさんする人の脳波は、痴呆患者の脳波と同じだ。」という。人間の脳の領域は機能面で知・情・意という三要素に区分することができる。いるかのような動物を見ると分かるように、人間以外の動物にも「知」の要素はある。しかし人間の脳と動物の脳を区分する最も決定的な要素は「意」の部分をつかさどる、私たちの脳の前側に位置している前頭葉にある。この前頭葉は人間に最も人間らしい品性を持たせてくれて、多様な知識に照らして最も望ましい表現や行動を判断し、衝動を抑制し、最終的な意思決定を下す良心の高等裁判所のような役割をする所だ。だから前頭葉前部皮質の機能が低下すると、判断力を喪失し、状況や周囲に配慮しない行動が出るようになる。では、ゲームをたくさんする人たちの脳はなぜ痴呆患者の脳と同じだというのだろうか。
テレビやコンピュータゲーム、携帯用ゲームを通しての画像刺激は、ほとんど後頭葉に位置する視覚野を経て、図のように神経回路に乗って伝達される。テンポが速いゲームでも遅いゲームでも、前頭葉前部皮質には信号が到達しない。つまりテレビゲームを通して情報を受け入れる過程には、前頭葉の思考活動がほとんど介入しない。映像に馴れ過ぎた脳を持った人間の類型の場合、ふだん視覚情報を毎度受け入れるために前頭葉をあまり使わない。言うなれば、ゲーム機を操作するときは一つ一つ考えずに機械的に手の動作をするようになり、そうしてみると後頭部中心の神経回路が強くなって、前頭葉前部皮質の脳細胞活動の必要性が減る。従ってゲームをする間、前頭葉はほとんど機能しないが、これは視覚系神経回路の活動があまりにも強力で前頭葉前部皮質の細胞活動が停止してしまったためだ。前に先生は私たちに御言葉の中で「脳は精神のエンジンと同じだ。」とおっしゃった。エンジンに異常があると機械がそれ以上正常に作動できないように、脳に異常があるとすれば当然行動に障害を来すしかないのである。実際に研究結果によると、ゲームをよくする子供たちは、そうではない子供たちに比べて前頭葉の機能が大きく低下して、学習能力はもちろん、小さなことにもよく興奮し、暴力性、攻撃性が高く現れた。そして中毒になった子供たちの場合、ゲームによって家族や友達と対話が減ってうつ病の症状が現れたりもする。
ゲームに中毒になった学生の実例を見ると、1年生の時に成績が80点以上だった子供が、1年間ゲームに溺れた後、3年生の成績は50点台の下位圏から抜けられずにいる。この学生の場合、親とゲームによる葛藤が非常に深刻な水準に来ており、治療センターに通ってみたりもしたが、特別な変化がない状態だ。一日30分から1時間くらいしかしないからといって安心すべきことではない。学年が上がれば上がるほど親の統制は難しくなり、毎日1〜2時間以上ずつやり始めるとだんだんゲームの沼にはまって出て来るのはより難しくなる。ゲーム中毒は麻薬中毒のように禁断症状がひどく現れるため、何よりも徹底した予防教育だけがその解決策である。
2007年上半期に青少年が最も多くやるインターネットゲームの上位20個を見ると「サドンアタック(Suddenattack)」を始めとして、拳や刃物(刀剣類)、そして銃器類を利用して相手方を殺すゲームが80%に及ぶという。こういった暴力的で残忍なゲームを楽しむ子供たちに「むごたらしくないか。」と質問を投げかけると、子供たちは「面白いじゃないですか!ストレスが解れます。」と答える。
数年前ゲームに中毒になっていたキム・イルビョンが同じ軍の部隊の軍人たちにまるでゲームの中の場面でのように銃器を無差別乱射した事件や、昨年バージニア工科大学であった銃器殺人事件、全てゲームに夥しく中毒になって仮想と現実を区別できなかったところから起こったむごたらしい事件だったということを私たちはよく知っている。またわずか1500ウォンのゲームアイテムのために怒って小学校5年生の双子の兄弟が友達を屋上に呼び出し、凶器で数十回刺した事件や、小学生が自動車競走ゲームを真似て他人の自動車を盗んで乗って事故を起こした事件等は、ゲームが脳(前頭葉)にどんな影響を及ぼすのかよく分かる事例だ。
先生は「脳の作用は録音機と同じで録音するとおりに入っていく。私たちの脳は良い言葉を聞き、良いものを見てこそ脳でよい刺激を受ける。」とおっしゃり、人が見る通り、聞く通りにどんどん考えが変わって行動するようになるのだとおっしゃった。
10代たちはこの民族のビジョンであり、天の歴史の希望だ。「彼らの精神に何を入れるのか、彼らの脳に何を入れるのか」について私たち大人は頭を突き合わせて深刻に悩むべきだ。水準の低いテレビの画面は親たちから果敢に消してしまおう。大人たちから私たちの子供たちの見本にならなくてはいけない。少なくとも親がゲームを楽しんだりテレビの前に気をとられている姿を見せるなら、それ以上子供たちに話せることがなくなる。そして必ず必要な場合でなければコンピュータの前に座っているようにするよりは、家族たちと対話し、読書をするようにしたり、汗を流して外で健康に跳び回るようにすべきだ。結局、子供たちに何を聞かせてやり、何を見させるのかは、彼らを養育する親の任務であり、この時代の御言葉を聴いた人がすべきことだ。
ご飯を盛るなら茶碗、水を入れるならコップ、師の御言葉と教えに従ってひたすら私たちの頭の中には神様の愛と精神、キリストの愛と精神で満たさなくてはいけない。夢がある人は人生を浪費しない。10代!何を見て何を聞き、何を考えるのかによって人生の成功と救いが左右される。私たちの人生、私たちの子供たちの人生、誰に使われることを望むのか。




摂理の月刊誌「チョウンソリ」2008年10月号より
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CATEGORY : 御言葉
〔2009年10月25日 主日の御言葉〕この上なく私と命を救おう、私があなたと共にしよう
DATE : 2009-10-26-Mon  Trackback 0  Comment 0
〔本文〕
マタイによる福音書4:18−19
マタイによる福音書4:23−25


ハレルヤ!主の平安を祈ります。
10月の最後の主日です。時間が秋の雲のように速く流れて行きますが、広い世の中でせわしく行ったり来たりしながら生きている皆さんはどれほど時間が速く過ぎるでしょうか。
それでも明け方から走っているから数時間より多く得て生きていても時間に追われるでしょう。最近は、夜は長く昼は短いから、あのこと、このこととやってみるとすぐに時間が過ぎて日が西の山に傾いて暗くなります。
今年もクリスマスの期間を除いてみると50日余り残っています。
今、私たちは2009年の終わりに立っています。この年の太陽が西の山にゆらめいています。

死亡へ行く命を導いて来るときは、伝道者の胸に聖霊の火が落ちます。
自分ひとりだけ最後の聖霊と恵みの宴会に参加しないで、必ず一人ずつ連れて来てチョンチョウし、心の門を開かせてあげ、時代を悟らせてあげ、その人と共に聖霊の宴会に参加しなくてはいけません。
主が育ててきた人に、主と共に会わなくてはいけません。
初めて信仰を持つとき主は伝道者にも、伝道される人にも奇跡を見せて下さいます。
まるで自分の願いを成就するように伝道することを主に求めてこそしるしが起こります。
信じますか。
門の外に出て行きさえすれば伝道すべき人です。

「主よ、今年一年だけ待って下さい。」と言いました。もう「50日余りだけ待って下さい。」です。聖霊の実を結ばなくてはいけないし、伝道して命の実も結ばなくてはいけません。
主に祈って主と一緒に行けばすぐに伝道します。命を救うのに何をぐるぐる遠まわしに言いますか。主の御言葉を伝えてあげれば良いでしょう。一人いても、千人いても、御言葉で溶けます。恋愛する人たちが動物の話でもして、食べる話でもして、哲学の話でもして、成功した話でもしていていいでしょうか。愛の話をすべきでしょう。
今は一人を10人、100人のように思うべき時です。毎日主に祈り、伝道のために祈り、そして主と一緒に伝道すべき時です。
主が用意しておかれた人たちがいます。探してみて下さい。探せば聖霊で感動を受けて主が働きかけられます。アマゾンの川辺の密林に暮らす原住民たちも伝道するのに、どうしてできませんか。
伝道すればしるしが起こります。聖霊を受けて伝道し、彼らも聖霊を受けさせてあげなくてはいけません。

ある教会で説教の前に50代のある男性がギターを持って恵み深く讃美を歌っていました。実に感動的でした。その人は讃美三曲を歌って自己紹介をしました。不治の病で6ヶ月しか生きられないという診断を受け、「これからこの世で何をすべきか、6ヶ月が過ぎれば死ぬから、ただ天国へ行くことにだけ気を遣おう。」とずっと祈りながら神様だけ讃美して暮らしたそうです。
ところが6ヶ月が過ぎても死なないので、死ぬ日まで伝道しようと決心したと証をし、死ぬ前の切実な話をしてあげながら、感動的な歌詞を付けて歌を作ってギターの演奏と共に讃美を歌って回ったそうです。自分の死ぬ日までいくらも残っていないから死の敷居であなたに永遠に残る救いを伝える、と言うと、人々が信じてうなずいたそうです。
「今月死ぬだろうか、来月死ぬだろうか。」と思ったけれど、ずっと伝道して回ってみると、現在さらに8年生きていると言いました。彼は、主が伝道する期間を与えたのだと思って讃美しながら伝道するから命を延長して下さったと感激し、恵み深い聖霊の熱い働きを味わわせました。彼は歌もたくさん作って歌いました。
命を救う価値がそれだけ大きいです。
人間は極に直面して生きてこそ変化します。このように伝道して命を生かしてあげれば、神様と主もしるしを起こして下さいます。みんな死の宣告を受けたと思って生きてこそ10倍も気が引き締まって行うようになります。

ハワイに女性勧士と長老の夫婦がいます。奥さんが肺がんで苦労して死に掛かっていたとき、牧師の祈りを受けて治ったと言いました。ところがその後にまたタバコを吸って健康管理を疎かにし、がんが再発して死んだと言いました。
九死に一生を得たのに、そこまでタバコをがまんできなくてまた吸ったなんて。二度とタバコを吸わないようにと繰り返し頼んで、死ぬまでタバコを吸えないようにしました。
皆さんの肉体も霊魂も主が死亡圏から生命圏へ導き出しておかれたのに、我慢できなくて再び死亡圏へ行ったらハワイの勧士のようになります。主が皆さんをサタン圏の死の落とし穴から出て来させて下さったから、どうか耐え忍んで主の仕事をしなくてはいけません。
タバコを止められなかったなんて。自分の命を生かすのにタバコが問題ですか。愛が問題ですか。お金が問題ですか。自分の癖と肉性が問題ですか。眠りが問題ですか。眠りを断つことができなくて明け方の時間をサタンに奪われ、お金のせいで命を奪われ、自分の主観のせいでイエス様を奪われ、世の中のために天国を奪われていいでしょうか。
タバコのせいで肺がんが再発して命を奪われたという話を聞いて、他人の話として聞かないで、自分もそうかとよく見てみて下さい。自分の性格、時分の癖、自分の肉性のせいで聖霊の恵みを奪われ、職務を奪われることになります。主が持って行かれるのです。みんな精神をぐっと引き締めてやらなくてはいけません。
健康をしっかり備えなくてはいけません。

新しく来た皆さんは「また誰かを通して神様がお呼びになるだろう。」と思わないで、今この時に自分の命を永遠に生かさなくてはいけません。この時に神様が最後の機会としてお呼びになったと思って勤勉に御言葉を聴いて熱心にやって下さい。
ある人は高校生のときに伝道されましたが、そのとききちんと信じられなくて出て行って結婚し、15年ぶりに再び戻って来たと言いました。神様がお呼びになったときにきちんと使命を果たせなければ、10年後、20年後、30年後に一度お呼びになります。良い歳月が過ぎてから来たのです。残念です。苦労してもこの世でよくやって天国に行かなくてはいけません。だから伝道された人たちは自分が自分の霊魂と肉体のために心と思いと命を尽くして主の御言葉を聴きながら立派に成し遂げなくてはいけません。
信じますか。

使命をもらって働く人たちはみんな大変ですが立派に成し遂げなくてはいけません。皆さんが住んでいる国で伝道して宣教することは天国です。ある宣教師は主の発令を受けてアマゾンの密林へ行って宣教します。言葉が通じない原住民たちの間でマツケムシを捕って食べながら宣教します。アナコンダ蛇にかまれたら死ぬこともあるし、スズメやバッタに食われながら、おびただしい蚊に食われながら宣教します。
毒虫にかまれて倒れながら、服も着ないで暮らす恐ろしい人たちと一緒に食べて寝ながら福音を伝える人たちのことを考えてみて下さい。あるときは原住民たちの目の色が変わると宣教師を捕って食べるそうです。そんな環境で言葉も通じないのに伝道して聖霊が満ちるようにしてあげ、救って天国に行かせてあげます。
そういう人たちのことを考えるとき、私たちは地上天国の環境で主の福音の使役を果たしているのです。数千年文明が遅れている人たちも福音を伝えると聞いて信じることで天国に行って暮らすのに、現代人たちは神様とイエス様を信じても自分の思い通りに生きるから、彼らにも劣る人たちだと言わざるを得ません。
私たちは同じ国で言葉が通じる人たちを伝道するからどれほど有利ですか。

肉体が死んでも霊魂を生かすには、神様と主を信じて生きなくてはいけません。
主は私たちに対する始めの愛を失っていらっしゃいません。今も前と同じです。
しかしある人は、自分が主に対する始めの愛を失って生きているから、主も失ったと思って心の勇気を失った人もいます。主はいつも始めの愛で接して下さるから、皆さんも主の前に始めと同じくして下さい。
皆さん聖霊の宴会に参加して聖霊を満ちるほど受けることを、主の御名で祝福します。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年10月18日 主日の御言葉>
DATE : 2009-10-21-Wed  Trackback 0  Comment 0
主の名を呼びなさい

本文 使徒行伝2章21節
   使徒行伝4章12節

使徒行伝2章21節 『そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』

使徒行伝4章12節 『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』

ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。

今日、主が下さる御言葉は「誰でも私イエスを呼びなさい。そうすれば救いを得るだろう。」です。

世の中の人々を見渡します。彼らは誰を呼びながら生きていますか。誰を呼びながら救われようとし、誰を呼びながら成功しようとしていますか。どうして全能者、神様と主を呼ばずに他の人や偶像の神を呼んで天の国、天国に行くことができるでしょうか。

イエス様が遣わされた使命者たちに従って主の前に来て、主を信じて救われることは、理致に合う話ですが、自分が救うと言ったり、まるで自分が天国の主人として天国に入らせるかのように、自分に仕えなさいと言う人たちは全て人間偶像です。天下にイエス・キリストの他には神様が時代を救う救い主としてお遣わしになりませんでした。

騙されないで毎日主の名を呼ばなくてはいけません。しかし主を、しもべを呼ぶように、使いを呼ぶように、必要なときだけ呼ばないで、威厳と尊敬と愛で仰ぎ見て呼ばなくてはいけません。助けのために、救いのために呼ぶこともありますが、さらには主の心情を慰めて差し上げ、力になって差し上げ、頼りにならなくてはいけないのです。主の心情を知る人は主が「真に愛する人」だとおっしゃいました。

主の名を呼ぶことも習慣になってこそ呼びます。習慣にならなければ、ある問題があるときだけ求めます。主を呼ぶ理由もいろいろあります。救いのために呼び、愛するから呼び、辛いと言って呼び、好きだと言って呼び、助けて下さいと言って呼び、感謝しますと言って呼び、何かを尋ねるときに呼び、祈るときに呼びます。このようにみんな良い習慣になって、精神と霊魂に良い体質が身についてこそ、ことごとくいつも主を呼ぶのです。

呼ぶときに自分の事情を主に詳しく告げなくてはいけません。また一つ一つ悔い改めてこそはばかることがありません。サタンが詰問できないようにきれいに告げなくてはいけません。思い出せないなら、聖霊を受けて深く祈って聖霊の感動を受けて下さい。そうすれば霊魂、心の中にあることまで思い出されるので、そのときに告げるのです。

今、私たちは世の終わりに立っています。明日のことを分からないから毎日数千回ずつ主を呼ぶべき時です。生活の中でもいつも呼んでサタンが来れないようにしなくてはいけません。エホバに会える時に求めなさいとおっしゃったから、主が近く来られた、まさにこの時に呼び求めなくてはいけません。主は呼ぶとおりにその言葉をお聞きになり、その行いと姿を全てご覧になっています。

ところで人々はこの時代がどの地点まで来たのか話しても、その時だけです。祈り続けて主の心情を受け、聖霊で熱くしなくてはいけません。聖霊が心を感動させるときに動いて行動し、昔の位置の生き方をさっと捨てて離れなくてはいけません。

将来に押し寄せて来る患難を考えてみて下さい。恐ろしく想像もつかない、聖書で言ったあらゆる患難が私たちの前に迫って来ています。まるで幼いおちびちゃんたちが海辺で夢中になって遊んでいるときに、数百メートル先から40〜50mの高さで波が押し寄せて来るのを見ているのと同じです。

原子爆弾が爆発する一日前にさえ分かっていたなら、誰がそこにいたでしょうか。ある車が事故に遭う車だということを分かっていたなら、誰がその車に乗ったでしょうか。墜落する飛行機であると分かっていたなら、誰がその飛行機に乗ったでしょうか。奇岩絶壁から落ちるということを分かっていたなら、誰がその日、登山に行ったでしょうか。ノアの時代にあのようになると分かっていたなら、船に乗らない人がいたでしょうか。ロトの時代にあのようになると分かっていたなら、ロトと一緒にソドムとゴモラの町を抜け出さない人がいたでしょうか。

ただ避け所になられるエホバ神様と主を心から呼んで避けなくてはいけません。この時代の人々はノアやロトの時代と同じく患難の前日までも、その日その時間までも自分がしていたことをそのままやっているうちにその日を迎えることになるでしょう。

ところで、ある国は主権者の主権と統率に縛られて信仰の自由がないため、思うままに神様とイエス様を信じられずに生きています。それでは無神論者、独裁者、悪い主権者たちの下で生きている人たちは余りにも無念でかわいそうなので、「どうして神様は彼らを50〜60年以上そのままにしておかれるのだろうか。」「全知全能な神様が『彼らを信じないで私を信じなさい』と一言だけおっしゃればみんなひっくり返るだろうに、どうしてそのようになさらずにやきもきなさっているのだろうか。」と考えが深くなりました。

こんな考えが結局人々に「神様はいない」と言ったり、あるいはことを解決してくれる人を見て「見える人が最高だ」と言い、「大国が力があり、主権者が能力者だ」と考えさせるのだと理解できました。自分が困難なときに神様を呼び求めたけれど助けてくれなかったから信じなくなった人たちもたくさんいます。

しかし神様とイエス様を信じるのは、ある困難な問題を解決してもらうためより、霊魂が救われるためであり、これが根本です。神様の全知全能さは、ただ神様の御心のための全知全能であって、人間が願う意向のための全知全能ではない、と主は話して下さいました。人間が願うことばかりをしてくれていたら神様の御心を成すことができません。

神様は人間が自ら信じるように責任をお与えになったし、また神様を信じなくて罪を負ったらその罪の代価を受けることになり、結局その罪の代価によって永遠な苦痛の世界に行くことになります。

それなら悪い主権者の下に生きている弱者たちは彼らと一緒に死亡の道へ行かなくては行けないから本当に無念ではないでしょうか。父の罪によって子供たちも一緒に苦痛を受けることになり、民族の権力者と主権者たちの罪によって民たちも一緒に苦痛を受けて地獄の生き方をすることになるのです。

だから今日の御言葉で「神様を呼びなさい」と言ったのです。主権者たちや強者たちを通して受ける苦痛が悔しいから、神様を呼べば解決してあげようとおっしゃいました。北朝鮮も隠れて信仰生活をしています。中国も宗教の自由がないようですが、福音を伝える人たちと教会があって信じる人たちは自分が望めばみんな信じています。

今このとき私たち皆は主の名を呼ばなくてはいけません。最後まで呼ぶ人は万事うまくいくことを信じます。主を呼べば霊肉で必ず願っていることが解決されます。




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CATEGORY : 御言葉
〔2009年10月11日 主日の御言葉〕1、この時代もノアやロトの時代のように、それと同じくそうだ 2、遅れるな、主がせきたてて導き出される時に早く行いなさい
DATE : 2009-10-16-Fri  Trackback 0  Comment 1
〔本文〕
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17



ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。

今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。

人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。

この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。

神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。

今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年10月4日 主日の御言葉>
DATE : 2009-10-07-Wed  Trackback 0  Comment 0
1、神様と聖霊様とイエス様が現れるとしるしが起こる
2、見える人を中心にせず、自分の肉体と考えを中心にせず、自分の霊がただ主と相談して行ないなさい


本文 ローマ人への手紙8章5−11節
   ヨハネによる福音書6章63節
   ヨハネによる福音書11章43−44節

ハレルヤ!主の平安を祈ります。今日初めて来た人たちと、教会に来て間もない人たちと、早く来た全ての人たちは、本当に神様と主が現れることを願いますか。その出会いを自分の人生の最高の希望と思いますか。一国の王に会うのも難しいのに、救い主イエス様に会うことになるならどれほど幸せな人でしょうか。
神様と聖霊様と主は全ての人々に会って心を話したいと思って一日を千年のようにやきもきして待っていらっしゃり、条件を備えた人をお探しになっています。それほど人々に会うことを願っていらっしゃるのになぜ皆に現れないのでしょうか。備えるべきものを備えて条件ができた人に現れます。今この時間にも御言葉で現れて前に来ていらっしゃいます。そして御言葉を送って私たちがどのように聞くのかご覧になっています。
主が各自に現れる状況はいろいろです。人間が切実に求めるときに現れ、ある困難に遭ったときに現れ、愛するときに現れ、行事のときに現れ、栄光を帰すときに現れ、礼拝を捧げるときに現れ、孤独でわびしい時に現れ、病気にかかって苦痛に遭うときに現れます。そして神様も、主も、聖霊様も、時に従って必要なときに現れます。
主は条件ができた人をお探しになっています。主は摂理の全ての人たちに、各教会に、各民族に、各個人に、話したいことを話して下さり、その心情と心を話そうと、祈りの条件、悔い改めの条件、きれいな条件、主の愛の条件ができた人をお探しになっています。
主に会うには「主が願われる条件を立てて主を呼んで求めなくてはいけない。」と言いました。主に会った人たちの話を聞いてみると、長い間条件を立ててきた人たちでした。ある人は主がその人に必ず会ってその人を通して仕事をしなくてはいけないから会って下さることもあります。
ある人は主のやきもきする心情を分かってあげ、その御言葉をはっきりと悟って切実に祈って主を求めると、主が「うん。あなたは心を分かってくれるんだ。あなたが私の心と心情を分かってくれるから私の心があなたの心と一体になってあなたのところに来た。」とおっしゃって、「あれほどにも御言葉を通して私の心を話してあげ、啓示者たちを通して話してあげたのに、人々は私の心を分かっていない。真に悟って分かっているのか私は見てみれば全て分かる。真に私の心情を分かってくれてこそその人と対話をすることができる。」とおっしゃったそうです。そしてこれからどのようにしなさいと教えて行かれたそうです。
主の心情は数十種類、数百種類に現れます。また数十種類、数百種類に主が話そうとされることがあります。主は該当するものを備えた人に現れてそれについて話して下さいます。

主を信じながらも、主が自分をどれほど愛しているのか分かっていません。主を信じない人たちは、自分が信じないから主が自分をそんなに愛していらっしゃると考えられません。主はご自身の体を与えて私たちを買いました。だからご自身の体のように全ての人々を愛していらっしゃるということを知らなくてはいけません。
主はご自身の体を与えて万民のために代わりに死んで下さったために肉がないので、ご自身の体を与えて買った肉体を使って働きかけられます。だから私たちの肉と霊をどれほど尊く思って愛していらっしゃることでしょうか。一度考えて分からなければ二度、三度考えながら、主が私たちをどれほど尊く思っていらっしゃるのかその心情を悟らなくてはいけません。
主がお使いになる体をサタンが引っ張って行き、惑わして行っても、人々は分からずに生きています。また神様と主が天国を予定してみんな来るようになさったのに、知らないから自分の思い通りに生き、知らないから偶像に仕えて生きています。それによって死んだ後に良い世界に行くと思って、この世に生きるときも大きな祝福を受けると思って生きています。また暫しいて離れるこの世でもがき、そこに全ての人生を投資し、あらゆる物質を投資しながら生きています。主がこれをご覧になって本当にやきもきしながら見ているのに分からずに生きています。
10000分の1%も永遠な地獄に行って苦痛を受ける必要はありません。サタンと悪い霊たちの惑わしと主管を受けて肉体がそういう方向へ生きてその霊が地獄へ行く人たちが多すぎて、主は一日にも雲のように多くの人々が地獄へ落ちるのをご覧になっているそうです。
このように主はやきもきする心と愛の心で人々に接し、私のところに来なさいとおっしゃっているのに、人々はその心情を知らずに生きています。自分が主にして差し上げたこともないし、善良なことをしたこともないし、また主を信じても特別な存在ではないのに主が本当に自分を愛して好きだと言うから理解ができません。
摂理人たちもこれを再び悟って伝道し、新しく来た人たちもこれを悟るようにしてあげなくてはいけません。だから主が私たちを愛されるように私たちも主を愛さなくてはいけません。そうしてこそ主が訪ねて来て対話なさいます。
先生も神様と主の歴史を30年間広げてきながら、全ての人々をそれほどにも尊く接して愛で接してあげました。その時、人々は、自分のような人を何を見てそんなに尊く接して愛で接するのか分からないと言って、むしろ負担だと言って遠ざけたりもし、異性的に考えていると言って誤解し、自分なりに他の人たちに話もして噂を立てたりもしました。
ある時はある女性が御言葉を学んで修了した後に私のところに挨拶しに来ました。美しい顔にハエがくっ付いていたので私の手が伸びたら、その女性は「どうしてこんなことするんですか。こんなことしないで下さい。」と言いました。ハエが逃げて行ったから証人もいませんでした。汚いクソバエがくっ付いていたから追い払ってあげようと手が伸びたと言うと、その女性は自分の主観で考えました。その後、近くでは見えませんでした。下品なハエのせいで一人の命が誤解しました。ハエのせいで私の手が伸びたのに、誤解したのです。そういうことが多いからうまくやらなくてはいけません。
先生がよく接してあげるとある人は「感謝します。私も神様と主を愛して先生も愛します。」と言いながら青春が老いるのも気づかないほどに生きてきました。ある人はよく分からなくて「かっこいいしきれいだから愛するんだろう。」と考えたりもしたし、ある人は「私を摂理で使おうとして尊く思うんだ。」と考えました。ある人は「伝道して信者が多くなるようにしようということだから、当然だ。」と考えたりもしました。
これまで先生は食べる物もまともに食べないで、着る物もまともに着ないで、あらゆる迫害と無念な思いと濡れ衣を着せられながらも、じっと我慢して、ひたすら尊く思ってあげ、愛してあげました。主が血で代価を払って代わりに死んでくれて、天国へ行くように予定しておかれたから、永遠に歯軋りしてあらゆる苦痛を受ける、サタンと悪い霊たちが暮らす地獄に行かないで、地上で主を信じて愛し、主の肉体になって祝福されて生きて、天国に来なさいと、主は先生を通してそのように愛して下さり、気を遣って下さり、事故や害を被らないよう守って下さったのです。もう悟りましたか。

人の美しさも、名誉も、毎日虚しくあの空の浮雲のように流れて行きます。主は私たちの肉のためにそのように愛して下さるのではありません。永遠に存在する私たちの霊のためにそのように愛されます。私たちの霊のためにそのように犠牲になり、愛されるのです。私たちの霊が地獄に行くかと思って主がそのようになさっているから、私たちも霊のために悟って生きなくてはいけません。これだけ悟って主に告白しても主は「私の心情を分かっている。」とおっしゃって直ちに来られます。
この時間以降、悟って心で告白してみて下さい。主から「そうだ。」と一言でも答えが来るでしょう。これを分からずに誤解して摂理の懐を離れて行った人たちと、特に関心なくついて来ていた人たちの最後がどのようになったのか見て下さい。またついて来たとしてもこのような根本を知らずについて来た人は成長しませんでした。
主は啓示者たちが心情を分かってくれるから「私の心情を知らずに肉でだけ信仰生活をしていて、引き上げられず、地上に残って患難と迫害を受けて地獄へ行けば、その時行って歯軋りしながら後悔するだろう。メシアである私も、この世の私の時が終われば背を向ける。私が背を向けた後にはいくら呼んでも見ることができない。各自に十分に機会を与えたのにやらなくて終わったのだ。だから呼んでも何の役に立つだろうか。」とおっしゃったそうです。
肉体が老いて年をとったからと言って気を緩めないで下さい。主は霊をご覧になってもっと働きかけられます。霊は非常に若いです。
人々はなぜ全知全能な主が自分をそんなにも愛するのか分からずに生きています。分からないことも罪です。親や自分の恋人が、自分が何かをしてあげたから、功績があるから愛しますか。何の功績がなくても親や恋人は愛で生んで育て、愛するものです。神様も主もそうです。神様と主が下さる愛を受けられなくて、後になって後悔し、滅亡するこの世の愛を受けてはいけません。
神様は全ての人々を子供として選んでおかれ、地獄に行かないで天国に来て生きなさいと愛して下さいます。
主が「私の肉体を渡してあなたがたのために代わりに死んであげたから、あなたがたは私のものであり、私の新婦たちだ。サタンと悪魔と悪い人たちが私を十字架で殺したから、私が伝えようとしていた天国の福音を伝えられなかった。だから私の言葉をよく聴いて伝えてあげ、サタンを滅ぼし、悪人を悔い改めさせながら、この世で祝福されて生きて、天国に来て永遠に喜びで生きなさい。この世で私の仕事をしていてやりたいことができず、享受できなかったことを、天国に来てすべてもらい、享受しなさい。」とおっしゃいます。
主はそのまま放っておいたら特に価値もない人々をそれほどにも愛していらっしゃいます。この全ての御言葉は主の啓示の御言葉で、説教で解いて伝えてあげているのです。
ある啓示者に主が啓示なさった内容を見ました。その人に罪があってサタンが引っ張って行こうと詰問したそうです。主がご覧になって、そのままでは引っ張って行かれるのでご覧になりながらその人にどのようになさったのか、啓示の内容を送ってきました。
その人が悔い改めをしましたが、悔い改めるべき期間までに全てできなかったのです。だからサタンが少し残っているその罪の条件によって何が何でも引っ張って行こうとしたそうです。そのとき主がサタンに「サタンよ。そのままにしておけ。そこに置いておけ。その残った罪は私が責任を負う。」とおっしゃり、その罪をまた引き受けて代わりに十字架の苦痛をお受けになったそうです。
罪を悔い改めてこそ主が代わりに十字架を負われません。だから主は「どうか自分の罪を悔い改めなさい。私の苦痛のために赦してあげる。」とおっしゃいます。主は生きていたとき肉的に十字架を負われ、死んだ後にも私たちの霊を生かそうとして霊で十字架を負ってまた苦痛を受けていらっしゃいます。主を愛するなら罪を悔い改めてその心情を分かってあげて生きなくてはいけません。そういう人は主に十字架を負わせない人で、主がこの上なく愛されお喜びになります。

主はおっしゃいました。
「私と通じる人は自分の考えと主観、肉性を全て捨てた人だ。私は幼子のような人たちのところに行く。天国は肉性があると行けない。肉性のせいで天国に行けなかったらどんなに無念だろうか。自分の肉性を葬りなさい。そうしなくてはいけない。霊で考えてこそ私と通じる。私を優先権にしなさいと言ったのに教役者たちも、また教団に立てた人たちも、各機関も、まだ自分の考えを優先権にして決定している。私の意見と私の考えを訊いてみなさい。一時間も二時間も祈って私の答えを聞かずにどうして自分の肉の考えで決定するのか。良い意見は全て受け入れてまとめて報告し、決裁を受けて行ないなさい。」とおっしゃいました。
それで先生は主に、肉に属した人たちが分からないから、これから霊に属した人たちを立てて主がその人に啓示なさって相談して決定させようと相談しました。
主は「それでは、肉的な人たちの結果がどうなるだろうか。直して霊に属した人になってこそ天国に行くのではないか。肉が霊の考えに新しく変わらなくてはいけないのではないか。一年だけ待って下さいと言ったのではないか。自分が全ての肉性と肉に属した考えを殺し、霊に属した考えをして私イエスの考えをしなくてはいけない。誰でも個人も、教団も、各教会も、各部署も、全世界みんな、集まって会議をするならそのようにしなくてはいけない。」とおっしゃいました。
主はこれを啓示者たちを通して指摘したりもなさいました。みんな主を優先権にするという概念だけ持っていて、決心だけしているからです。実際に行なうときは見たり聞いたりすることに考えが向かって、考えと自分の肉性で行なっています。こういう人は自分優先の人です。霊の考えを持って主の考えで絶対に主最優先にしなくてはいけません。

主は「祈りだけが対話か?明け方に私と対話した人は昼にも私と対話すべき人だ。」とおっしゃいました。主は啓示者たちに「私は全世界の人々がすることをすべて見ている。」とおっしゃいました。天使も全て記録します。
ある人は「世の中に主を求める人たちが数え切れないほどたくさんいるのに、明け方のその短い時間に主が何人も直接会って下さるのか。」と言います。啓示を受ける人たちがそれぞれ啓示を受けた時間を書いて先生に送りましたが、ほとんど同じ時間に受けた人たちが多いです。
主が下さった啓示を記録すると、ある人は30分かかり、ある人は2時間かかったりもします。手紙を少し長く書くときも明け方まで校正して再び補充して書くと本当に時間がたくさんかかるでしょう。
先生もこの御言葉を朝から書いていますが、今、午後5時近くになっています。主に、土曜日の午前に書き終えると大きなことを言いました。笑いながら、午前に御言葉を書き終え、午後には校正し、残りの時間は手紙を書いて決裁すればいいと言いました。主はすでに全てご存知で、できないとおっしゃいました。良くおっしゃっただけです。しかしまだまだです。祈りの時間にも祈らなくてはいけないから、明日の午後までにしてこそ校正まで終わります。説教も一冊の短い本です。
啓示を受ける時間について話したでしょう。同じ時間に主が下さった啓示が同じ内容であれば、数百人でも数千人でも同じ時間に受けることができますが、その内容を見るとそれぞれ異なって啓示して下さいました。いつか、同じ日にち、同じ時間に啓示を受けた人が3人くらい出て来て話してみて下さい。同じ時間に受けた啓示なのに不思議に内容は異なります。
主は「百万人でも一千万人でも条件ができればそれぞれ同じ時間に啓示してやることができる。」と言いました。他の霊たちは主が使命を下さればある程度はしますが主のようにはできません。しかし主は霊でいらっしゃり、全知全能な三位体なのでなさいます。だから摂理人たちが多いからと言って同じ明け方の時間に主が自分に啓示して下さることはできないと心配しないで下さい。その心配も全て肉の考えです。
肉の考えは霊の考えとてんで違います。なぜ違うでしょうか。霊界と肉界も違い、霊と肉のその能力自体が違います。肉は自分の体では空中を巡ることはできませんが、霊は思い通りに行き来します。肉の目ではわずかな距離しか見えませんが、霊の目では天の国まで見て地球世界を貫いて見ます。だから霊と肉は法も、生き方も、理致も違います。
肉性は神様と主の仕事を妨害すると言いました。この御言葉を聞いて実践すれば霊的な人たちになって、主が勝てる人たちが本当に多くなるでしょう。肉性を全て殺して葬らなければなりません。自分の使命にだけ溺れないで、心から主を呼びながら深い対話を願い求めなくてはいけません。まずやきもきしている主の心を分かって接しなくてはいけません。
主の平安が満ちることを祈ります。

今は私たちの神様の能力と、主の愛とその深い御言葉と、聖霊の熱い感動、感化、御働きが、御言葉を聴く全ての人たちに満ちることを、聖父、聖子、聖霊の御名によって祝福します。アァメン。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年9月27日 主日の御言葉>
DATE : 2009-10-02-Fri  Trackback 0  Comment 0
肉の世界は肉で、
霊の世界は霊で、霊たちと戦いなさい


本文 エペソ人への手紙6章11−17節


主の平安を祈ります。全ての存在物は連れ合いがあります。相対性の世界だということです。男性と女性のように、相対的でありながらも連れ合いになります。創造主、神様は、全ての万物を相対性の世界として創造なさり、また連れ合いになるように創造なさいました。
神様はイザヤ預言者に「あなたは世の中を見なさい。どんなもの一つも連れ合いがないものはないのではないか。私がそのように創造したのである(イザヤ34:16)。」とおっしゃいました。
相対性の世界、連れ合いの世界だと言いました。この御言葉を改めて考えなくてはいけません。昆虫の世界、動物の世界、植物の世界、人間の世界は、否認することのできない相対性の世界です。その相手はすなわち連れ合いになります。全て連れ合いになり得ますが、双方の間で最も自分に合う連れ合いを見つけるようになります。
昆虫、動物、植物の世界は常識として分かって次に移ります。人間の世界を見ましょうか。人間の世界で男性と女性は相対的にみんな連れ合いになって生きることのできる条件になっています。けれど多くの人々の中でいったい誰が自分と一番心が合い、行いが合うのかによって相手が決定されます。心と行いが最高によく合うときに天が定めた縁、天上の配偶者だといいます。
男性と女性は互いの相手になりますが、みんな自分の相手として暮らせはしないでしょう。動物も雄と雌が互いに相手になります。だから牡鹿と雌ノロは相手になります。だからと言って「あなたと私は配偶者だ。連れ合いだから一緒に暮らそう。」と言えば暮らしはするでしょうが、それほどもたないでしょう。
山ノロと野ノロも鹿と同じシカ科だと言いますが、牡鹿と雌ノロは連れ合いとして理致が合いません。鹿同士連れ合いを成すほうがノロよりははるかによく合います。しかし鹿同士多くの鹿の中から互いに合う鹿と連れ合いを成さなくてはいけません。
これと同じく人間も男性と女性はみんな相手になって連れ合いを成して暮らすことができます。その構造がみんな相手になります。男性と女性は誰でも構造上、連れ合いになって子供を産んで暮らすことができます。しかし無条件、男性だからと言ってどの女性でも連れ合いになることはできないし、無条件、女性だからと言ってどの男性でも連れ合いになることはできないということです。

神様は男性と女性の構造をそのように創造しておかれました。だから男性と女性は誰でも互いに連れ合いになることができますが、数千万、数百万の人々の中から自分と性格が合い、心が合い、行いが合う連れ合いがいるということです。その人に会うときに「天が定めた縁」だといいます。
人間が、構造が相手になるからと言って連れ合いを成したら「縁」と言えません。構造が相対的な男性と女性は互いに愛したら連れ合いになって暮らしていきます。最初は好きで、きれいで、素敵だから愛して暮らすようになりましたが、時間が過ぎると別れます。最高に愛したのに別れます。誰でも愛するときは愛を残して愛したりしません。一度愛する時に全ての愛を降り注いで愛します。けれど暮らしているうちに別れます。なぜでしょうか。
聖書では「初めの愛を失った。最初に愛するように愛する心を失ったからだ。」と言っています。根本は神様の御心ではない愛をしたからであり、最初は互いによく合わせて付き合っていて、時間が過ぎると性格の違いのせいで暮らせないのです。個性が合わなくて暮らせないのです。原因はたくさんあります。「暮らしてみると性格が合わない。」、「暮らしてみると最初のようではなかった。」、「暮らしてみるとそれほどでもなかった。」、「暮らしてみると私が願う人物ではなかった。」、「期待に外れた。」と言う等、その種類を全て話そうとすると御言葉をこれ以上できません。
最も大きいことは第一に、初めの愛が冷めて心が変わったからです。第二に、性格のせいです。もう一つ言うなら、最初に見たとき自分の目には世の中で最高にきれいで素敵で天使のように見えたけれど、暮らしながら改めて見るとそうではなかった、他の人より劣る、自分にあまり関心がない、別に役に立たないという理由のせいです。
構造は合っても性格が合わなければ合わない分争いながら暮らすなり、そうでなければ結局別れます。だから人間の心を完全に作らなくてはいけません。人間は心が値打ちです。霊魂が値打ちです。神様と主とも性格が合わなければ別れるのです。
ここでこの御言葉を終えて、続く御言葉を伝えます。
世の中には男女間の連れ合いがあるし、動物も連れ合いがあるし、植物も連れ合いがあるし、昆虫も連れ合いがあります。これはみんな100%知っています。知っているのにどうして何度も話すのでしょうか。信じなさいというわけでもないし、学びなさいというわけでもありません。これと同じく、天と地の世界も、霊と肉の世界も、相対的に連れ合いだと話すためです。

主は何か話そうとして下さるときにはいつも「これと同じくこうだ。」とおっしゃいます。深い話をして下さろうとしてまず理致に合わせて語られながら、これと同じくこうだと理解をさせて下さりながら、疑いなくはっきりと信じさせて下さいます。
全人類の一人、一人について見るときも連れ合いがいます。相手がいます。これは自体の相手です。肉があるように、必ずその人の霊があるということです。神様はそのように創造しておかれました。自分の肉が母の胎の中で成長するように、霊も肉を通して成長します。霊は霊体として生き、肉は肉体として生きていきます。誰でも肉体がある限り、絶対に自分の霊が存在しています。自分が男性ならその霊も男性であり、自分が女性ならその霊も女性です。
霊は自分の肉に似ています。自分の肉は自分の霊に似ているし、自分の霊は自分の肉に似ています。しかし祈っているときや夢で自分の霊を見ると、鏡で自分の肉体を見るようにすぐに見分けられません。似ていますが少し似ているからです。
霊はまるでくるみの中身、穀物の中身、栗の中身が成長するように、自分の肉体の中で肉体を中心として成長します。全ての果物は木という肉を通して栄養分を吸い込んで成長します。これと同じ理致で霊は肉体の栄養分である肉体のあらゆる行いと考えを吸収して受け入れながら成長します。
肉の考えと行いが悪い人は、その霊も肉の考えに似てその性格と行いによって成長します。肉の考えと行いが善良であれば、その霊も肉に似てその心と行いが善良に成長します。霊は必ず肉に従って成長します。
世の中で男女が互いに連れ合いになったとき、男性が寛容であれば女性もその男性と一緒に暮らしながらいくらか寛容になりはしますが、ほとんど一体となるかのようにはなりません。だから性格が合わなければひとつになりません。すると結局一緒に暮らせません。しかし自分の霊と肉はほとんど性格が同じです。100%だと言ってもいいです。肉が嘘をつくと霊も嘘をつくし、肉が神様とイエス様を信じれば霊も信じます。肉の考えを霊もほとんど持っています。
万物は互いに連れ合いがあり、人間も互いに連れ合いがあると教えてあげようとしているのではないと言いました。皆100%連れ合いがあるから教えてあげなくても知っています。しかし霊と霊の世界については教えてあげなければ分かりません。万物と人間たちの世界は相対性の世界としてみんな連れ合いがあるように、肉と霊は相対性の世界として創造されているということです。
霊は自分の肉の連れ合いです。霊は男性の立場であり、肉は女性の立場です。これは絶対的です。「万物と人間たちに互いに連れ合いがあるように、肉と霊は相対性の世界であり、連れ合いだ。」と言いました。
神様は人間を神秘的に創造なさいました。霊と肉はこの世で生きる間、天が定めた縁です。一体です。ある男性と女性が、天が定めた縁であるのと比べられないほどにもっと近くいつも傍に生きている一対です。ほとんど一体となって分かって生きれば100%合います。霊と肉は考えも行いも合います。

自分の霊がいない人は世の中にたったの一人もいません。自分の霊がいなければ動物です。動物は霊がなくて、魂と精神だけあります。ある人は、人間の精神が霊ではないかと言います。動物を見るように人間を見てはいけません。人間の精神は肉に属したものです。精神は肉体の主人です。
精神は脳から発生するでしょう。モーターから電気が発生するように、脳から精神が発生します。モーターは回りさえすれば電気が発生します。精神もそれと同じです。人間の心は、目で見ながら、耳で聞きながら、体で感じながら、考え、すなわち思いが発生します。
何でも目で見たり耳で聞けば思いが発生します。五感の中の一つである鼻から匂いが入ってくると、脳で感じるようになります。これがすなわち「考え」というものです。話すときに考えが発生し、体で感じるときに考えが発生します。
人間は目で見たり、耳で聞いたり、話をしたり、体で直接ぶつかって感じたり、鼻で匂いをかぐと、脳で受け入れます。そうなると「どうしようか。見たから食べようか、食べまいか。しようか、すまいか。」と判断します。この全てのことが肉体に属したものとして脳から発生します。
霊は霊の脳があり、肉体に五感があるように、霊の五感があります。霊は肉体より考えがはるかに優れていて、体も肉とは比べられないくらいに優れています。だから霊のことは霊を使ってしなくてはいけません。霊は肉より数百倍できます。霊のことは霊でして、肉のことは霊が肉を通してやってこそ、肉が一人でするより数百倍優れてできます。
霊が1分で行く距離を肉は100年かかっても行けません。行く途中で老いて死にます。霊が1分間行った距離は、人間が造ったアポロ宇宙船、飛行機、列車、セダンで一生行っても行けません。ものすごい差が出るでしょう。
だから霊について学んで自分の肉の主人になる霊、自分の新郎のような霊と共にしたり、霊でしなくてはいけません。霊は、霊自体ですべきことがあり、自分の肉を通してすべきことがあります。肉界のことは肉体を通してするし、霊界のことは霊一人でしなくてはいけません。霊の世界、地獄や天国に行くことをする時は霊自体でします。
もう自分の霊があるということをこれ以上話さなくてもはっきりと信じて下さい。自分の霊があるのか、自分の霊を何度も呼んでみて下さい。霊が答えれば自分の心を通して聞こえてきます。これは自体霊通です。一生自分の霊を呼んでみたこともなくて、肉が死んで土になり、霊は暗闇の世界へ行くこともあります。自分の霊と通じるのが1段階です。自分の霊は絶対に自分の肉を欺きません。自分の霊のために神様に主の御名でたくさんたくさん祈ってあげなくてはいけません。
霊が能力があって神霊でなくてはいけません。肉が霊と一緒に讃美を歌って神様に栄光を帰さなくてはいけません。暫く讃美を歌ってみると、自分の霊が和音を合わせて共に歌っているのを肉体が感じます。自分の霊の歌の声を感じて悟って対話しなくてはいけません。自分の霊をほめてあげ、愛さなくてはいけません。
皆さんがどこに行っても絶対にひとりではありません。霊と対話すれば、肉が知らなかったことも分かるようになるし、不思議なことがたくさんあります。自分の霊にサタンと悪霊が働きかけないようによくしなくてはいけません。自分の霊のためにしっかり祈ってあげなくてはいけません。
霊は肉によく教えてくれます。肉が知らないことを本当にたくさん教えてくれます。霊が成長し、肉が霊によくしてあげれば、夜に寝るとき、霊が肉体を離脱して地上霊界や天上霊界にも行って来ます。有能な霊になると昼にも肉体を離脱して霊界に行きます。こうなるには本当にたくさん祈って、努力して、御言葉についての知識も豊富でなくてはいけません。しかし霊界にも法があるので絶対に主が承諾なさらなくてはいけません。
今日からもっと自分の霊を愛して自慢し、見えなくても自分の恋人のように思っていつも祈ってあげ、愛してあげなくてはいけません。このようにしながら一週間から一ヶ月が過ぎれば自分の霊を見る人たちがたくさんいるでしょう。霊は自分の肉の連れ合いとして絶対的な相対体です。
イエス様の霊の写真を見たでしょう。そしてその他の写真を通して霊の姿を見たでしょう。イエス様の霊が最高の美男です。義と使命によって霊が美しく、素敵で、神秘的で、奥妙で、人格と人となりを漂わせます。肉体が義を行ない、主の御心どおりに生きて、主を最高に愛して喜び、神様の御心通りに生きて、聖霊の働きの中に生きれば、自分の霊は輝く霊になります。

神様は天国を作っておかれ、人間たちが神様を信じ、その方が遣わされたメシア・イエス様を信じてその方の御言葉に従順して、みんな天国に来て暮らしなさいと予定しておかれ、人間たちがその御言葉通りに行なって天国に来ることを本当に待っていらっしゃいます。神様も主も時代ごとにこれを先に信じて悟った使命者に叫ばせられました。
神様と主がそれほどにも地獄に行かないで、神様と主を信じて愛して生きなさいと使命者たちを通して叫んでいますが、人間たちはほとんど天国へ行けなくて地獄へ行きます。なぜそうなるのか。主は今日このことを話そうとなさいました。
第一に、神様と主を正しく分からなくて正しく信じないからです。
第二に、信じても世の中へ傾いて心から信じられなかったために悔い改められないことで本当に清潔な人になれなくて、きれいな霊になれなかったからです。
第三に、私たちが神様と主を信じるとき、肉的な患難と苦痛を受けるようになります。これは悪魔が人々の肉体を使って迫害し、惑わして異性で堕落させたり、様々に苦痛を受けさせるからです。これによって神様と主を不信し、自暴自棄させて患難に打ち勝てなくするからです。
第四に、霊界で見るとサタンの霊は、救われて天のために生きる人たちの霊を止めて、主と一体になるのを妨害しますが、このようなサタンに打ち勝てないからです。
大きく二つに分けると第一に、サタンが不信した人たちの肉を通して妨害するので肉的に患難が来ますが、これに打ち勝てないから天国が予定されていても行けないのです。第二に、サタンが私たちの霊を妨害するので霊的に患難が来ますが、これに打ち勝てないから天国が予定されていても行けないのです。これが主がおっしゃる二つの御言葉です。
主は「あなたがたが天国に行くにあたって必ず二つに打ち勝たなくてはいけない。」とおっしゃいました。「肉的な世界から来る患難は肉体で戦って打ち勝つ。そして霊物であるサタンが来たらあなたがたも霊が出て行って戦わなくてはいけないのであって、肉で戦ったら負ける。」とおっしゃいました。肉のことは肉で戦って打ち勝ち、霊のことは霊で戦って打ち勝たなくてはいけません。

私たちが天の国に行くにあたってまたもう一つ戦うべきものがあります。まさに「サタン」です。サタンは私たちの霊に苦痛を与え、悪評し、あらゆる悪いことをし尽くします。サタンは霊物です。肉ではありません。肉に属して肉で妨害することは肉で戦わなくてはいけません。しかし霊界でサタンの霊が妨害をしたら誰が出て行って戦うべきですか。肉体は目に見えるし弱いから駄目です。
サタンは霊なのでありとあらゆることをし尽くします。ある時は背が高く見えるように変装し、ある時は女性に変装します。この世でできないことがありません。霊物だからです。ある時はイエス様に仮装して現れることもあります。詳しく確認しないと騙されます。サタンは前後左右を全て確認しなくてはいけません。
ある時はサタンがイエス様に仮装してある人のところに現れて「私はイエスだ。それなのにお前はどうして疑うのか。信じないなら帰る。私は忙しい。」と言ったそうです。それで「サタンよ!退け!イエスの御名で命じるから退け!お前は絶対サタンだ!」と言ったそうです。するとサタンがくすくす笑いながら行きましたが、その後姿を見ると、後ろ側は暗い色だったそうです。すると突然全体が真っ黒な悪魔に変わったそうです。本当によく確認しなくてはいけません。
主は「サタンが霊で来て妨害し戦おうとするから、あなたがたもあなたがたの霊で出て行って戦って打たなくてはいけないのではないか。サタンが霊で来たらあなたがたも霊で出て行って戦わなくてはいけない。サタンを思い通りにする私イエスとあなたがたが皆一つとなって戦わなくてはいけない。肉も私の兵士になって自分の命を保護し、摂理国のために戦わなくてはいけない。」とおっしゃいました。
このように霊でサタンに立ち向かって打ち勝たなくてはいけないので、主は続けて条件ができて熱心に祈る人たちに現れて啓示して下さり、命令なさり、指示なさったということです。だからみんな証として聞くだけでなく、その御言葉を聞いて悔い改めて行なわなくてはいけません。そうしてこそ自分の霊がサタンに打ち勝ち、主の再臨を迎えて予定された天国に行くようになるということです。
霊は肉より数千倍有能で、数十億万倍速いから、サタンの霊が来るとき、霊の能力で追い出し戦わなくてはいけません。

誰でも信仰生活をすると、サタンは第一に肉に属した人たちを通して肉的に妨害し、第二に霊で妨害します。霊物であるサタン、悪魔は霊体で私たちの霊を直接妨害します。霊界で見るとサタンが、私たちの霊が天国に行けないように妨害し、苦しめ、私たちの霊を殴り、惑わすこともあるし、落胆させて変わったことをし尽くします。そのように数十種類で自分がすべきことをし尽くします。
私たちの霊はサタンと執拗に戦います。私たちの守護天使も来て一緒に戦ってくれます。ミカエル天使長のために祈ってあげ、自分に配置された天軍天使たちのために祈ってあげ、応援してあげなくてはいけません。私たちがサタンと戦うとき、私たちを助けてくれようと天軍隊長ミカエルが瞬間瞬間来て助けてくれて行きます。主にミカエル天使長を遣わして下さいと言えば遣わして下さいます。
御言葉の斧でサタンの頭をめちゃくちゃにぶち切らなくてはいけません。それでも彼らは死にません。「いくらサタンでもそんなに残忍に斧でぶち切るのか。」と言う人もいるでしょう。サタンに一度やられてみてこそその行為がどんなに残忍なのか分かるでしょう。サタンがどれだけ損にならせたのか知らなくてはいけません。私たちがそのようにしなければサタンが私たちにそのようにするということを知らなくてはいけません。
御言葉の斧でサタンの首をぶちきってその頭を完全に叩き割らなくてはいけません。それでも霊なので全く死なず、負けたときは逃げていきます。かわいそうだと思わないで安心してはさみで切って御言葉の剣で切らなくてはいけません。霊界でサタン、悪魔に会ったら戦って完全に打ち勝たなくてはいけません。先生も祈っているときや夢にサタンが現れたらその首を捻じ曲げて、手をつかんで抜き、脚を引き裂き、目を抜き出します。それでもサタンは死にません。ただくたばって、怖くて逃げて行きます。
天の国に行くには悪いサタンと戦って打ち勝たなくてはいけません。主の御名を呼びながら戦わなくてはいけません。主はいつも眺めていらっしゃいます。サタンについて知らない人にサタンは思い通りに影響を与えながら働きかけます。主は私たちがすることをすべて見ていらっしゃいます。サタンは人間に働きかけてサタンの生き方をさせることが目的です。神様を知らずに生きる人たちは結局サタンの生き方をして死ぬわけです。
サタンと悪霊は全て霊物です。霊体です。霊で突っかかり、霊で私たちを苦しめるサタンに、霊で敵対しなくてはいけません。霊で戦わなくてはいけません。それで主はおっしゃいました。
「悪い霊たちが霊で戦うのにあなたがたが肉で戦ったら勝つことができるだろうか。あなたがたも霊で戦わなくては。だから私が霊でサタンと戦いなさいと、深く祈って条件ができる人たちと対話して彼らに教えてやり、啓示を与えてサタンについて教えてやって分からせてやったのだ。摂理史の数百人に啓示してやった。そして残りの人たちは各自悟るように主日、水曜の御言葉を聞かせて、霊が強くなるようにしたのだ。また聖霊を受けさせてより霊的な人たちにならせたのだ。
霊が弱いと数万人がいてもサタンの霊に勝てない。祈ってみんな霊的な人になりなさい。あなたがたの霊がこの時代、私の霊的な強い兵士になって、サタンが来たら滅ぼし尽くしなさい。肉に属したものは肉を強くして敵対し、肉で耐え忍んで打ち勝たなくてはいけないが、霊に属したものはあなたがたの霊が強くなるように祈って神霊になって霊で戦わなくてはいけない。」とおっしゃいました。

主がおっしゃいました。「神様はこの世の全ての人たちが天の国に行くように予定しておかれた。予定されていても、神様を信じて愛して仕え、あなたがたを救う私を信じて御言葉に従順する条件を立ててこそ天国に行くことになる。しかし神様と私を信じてその御言葉を行なうにあたってあなたがたが天国に行けないようにあれほどにも妨害して止める人たちがいるが、すなわちサタン、悪魔たちだ。あなたがたの目にはよく見えないから分からないが、私は全て分かって話す。なぜサタンがそんなにも天の国に行けないように止めるのか分かるか。自分たちは永遠に天の国に行けないから妬み、嫉妬して止めるのだ。」
第一にサタンは、私たちの肉体を通して私たちの霊が天の国に行く条件を立てるから、私たちの肉体を妨害します。サタンは毎日私たちの肉体を妨害します。これからサタンたちが戦争のときのように押し寄せて来るでしょう。みんな一つにならなくてはいけません。一つになってこそ打ち勝つことができます。
私たちの肉体を妨害するにはより肉体を通して妨害しなくてはいけないから、サタンは神様と主を信じない人たちや、信じてもサタンの主管を受けている人たちや、悪評する人たちと無知な人たちの体を使って妨害します。サタンは彼らを通して、私たちの肉体が神様を信じて私たちの霊のために条件を立てるのを制裁し、妨害し、悪評し、悔しがらせ、ありとあらゆる嘘をつき、根拠のないありとあらゆる粗を探して働きかけます。
このように肉体を通して入ってくるサタンは、肉体を通して耐え忍んで攻撃し、不信し、善なる戦いをしてこそ打ち勝つということです。サタンが肉で来たら肉で対抗してこそ勝利します。
第二に、サタンは霊界で、霊で私たちの霊を攻撃します。この時サタンは霊だから肉で戦っては勝つことができずやられてしまいます。肉がお祈りをたくさんして、御言葉にしたがって生きながら、霊を強く神霊にして、主と通じ、主の啓示を受け、よく悟って、霊の能力でサタンと戦って勝ちなさいと言いました。サタンと霊で戦って勝たせるために主は、啓示して下さり、サタンについて教えて下さり、聖霊の恵みを与えて強くして下さるのです。
肉で戦うときも、祈って、熱心にやって自分の霊が力を受け、霊が肉体を助けて共にしてこそ勝つことができるし、主が私たちの肉体をお使いになって共にしてこそ勝つことができます。霊で戦うときも自分の肉が霊を助けて共にしてこそ勝つことができます。
ヨハネの黙示録を見ると、主は「あなたがたは打ち勝ちなさい。勝利を得る者は天国に行く。勝利を得る者はあなたがたのために用意しておいた家を取るようになる。天国に行けば日のように輝くだろう。」とおっしゃいました。(黙3:21、マタイ13:43)。

天国に行くにあたってこのように二つ戦うものがあるから、難しい条件に打ち勝たなくてはいけないということを今日、主が啓示なさっておっしゃいました。主はこの全ての戦いと根本の御言葉を明け方に教えて下さいました。それで摂理史に啓示者たちをたくさん立ててあげたとおっしゃいました。主からこの御言葉を伝え聞いて、みんな信じて行ないなさいと今日の御言葉を伝えてあげました。
みんな霊も肉も強く大胆であってこそ霊と肉が勝利するようになります。霊も肉も主と一体とならなくてはいけません。自分の肉体に属した精神が完全になってこそ霊も肉も新しくなります。気を引き締めて行なわなければ人生を一生生きてもその段階にとどまってそれ以上上がって行けず、抜け出ることができません。気を引き締め、覚悟を固め、強い執念で生きる人たちはどこへ行っても勝利して生きます。精神が正しく生きられない人は死んだ人です。肉は生きているけれど霊が死んだから死んだ人です。その霊が死亡圏に生きているからです。気を引き締める分、霊も肉もその位置に行って生きるようになります。
摂理の中で正常に走っていたのに、試みに陥ったり、世の中へ出て行って暮らす人たちの霊を見ると、その霊がすぐに変わって暗い服に着替えています。その肉も顔から光が消えてすぐに目につき、見る人も心でその状態が感じられます。
救われて天国に行くのは易しいことではありません。天国に行く生き方をすることがどれほど偉大な生き方であり、価値ある生き方であり、成功した生き方なのか知らなくてはいけません。
サタンについて知れば、サタンはその人を避けて行き来し、その目を避けて行き来します。盗みをする人は自分を見分けられない警察よりも自分を見分ける隣の家の子供たちのほうを恐れます。泥棒であると見分けたらすぐに申告するかと思って怖くてその前では思い通りに活動できません。その子供の家は警戒して行きません。サタンも自分を知っている人と自分について教えてあげる人を一番恐れます。
皆サタン、悪魔について学んで教えてあげなくてはいけません。サタンについて分かれば誘惑されないし、霊も肉も打ち勝つことができます。悪に打ち勝たなくてどうやって天の国に行きますか。悪に負けたら悪の世界に行きます。悪を思い通りになさり、サタン、悪魔を思い通りに治められる主に、誰がよりたくさん切に求めて助けてもらい、その力と能力を使うのかにかかっています。
主はただでは助けて下さいません。主にしがみついて行なう分働きかけて下さいます。深く祈って悔い改めの条件を立ててみて下さい。それぞれみんな働きかけて下さいます。サタンに打ち勝つ条件を立てなくてはいけないし、サタンに打ち勝たなくてはいけません。サタンに打ち勝った人はその時から怠けないで勤勉に自分の仕事を行なえばいいです。主を愛することを第1順位に置いて生きなくてはいけません。この時が主と一体となる機会です。
霊界を見れないしサタンの行いを見れない人たちはサタンの主管を受けて、これまで神様と主をよく信じて生きる私たちを攻撃してきました。彼らの行いを見るととてもよく分かります。いろいろ完全でない行いが多すぎて記録することもできません。サタンが人を通して働きかけることをなおざりに思う人たちはまたサタンのところに行くようになり、サタンの主管圏で生きるようになります。

サタンはひとまず人を憎ませ、仲違いをさせ、こそこそ話し、人の間の平和を壊し、あらゆる嘘で悪評し、分からなくて無知な通りに詰問し、自分の固執によって行なわせます。その人の平素の思考、精神、固執、血気、驕慢、主観を利用して働きかけます。寂しい目に遭わせて挫折させます。自暴自棄させます。
心寂しさと疎外感を感じないで天国に行った人はいません。この世で生きてみると、神様にも、主にも、この世の兄弟たちにも心寂しさを感じるようになります。神様と主はそうではないのに、自分が神様と主を完全に分からなくて自らそのように考えるようになるのです。自分が間違って考えたから自分が正しく悟って戻って来なくてはいけません。御言葉を聞いて悟って戻って来るなり、祈って改心して戻って来るなりしなくてはいけません。万物によって啓示なさり、人を遣わして啓示なさる時に必ず戻って来なくてはいけません。
そして上の人にも、下の人にも、友達にも、伝道した人にも、指導者にも、先生にも、心寂しさを感じたら自分が打ち勝たなくてはいけません。話すべき人には話さなくてはいけません。そして調べてみなくてはいけません。一番良いのは、理解して主の御心に従って、自分の行くべき道を行くことです。当事者は実際、自分がその兄弟を寂しがらせたのかよく分かりません。当然自分の性格上行なったことに過ぎないと考えます。だから自分たちが打ち勝たなくてはいけません。この世に心寂しさを感じたことのない人がいるでしょうか。みんな数十回ずつ味わったことです。この御言葉を聞きながら、悪魔から来る考えを全て捨てなくてはいけません。ただ主にもっとよく仕え、自分も祝福されて生きればいいです。

今日話した二つの戦いで必ず勝たなくてはいけません。
第一に、肉で来る戦いである、人を通して来る迫害と苦難は、肉体が大胆に出て行って主と共に、自分の霊と共に、兄弟たちと一つになって戦ってこそ打ち勝つと言いました。第二に、サタンと全ての悪の霊たちは霊で来るから霊で出て行って戦ってこそ打ち勝つと言いました。
相手は男性が出て来て戦うのに女性を出て行かせて勝ちなさいと応援したら勝つことができません。男性が出て来たら男性が出て行って戦わなくてはいけないし、女性が出て来たら女性が出て行って戦わなくてはいけません。
天国に行くにあたって二つの戦いがあって、肉的な戦いと霊的な戦いがありますが、それに対処して打ち勝ち、戦う方法について今日、主は話されました。
ここで終わります。

今は私たちの神様の全知全能な愛と、主の御言葉と、聖霊様の御働きが、御言葉を聞く全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。




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