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CATEGORY : 御言葉
〔2009年9月20日 主日の御言葉〕祈りは行事ではない。生活だ
DATE : 2009-09-22-Tue  Trackback 0  Comment 0
〔本文〕
テサロニケ人への第一の手紙5:16-18


主の平安を祈ります。
新しく来た皆さん、嬉しいです。神様が選んで愛されたので、聖霊によって感動させ、人を遣わして来させました。これをはっきりと悟ってみんな各自神様に感謝すると言って自分が祈り、イエス様にもありがたいと言って、自分をお呼びになった御心のために生きると告白し、感謝しながら御言葉を聴いて下さい。
自分がどうして教会に来るようになったのか、単純に考えれば友人について来るようになったとか、あるいはある経緯によってのみ来るようになったと無意味に思って信仰生活をすることになります。最初から御心をよく分からずに信仰生活をすると無知の中で5年、10年、20年が過ぎるまでよく分からずに生きることになります。
神様が遣わされたメシア、イエス様の御言葉を聴いてその御言葉通りに生き、その霊が永遠な滅亡の世界である地獄に行かず、痛みと悲しみと苦痛がない永遠な喜びの世界である天国に行かせるために、神様が皆さん各自を選んで伝道者を通して連れて来られたのです。これから自分がどれだけ神様を愛してその御言葉通りに生きるのか、自分を救いに来られたイエス様をどれだけ愛し、その方と一体となって生きるのかに、救われて天国に行くことがかかっています。
神様とイエス様が全知全能でいらっしゃるから全てのことをして下さるとしたら、一人も地獄に行かないで、みんな天国に行くでしょう。ところが霊の世界に行ってみると、人間の肉体が死んだ後にその霊が地獄のほうへ行く人が、天国へ行く人より多いのです。少ない人数が天国のほうへ行きます。
神様とイエス様を信じなかった人の霊と、信じても本当に救われようと心から行なえなかった人たちの霊は、悪い霊たちが地獄へ連れて行きます。本当に神様をよく信じてイエス様を愛してその御言葉に従順して生きた人たちの霊は、天使たちが天国へ連れて行きます。ところが天国へ行く人より地獄へ行く人が、比較にならないほど多かったのです。なぜでしょうか。
神様は全ての人たちが天国に行くように予定しておかれました。しかし神様とその方が遣わした救い主イエス様を信じないで、信じても形式で信じた人たちは、義が足りなくて神様がご覧になると「あんな人がどうやって天国で生きるのか。」と言うくらいに天国に行ける人としてふさわしくないから、その行いどおりに死亡へと行くからです。神様がお選びになりましたが、人々が神様とイエス様を信じないで、信じても正しく信じないからです。
神様は全人類を創造なさり、神様の立場で人間たちにしてくれるべきことを全てして下さったし、天国に来るようにお選びになりました。その人を選んでこの世で神様を信じさせても、自分が信じなくてはいけません。全知全能な神様がお呼びになり、メシア、イエス様が救いの御言葉を下さり、聖霊様が感動させて命の道、救いの道を行かせても、誰でも本人が信じず、感謝せず、心と思いと命を尽くして神様と主の御心通りに生きず、ただ教会にだけ通えば、救いの道は行きますが、その義が足りないから天国に行けません。
誰でも自分の置かれた場所がどうであれ、義を行なうのには支障がありません。
神様を尊く思い、主を愛し、聖霊様が感動させるとおりに勤勉に行ない、主の心情を分かって一体となって生きればいいです。
「一体となる」とはどういうことでしょうか。イエス様がこの世にいらっしゃったときに説教なさって「ぶどうの木とその枝が一つになるように、私イエスと一体となってこそ一体となったと言える。」とおっしゃいました。
心も、行いも、霊も主と一体となってこそ、その心が私たちに臨んで、私たちが主の仕事をするようになり、主の手足になり、主の体になって、主の代わりに行なうようになります。だから位置と立場と環境にしたがって、私があなたがたに仕事を与えたらどこででも私と一体となって私を愛することが、義を山のように積むことです。
ダニエル書5章27〜30節を見ると、バビロンのベルシャザル王について出てきます。神様がベルシャザル王の義をはかりにかけたとき、義が足りなかったので彼はその日の夜に死にました。
皆さん!神様は各自の時になったとき、その義をはかりにかけてご覧になります。その時は髪の毛一本の重さほどの義だとしても本当に惜しく貴いと悟ります。だから自分の時に本当に勤勉に義を行なって生きなくてはいけません。神様がお呼びになった日から自分の定まった日に向かってチクタク時計は出発します。一日も、一時間も遊ばないで勤勉に、骨が磨り減ってからだが磨り減るほど走って、肉と筋肉が競走馬のようにがっちりしていなくてはいけません。
肉体が死ぬときも自分の時だと言いますが、神様がそれぞれの人に機会を下さったから、その日が終わることも自分の時だと言います。その日までにできなければ、ちょうど肉体が死んでそれ以上できない人と同じく、時が過ぎてそれ以上できなくなります。時になってはかりにかける前に早く命をかけて義を行わなくてはいけません。自分の定まった時が一日一日誰も分からないうちに迫って来ます。果敢に義を行わなくてはいけません。

今日は「祈りは行事ではない。生活だ。」という主題の御言葉です。
祈りは行事のようにしてはいけません。祈りは行事ではありません。はっきりと知らなくてはいけません。祈りは行事ではありません。祈りは生活です。生活の中で隣の人と対話するように、必要なときにその都度するべきことです。切実な対話、真摯な対話、深い対話、意味ある対話、理想的な対話、切に求める対話、喜びの対話、赦しの対話、心情の対話です。
したい話を洗いざらい話して対話するように、神様と主と対話して、したい時に随時、その時、その瞬間、一日に十回も百回もするものです。行事を毎日、毎時間、数十回ずつ行事をする人がどこにいますか。祈りは毎時間、十回も数十回もするものです。
祈りをそのようにしなければむしろ祈っている途中でサタンに誘惑されるようになり、サタンの餌食になり、自分の足で歩いてサタンの世界へ行くことになります。
祈りは生活になり、人生にならなくてはいけません。順理の人生にならなくてはいけません。
縮小して話します。一日は24時間です。祈りの時間を定めて一時間、二時間の間祈るとしましょう。その残りはするべき話があるのに我慢してその翌日の祈りの時間にするでしょうか。愛する人同士暮らしていくのに一日に一時間、二時間を対話の時間と定めておいて口が痛くなるほど話した後に、その残りの時間はしたい話があってもしないで翌日の対話の時間にするでしょうか。祈りが生活になっていない人たちはこれと同じくしています。
聖書に「すべての事について感謝しなさい、絶えず祈りなさい。祈りは呼吸だ。」とあります。祈りは食べ物と同じです。食べ物は食べたい時に食べなくてはいけないように、祈りもしたい時に随時、切実にするものです。
祈りを明け方にして終わり、徹夜して終わる場合が多いです。生活の中で神様と主にすべき話があるのに祈りの時間外にはしないでいます。みんな祈りの時間を生活化しなくてはいけません。
「生活」とは、何でも生活の中にその時その時必要なとおりに十回も二十回もすることです。手を洗い、体を洗い、話をしながら歩き回り、車に乗り、服を着て、服を脱ぐ等その時その時必要なとおりに合わせてするのが生活です。祈りもこのように必要なときに随時その時その時にしなくてはいけません。行事のように定めた時だけするものではありません。
ある人は深く祈ろうと、条件を立てようと、徹夜をします。そうして明け方の祈りの時に居眠りし、昼に居眠りし、主日礼拝の時に居眠りしているから恵みになりません。
「祈りは行事ではない。生活だ。」この御言葉を覚えて胸に刻まなくてはいけません。これからこのように祈ることにしましょう。明け方の祈りも生活の祈りです。

私たちは信仰の眠りを完全に覚ましてすべきことをしなくてはいけません。主と一体となってこそ眠りを起こした人であり、主を迎える準備をする人です。
よって皆さんが必ずすべき一つ目のことは絶対に主とまず一体になることであり、二つ目のことは100%主を愛することです。
主が救い主でいらっしゃり、主が裁き主でいらっしゃり、新郎でいらっしゃいます。地上にいる人たちはみんな主を待つ人たちです。
主を100%愛して中心にしなくてはいけません。これを中心において守らなくてはいけません。
主は命をかけて真の愛を下さったから真の愛を受けることを願っておられます。絶対メシアを100%愛さなければ、愛の義をはかりにかけるときに足りなくて裁かれ、救いが成されません。信仰もそうです。100%絶対的でなくてはいけません。
この説教を聴いて必ず決心して御言葉通りに生きて下さい。

ある人は「兄弟たちを心と思いと命を尽くして神様と主を愛するようにしなさいと言いましたがどのように愛するんですか。」と訊きます。主を中心として愛し、絶対に主を100%愛してから愛しなさいということです。主最優先で愛さなくてはいけません。100%でなくてはいけません。そういう生き方をしてこそ全てのことにおいて主と通じます。
主を100%愛することもせずに、主に向かうべき愛をどうして兄弟に与えるのかということです。それでは主の愛の杯を完全に満たしてあげて、余ったら兄弟たちを愛しなさいということでしょうか。そうではありません。
王に捧げるぶどう酒なのに王の杯を満たして余るからと言って臣下の杯に注ぐのではありません。王のものは王のものです。餅を作っても王のものは米からして違い、餅を蒸しても王のものは蒸し器からして違います。迷信を信じる人だとしても自分が仕える神に捧げる器からして違います。
ましてや自分を救って地獄に行かないようにしてくれて、天国に行って永遠に生きるようにして下さる王の王であり、主の主でいらっしゃるイエス様に接するのだから差が出るように愛して仕えて尊く思わなくてはいけません。人間に接するように接してはいけません。神に接するように接しなくてはいけません。主に接した心で人間に接したら神格化することです。
必ず主は神として接し、兄弟たちは兄弟の立場と主が使う使命者の立場で接してあげなくてはいけません。ネコに接することが違い、トラに接することが違い、トラの主人に接することが違わなくてはいけません。これと同じく兄弟に接することが違い、メシア、イエス様に接することが違い、万物を創造なさった神様に接することが違わなくてはいけません。
分別の恵みと知恵で神様と主を愛し仕えて生きてこそ、より大きな恵みと祝福を受けて生きます。

マタイによる福音書22章36〜40節
「あなたの心と思いと命を尽くして主あなたがたの神様を愛して仕え、兄弟たちも愛しなさい。」命を尽くして神様と主を愛し、兄弟たちを愛して生きるのが救いの道、永遠の命の道、天国の道です。主と一つとなった道です。そのように生きるのが主の再臨を準備して備える生き方です。
主のこの御言葉を聞くこの瞬間から本当に信じて行なって生きればいいです。
箴言3章6節
「あなたは全てのことにおいて神様を認めなさい。そうすればあなたの道を導き指導して下さるだろう。」
このように生きたら損害を被りません。自分がするから損害を被り、必要のないことをし、必要のない時間を過ごすのです。必ず神様と主に委ね、神様と主を信じて下さい。

皆さんは以前、神様と主に、この世の兄弟たちに、すべきことを全てしましたか。これからしようとしていますか。ところでどのようにしますか。時が過ぎ去ってしまったのに今するというのですか。もう歴史が過ぎ去ったから、その時できなかったことは今できません。ただ気を引き締めて悟ったら今から現実のことを勤勉にしなくてはいけません。
だからその時その時間にしなくてはいけないということです。試みに遭ってできず、迫害されると言ってできず、環境が難しいと言ってできず、あらゆる理由をつけながらできなければできずに終わるのです。試みを受ける中で祝福が訪れます。迫害を受けるとき、困難に遭うとき、地獄のような苦痛の中でも一生の間祈っていたものをもらうようになります。神様が下さろうとしていた祝福が劇的な苦痛の時に訪れます。その時もらえなければもらえません。

今日の御言葉は「祈りは行事ではない。生活だ。」と言いました。縮小して見る時、まるで行事のように明け方に祈ったり徹夜して祈ったり一度だけやって終わってはいけません。対話は一日中、必要なときに随時しなくてはいけないように、明け方は基本であり、神様と主にもいつも祈りで切実に対話しなくてはいけません。
主と一緒に生きていくから随時いつでも全てのことについて毎時間、毎分、祈りで対話しなくてはいけません。神様は「私の家は祈る家だ。」とおっしゃいました。自分が置かれた場所を祈る家と思わなくてはいけません。
愛する神様と主と対話するのにじっと我慢していて環境が良ければその時にするのですか。その時その瞬間すべきです。
神様の御言葉で「私の家は祈る家」だと言ったでしょう。縮小して見る時、祈る家とは、自分の肉体と心を言います。自分の心の聖殿、神様の聖殿、自分の部屋、自分が置かれた場所が全て祈る家です。これを拡大すると自分の民族であり、さらに拡大すると地球の世界です。地球の世界は神様と対話しながら生きなさいと創ってくれた所です。切実に生活の祈りをすることを祝福します。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年9月13日 主日の御言葉>
DATE : 2009-09-16-Wed  Trackback 0  Comment 0
1、私に従いなさい。命が宝だ。伝道しなさい
2、時を守ってこそ時に合うものを得る
3、今は伝道する時だ。聖霊を受ける時だ。主の再臨を迎えるために最後に準備する時だ



本文 伝道の書3章1−11節
   マタイによる福音書4章18−22節


ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
生気が湧く季節がめぐって来ました。人が時にしたがって生きてこそ、ちょうどよい時にちょうどよいことをするものです。1年について見ても、ちょうどよい季節にすべきことをできなければその次の年のその季節がめぐって来てからすることになります。
−春に蒔くべき種を蒔けなかった人は、その次の年の春がめぐって来てから種を蒔くということです。
−夏に海水浴場に行こうとしている途中で準備ができなくて行けなかった人は、その次の年の夏がめぐって来てから行くことになるということです。それも完全に準備してこそ行くようになります。
−秋に必ずすべき紅葉狩りをできなければ、その次の年の秋がめぐって来てからすることになります。それも自分のすべきことを全てしておいて行ってこそ行くようになります。
−冬にスキーをしたり冬の風景を楽しめなかった人は、仕方なく次の年の冬が来たときにするしかありません。
ある人が、あるいはある団体が、あるいはある国が、その時にすべきことをできなかったためにしなくてはいけないからと言って、季節を法則で創造なさった神様が季節をあべこべにしたり、早めて来させたりしないということです。そうすることはできません。季節の時は絶対的です。例外がありません。
今日は主がどんな御言葉をなさろうとして序論からこのように理致にふさわしい御言葉をなさって、理由をつけられないように話されるのか聴きましょう。これと同じく万事がそうであり、命を救う伝道も時があるということです。その時できなければできません。
人々は人生を生きていきながら数十回、数百回ずつ経験しながらも、ちょうどよい時にできなくて失敗し、仕事を失敗し、後悔し、悲しみ、苦痛を受け、恨み、兄弟同士争い、平和にできず、だめだったと言って主を遠ざけて信仰を破船し、主との愛が冷めて聖霊様が感動を下さってもきちんと感じられないということを主が話して下さいました。
主は「どうしてあなたがたは万物の理致を知りながらも人間に行なわれる神様の時と理致に疎いのか。盲人なのか。不倶者なのか。どうしてそんなに鈍いのか。どうしてそんなに愚かなのか。どうしてそんなに分からないのか。どうして気を遣わないのか。」とお叱りになり、心が痛いとおっしゃいました。
主はどうしてそんなにも心が痛いとおっしゃるのでしょうか。主が私たちをこの上なく愛していらっしゃるので、私たちがいつも成功することを願っていらっしゃるからです。私たちは主のものだからです。主のものである私たちが成功することがすなわち主が成功することです。主の新婦であり恋人なので、私たちが成功してこそ主の苦労が無駄にならないからです。主は私たちが成功することを、まるでご自分が成功することのように思われ、毎日、毎時間、私たちを見守って、必要であればして下さいます。
現実だけ見ないで未来を一緒に見なくてはいけません。現実において矛盾したことが積もって未来に迫ってくるということを知り、現実の仕事をするとき、現実において矛盾したことが積もらないように矛盾を解決して仕事をしなくてはいけません。序論で季節の法則と比喩を使って話したとおり、その季節にすべきことをできなければできないように、ちょうどよい時にできなければ誰もできないということです。

主は「時が恐ろしい。時が時である分、その時にしなくてはいけない。」とおっしゃいました。人間が成功しようとするなら、自分の夢を成そうとするなら、一番目に時を知らなくてはいけません。もちろん神様と主を知ることは根本でしょう。知って主の前で行なって成功したことと、知らずに主の御心を外れて行なって成功したことは全く違います。
主の御心から外れて主を離れて行なったことは永遠性がありません。天の国、天国ではその効力が認められないのでその代価を受けられません。またこの世にだけ属したものになり、結局虚無に終わります。だから主の前で時を知らなくてはいけません。信仰の自分の時を知らない人たちが失敗し、苦痛を受け、苦労しても無駄な苦労になり、後悔し、慟哭しました。
自分の時、この時代の時、神様と主が行なわれる時を必ず知らなくてはいけません。知らなければこの時に合う事をできません。時は春なのに夏にすべきことを汗をだらだら流してあらゆる努力をしながらするようになるから、苦労しても夢が成されないのです。時が過ぎると「あの時あのことを先にすべきだったのに・・・」と言って骨身に沁みて分かるようになります。他の人は分からなくても自分は分かるようになります。
だから神様と主の時、すなわちこの時代の時をまず分かるように祈らなくてはいけません。そして御言葉で主が先生を教えて遣わして時を叫ばせるから、主が皆さん各自に指示なさり、啓示なさり、命令なさる御言葉として聴いて信じて行なわなくてはいけません。信じますか。
伝道の書3章に、神様がソロモン王に知恵で語られた御言葉があるからみんな読んでみて下さい。切実に時を悟るときまで読んでみて下さい。
自分の時が来たら、どんな環境でも、どんな困難に遭っても、どんな苦痛を味わってもしなくてはいけません。その時が過ぎると再び季節が巡って来るように来るものもありますが、ほとんど一生に一度しか機会が来ません。本当に時がどれほど大切で貴いのか知らなくてはいけません。
第一に、神様を知ってその方が遣わされたメシア、イエス様を正しく知らなくてはいけません。第二に、自分の時を知らなくてはいけません。自分の時の中に神様の時が入っています。神様を絶対的に信じて神様と一体となり、主を絶対的に信じて愛し、主に頼って委ねることによって、神様がその人に意図された時を知らなくてはいけません。時を知ったなら、食べて、着て、寝ることや環境が問題ではありません。最優先権である主と共にその時にふさわしいことを最優先に置いて必ずしなくてはいけません。そのようにすればまた時になったときに希望が成されて間違いなく得ることができます。ちょうどよい時にしておいて管理するとおりに成功します。全てのことは過ぎし日の苦労の代価です。
神様は全ての人々に祝福をして下さいました。しかしどれだけ自分の時を分かって行なったのかによって祝福が左右されます。神様も主も望まれ、願われて、全ての人々に祝福をして下さいました。神様として基本的に全ての人々に祝福して下さいましたが、時を知らなくて行えず、時を知ってももがいて行なわず、ちょうどよい時にちょうどよいことをできなくて祝福を受けられずに生きている人が多すぎます。これを悟って行なわなくてはいけません。
ちょうどよい時にしなければ、苦痛を受けることもあるし、死ぬこともあります。また自分が現実において働きながら何に注意し何に気を遣うべきか悟ってしなければ、事故に遭うこともあるし、病気にかかるようになることもあるし、苦痛を受けるようになることもあります。

命を救うことにおいても、神様が呼ばれる時があります。伝道も時があります。その時に必ずしてこそ易しいし御心ある人に会わせて下さいます。瞬間の時です。ちょうど列車に乗っているときに伝道すべき人がいるとしましょう。その人が列車から降りるまでに伝道できなければできないのです。
先に季節の話をしたのは、伝道の話をしようとしてしたのです。旬の果物を食べられなければ食欲が出なくてたくさん食べられないし、また高くて食べられなくなります。その季節に種を蒔き、その季節に育て、その季節に取り入れるように、ちょうどよい時にその人を伝道しなくてはいけません。
ちょうどよい時に伝道できなくてその人が列車から降りてしまったらできなくなってしまいます。「あの時すべきことだったのにためらってばかりだったなあ、心残りだ。私はどうしてこんなに自信がないのか。」と言って胸ばかり叩くでしょう。自信がない人は精神が死んだ人です。一生二度と会えない人が瞬間通り過ぎると思って意識しないでしてこそ主が働きかけられます。ほとんど主が伝道者を使って伝道なさいます。実践者だけが勝利し喜びを得るようになります。人生は旅人と同じで、みんな瞬間出会って別れます。その時、会ったときにそのまま通り過ぎて別れたら一生二度と会えない人たちもいます。その場所とその位置で出会うべき人が誰なのかいつも目を覚まして祈らなくてはいけません。宝を探すように人間の宝を探さなくてはいけません。命は宝です。目が痛くなるほど探してこそ人間の宝を見つけるようになります。
主は伝道する人も、伝道される人も、互いに御心ある人たち同士会わせて下さいます。計画的に会わせて下さったのにそのまま通り過ぎて終わり、甘い話をして終わったら、主は心情が傷ついて「あなたは何を見に荒野に出て行ったのか。」とおっしゃいます。いつも自分がどうしてそこに来たのか、ものの言えない人のようにじっとしていないで主に訊いてみて下さい。すぐに答えて下さいますから。今は心情の携帯電話の時代なのに、どうして使いませんか。今は霊的な時代で、主と一体となるべき時です。
主はその人に予め御心があって主の御心に合わせて育ててきたので、いきさつと縁によって関連させて下さり、御言葉でつなげて下さり、対話でつなげて伝道者と伝道される人が互いに融合するようにして下さいます。
互いに話しながら次第に分かるようになると、神様の御心を成すために会ってつながったと分かって驚きます。そしてはっきりと悟ったときは、胸がじいんとして頭にひらめくように悟って神様と主を仰いで讃美し、神様の御心がいっそう分かったと告白するようになります。本人が悟って確信してこそ主の心が休まります。
伝道する前にはお祈りをたくさんしなくてはいけません。霊的に大きく悟り、使命感が湧き、感動が来て、自信があってこそ伝道したい心が生じるようになります。伝道しているときには深い心情で兄弟たちの霊魂について強いお祈りをしてこそ伝道の火が来て、サタンが妨害できなくなり、より強い知恵と情熱によって人の心を感動させるようになり、歴史が起こります。ちょうどよい時に本当に熱心にしなければ一生一度だけ出会える人に会えなくなります。

主も共になさるからこの時が伝道の機会です。主は「時を逃すな。聖霊を与えて私が共にしてあげるからこの時、この瞬間が過ぎれば伝道すべき人に会えず、その人と別れて機会を逃す。この時が過ぎれば本当に最後の機会を逃す。」とおっしゃいました。
みんなこの時が自分の機会であり時です。祈って啓示を受けると言って欲張ると、サタンが働きかけます。今は伝道すべき時です。
列車に乗って行ってみると降りる時になった時に降りてしまいます。一生の間祈って会うべき人が隣りにいるのに黙っています。早く口を開いてこの人、あの人と対話してみれば、主が選ばれた人がどんな人なのか分かるようになります。主が感動させて下さり、対話の中ではっきりと分かるようになります。
そして劇的に祈れば主は夢にも伝道すべき人を見せて下さいます。

先生は地獄の苦痛を味わった後に、地獄に行く人たちが地獄に行って永遠に苦痛を受けることを考えると、平素より千倍も伝道すべき必要性を感じて命を救わなくてはいけないという精神が強くなりました。地獄を味わったことのある人は敵を見ても「地獄に行くやつ!」と言いません。そこから引っ張り出してみます。
伝道することが空のように高い功績です。善いことです。主も伝道しようと伝道者を瞬間瞬間お助けになります。みんな一緒に伝道すればとてもお喜びになります。悪魔が十匹、千匹へばりついて掴んでいる人も一人行って祈って能力を働かせて奪って来なくてはいけません。主はその分能力を下さいます。そのようにすれば主がとてもお喜びになります。今年が過ぎる前にみんな各々一人ずつは伝道できるように主が働きかけるから、勇気と自信を持ってみんなやってみて下さい。機会と時が来たときにできなければ本当にできません。時があります。

伝道の精神を持たなくてはいけません。伝道するには、死亡へと向かう兄弟を自分の恋人と思いながらしなくてはいけないし、恋愛するように好きで喜びながらその命を主のところへ連れて来れば主が大きく働きかけます。主のところへ命を奪って来る人は命の英雄です。伝道をよくやってこそ一人によって数百人も伝道するようになり、数千人も伝道するようになります。

今、人々は列車に乗って数時間走って行くのと同じだから、この時に伝道しなくてはいけません。彼らが列車から降りる前に会って話さなくてはいけません。人々は永遠な希望を探し回ります。ある人は自分を伝道して本当に希望を持って生きるようにしてくれと言います。
みんな伝道者にならなくてはいけません。
全ての人々をみんな伝道しなくてはいけませんが、まずは御心ある人を選んでその人を伝道しなくてはいけません。順序があります。どんな人が宝なのか見分けなくてはいけません。話してみれば感じで分かるようになるし、主に何度も何度も祈って対話してみれば結局夢に見せて下さって分かるようになるし、伝道すべき人が心に感動が来て分かるようになります。
私たちが必ずすべきことは、伝道する時にはじめの愛で対話するように、伝道された後にもいつも変わりなく管理してよく接してあげなくてはいけません。主のように友達にもなってあげ、兄弟にもなってあげ、偽りなく最後まで自分の身のように接してあげなくてはいけません。そしてサタンが奪って行けないように教育してあげ、主の兵士を作ってあげなくてはいけません。主の兵士になってこそ悪事を働く人たちと私たちを悪評する人たちに敵対させることができます。徹底的に教育して教えることで、御言葉の鎧を着せてあげ、主が行なわれる働きであることを分からせなくてはいけません。
私たちの摂理歴史は伝道することにおいて不利ではありません。有利です。神様と主の御心があるし、30年間しておいたことがあるし、雲のような聴衆があるし、叫ぶべき御言葉があるし、自然聖殿の背景があるし、芸術団がいるし、世界50カ国に福音が広がっているから見せてあげるものがあるし、主が直接働きかけられる恵みの歴史があります。不利だと思うと先生も絶対にできません。伝道だけでなく他のことも、自分が不利だと思って行なえば結局失敗するようになります。自分が有利だと思って行なう人が成功します。
伝道するときは聴衆が集まった縮小版の写真を持ち歩いて見せてあげるべきです。神様が起こされた歴史が何であるか見せてあげなくてはいけません。イエス様を証してあげ、各々自分が経験した神様の働きとしるしと奇跡を話してあげなくてはいけません。

祈ることで自分の苦痛も希望に変わるものです。伝道することで神様の御心がなされ、自分の願いも成されます。
機会を逃してからは、いくらしようとしてもその人がすでに過ぎ去ったから、一生二度と会えなくてできなくなります。機会を失うとそれで終わることになります。畑に隠された宝を誰が分かるでしょうか。多くの人々が畑を耕しても、深く折らないからそこに深く埋もれた宝を見つけられないのです。心の畑を深く耕さなくてはいけません。深い対話をしなくてはいけません。天の運に乗ってこそ神様が承諾して宝の主人になります。宝を発見して掘り出した人は嬉しくて毎日喜びます。

お祈りをたくさんしてこそ本当に伝道すべき人を見て心が強く感動を受けて伝道するようになります。知恵者は心を見て喜びます。表面を見ると本当に分かりません。誰が、自分はどういう人だと話して回りますか。本当に地に埋もれた宝は掘り出す前には分かりません。

「今が伝道する時だ。伝道しなければあなた本当に大きな損害だ。伝道すればあなた本当に大きな祝福を受ける。」という主の御言葉を胸の中に刻んで御言葉通りに行なって下さい。
伝道すれば絶望の中で希望が爆発します。伝道しなさいと主がこれまで隠して育てた人たちを勤勉に探して連れて来なくてはいけません。遅れて連れて来たら他の人が連れて行きます。他の宗教から連れて行き、サタンが惑わして見えない死亡の道へとどんどん引っ張って行きます。目に見える時にしなくてはいけません。死の死線を完全に越えて行く前に伝道しなくてはいけません。
先生を訪ねて摂理の道へ来て先生を信じてくれる人も幸せな人であり、天から与える幸福を授かった人です。先生もこの機会に神様の霊を満ちるほど受けようと思います。どこででも条件を立てれば神様の霊は働きかけます。祈ってこそ自分に運が傾きます。
主の平安が皆に満ちることを祝福します。

今は私たちの神様の大きな愛と、主の御言葉と恵みが満ち、聖霊の感動、感化、御働きが満ちて、伝道の火がついてみんな一人、二人、三人、あるいは数十人ずつ伝道することを、三位の御名によって祝福します。アァメン。




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CATEGORY : 御言葉
<2009年9月6日 主日の御言葉>
DATE : 2009-09-09-Wed  Trackback 0  Comment 0
騙されるな。主に任せなさい。謙遜でありなさい
随時感謝し祈りなさい


本文 ペテロの第一の手紙5章6−8節


ハレルヤ!主の平安が満ちることを祈ります。
皆さんは毎日、毎時間、神様を讃美し神様に感謝しますと言いながら生きていますか。みんな各自、一時間に三〜四回ずつは必ず神様と主と聖霊様を呼びながら「このようにして下さって感謝します。あのようにして下さって感謝します。」と言ってこそ、サタン、悪魔がつけ込まなくなります。
一度に神様と聖霊様と主を百回、千回ずつ呼んで感謝するより、生活の中で感謝、生活の中で祈り、生活の中で讃美をしながら生きるべきです。一度にするより生活の中で分けて真実をもって感謝し祈り讃美するべきです。
これまで神様と聖霊様と主がして下さったことを考えると本当に感謝すべきことが多すぎます。未来のことまで感謝してこそいつも感謝すべきことが生じます。以前にあのようにして下さいと言ったからいろいろな方法でして下さり、さらに良くして下さったのに、どうして物質の感謝と唇の感謝をしなかったのですか。現実にも必ず感謝しなくてはいけません。感謝しなければ下さいません。
隣に先生がいれば必要なときにいつも感謝し対話もするでしょう。神様と主の前にも祈るときだけ一度に全部やって終わらないで、随時しなくてはいけません。先生もそのようにします。話はその時その時、したい時にしなくてはいけません。このように生活の中で真実をもって神様を呼び、真心で自分がしたい話をするのです。
人々に話したら成されるわけでもないのにどうしてしょっちゅう人々に話しますか。習慣になり、癖になると、死ぬ時までそのようにすることになります。もちろん人々にすべきことは人々にもしなくてはいけませんが、神様にすべきことは必ず神様にしなくてはいけません。神様、聖霊様、主、人にそれぞれ必要な話をしなくてはいけません。世の中でもその人に求めるべきことはその人に求めなくてはいけません。
言葉も一つの啓示です。主が摂理史の全ての啓示者たちにも一様に、「人々はいたずらに人々にあれほどにも多くの話をして暮らしながら、私にはあまり話さずに生きている。」とおっしゃいました。天国に行く人たちは主に話す時間がもっと多くなくてはいけません。しかし生活の中では話さないで、祈るときだけ少し話して終わります。話すときに熱くしてこそ通じるようになります。主と愛しながら親しく付き合ってこそ祈りもよく通じるのです。
人々は、人には情が移って時間が過ぎるのも忘れて深い対話をします。その対話が主の御心を対象としてするものであれば、公的な時間を過ごしているものとして霊が成長し、信仰が堅固になり、霊に能力が生じるようになります。

主を近くする方法と道があります。祈るときだけ鼓膜が破れるほど「主よ!主よ!」と言って、多くの生活の中では主を忘れて暮らしながら、祈るときだけ呼んで暮らす人は主と近く情が移る信仰へと成長するのが難しい人です。毎時間、毎瞬間、主を呼ばなければ、一日中肉の目に見える生活に溺れて主を何回も考えられずに一日が暮れてしまいます。
神様と主を一日に百回呼ぶには、一度に呼ぶより一時間に五回ずつ呼ぶほうがはるかに効果的です。恋人が隣にいるのに一日中言葉なくただ過ごしておいて、夕方に食事するときだけ数十回、数百回呼びながら話したらむしろ疲れるものです。
神様と聖霊様と主にただ「感謝します。」というのは初歩の信仰です。神様、聖霊様、イエス様を呼びながら「このようにして下さったから感謝します。だからこのように生きていきます。」と切実に感動をもって感謝しなくてはいけません。信じますか。
一日に十曲の讃美をするには、一つの場で一度に歌ってしまうより、一日中分けて歌うほうが自分の信仰の成長においてはるかに理想的な方法です。
サタンは随時いつでもつけ込みます。また私たちがこの世の人生を生きるときは自分も知らずに生活に溺れて生きるようになり、主を忘れて自分だけの人生を生きるようになります。生活の中で主を呼んでみて話しながら生きてみて下さい。近く感じられるでしょう。また、ただ一日中仕事と生活に溺れて暮らしておいて、夜になってやっと主を探してみて下さい。他人に接するように言葉に詰まるでしょう。

神様と聖霊様と主にも必ずそのように祈りで接し感謝しなくてはいけません。先生もそのようにします。このように祈り感謝すると、神様と聖霊様とイエス様も喜んで応えて下さいます。祈りと感謝の対話は万事において必ずしなくてはいけません。
啓示を受ける人たちは、主に切実に祈るから主も応えて下さるのです。啓示は神様と聖霊様と主がその人と対話なさったことです。主は誰にでも心で普遍的な対話をなさいます。その中でより主に近く近づいて深く祈りもがく人には、全ての人たちに伝えてあげなさいと心情の深い話をして下さいます。
霊界は近いですが貫いて入って行くのが難しいです。持久力がなくてはいけないし、深い祈りをしなくてはいけないし、主との対話術もなくてはいけないし、水準がなくてはいけません。切実に哀願してこそ主がご覧になり、ふさわしければ御言葉を下さいます。自分に下さる御言葉があるし、全体に与えなさいという御言葉があります。無限な内容があります。本当に膨大です。個人に属したものは個人で済ませて、全体に該当するものだけ伝えさせます。

啓示は霊界の一つの世界である夢の中でも受けます。神秘的に教訓を与えます。理致に合わせて与えます。夢で受ける啓示は特に自分に与えるものが多く、あるいは教会についてのものや、あるいはこの時代にこれから起こることについてのものです。
先生が夢でボールを蹴るのですが、惜しくもゴールできない夢を見ました。相手のゴールキーパーがいなかったのに入りませんでした。ゴールをあまりにも遠く置いてボールを蹴るから入らなかったのです。この啓示はどんな啓示でしょうか。一度解いてみましょうか。
その日の明け方は2時に起きました。前日、夜の12時を超えて働いたからです。主は「明け方1時に祈るのはゴールから20mのところからボールを蹴るのと同じで、明け方2時に祈るのはゴールから40mのところからボールを蹴るのと同じだ。」とおっしゃいました。啓示はうまく解かなくてはいけません。ゴールを基準として時間によってゴールと自分の距離を見せてくれたのです。
ある時はサッカーボールが小さなボールに変わりました。ピンポン球くらいに変わるときもあったし、梅の実くらいに変わるときもありました。この啓示はどんな意味か解いてみましょう。祈りの時間が減るほどにサッカーボールが小さなボールに変わったのです。この啓示は先生だけでなく皆に該当する啓示です。十分に時間を出して祈るからサッカーボールをそのまま置いて蹴りました。
神様と主は万物で啓示することもあるし、夢にも見せて啓示なさいます。遅く起きると理由如何にかかわらず夢で指摘を受けます。ある時は少し遅れて起きると、大きな蛇が現れたのですが、洞窟に入って行ってしまい、尻尾だけ残して惜しくも捕まえて殺せませんでした。みんな早く起きなさいという啓示です。
自分に見せてくれる啓示を解く方法を知らなくてはいけません。夢でもいろいろな比喩で見せてくれます。必ず啓示を受けて解いてこそ守るようになります。脳で受ける啓示もあるでしょう。考えが実際の映像のように浮かびます。
主が隣りに来ていらっしゃると、主の心が悟れたりもします。その人が隣りに来ていると、その心が感じられ伝わります。悪魔が隣に来ていると悪魔の感じが来ます。お祈りをたくさんして気を遣えば全て分かります。霊的な人になると詐欺師も、泥棒も、異性的に誘惑する人も、全て感じられます。祈ると自分の霊が分かります。霊的な人たちは、見つめれば相手の心が目に見えて感じられます。サタンも感じられるし悪霊も感じられます。名前だけ分かってもその人のことを分かります。見なくても分かります。

今は「霊的な時代」です。だから祈って主を求めると前より10倍も早く通じます。肉的な時代は過ぎ去りました。霊的であってこそ主と通じます。今は肉的な時代ではなく霊的な時代です。恵みの時代です。聖霊の時代です。霊的な戦争の時代です。
悪魔たちは主と近く生きる私たちを妨害しようと、互いに意見を異ならせて争わせ、互いに憎む心を持たせ、様々に誘惑し、試みと迫害と人々を通して落胆させ、希望に満ちたことを失望にして、私たちと戦争をします。いつも悪魔を軽蔑して祈らなくてはいけません。悪魔は攻撃しても兄弟たちは攻撃しないで下さい。霊の目で見れば悪魔が付け回しています。
主は全体のそれぞれの人に命じて「この時間、私の言葉を聴きなさい。一人一人サタン、悪魔が付け回して私イエスを遠ざけさせ、兄弟と平和にできないように妨害している。だから祈って滅ぼしなさい。あなたがたが祈ればいくらでも敵、悪魔を滅ぼすことができる。」とおっしゃいました。また「悪魔が来て不安がらせているのを知らずに兄弟と争っている。」と言って非常に痛ましく思っていらっしゃいます。

悪魔は蛇だと思わなくてはいけません。悪魔の上半身は人間で、下半身は蛇です。みんな祈って悪魔の実体を見せて下さいと言ってみて下さい。一度見てこそ罪を犯すまいと努力します。悪魔のやつは尻尾を地面にばたばたと打ちながらぴったり近寄って来ます。悪魔を随時追い払い、戦って勝たなくてはいけません。
悪魔は各自、地獄で個性の王として生きています。悪魔は完全に話をでっち上げて話します。嘘を本当の話だと言って騙して地獄へ引っ張って行こうとします。悪魔も男と女の二種類になっています。特に女の悪魔は非常に悪質です。地球くらいも悪を持っていると思わなくてはいけません。男性の悪魔は無学で武力的です。この悪質な悪魔、悪霊たちは、完全に地獄へ入る前に悪辣に活動します。
この悪魔が家庭に働きかけると家庭が滅びます。祈って悪魔を撃退してこそ家庭が平和でうまくいきます。個人も同じです。悪魔が来るとその人は滅びます。悪魔に打ち勝ってこそ天国に行きます。悪魔に打ち勝ってこそ主を手に入れます。悪魔に打ち勝ってこそ主の新婦になります。悪魔に打ち勝った人たちが白い服を着て歩きます。
悪魔は神様が人間に下さった愛を奪って行きました。その愛を奪って自分の愛の主権にしました。まるで蛇が人間たちの首と体をぐるぐる巻きついているような立場になりました。自分の罪を悔い改めて赦しを求めれば、主はすぐに赦して下さいます。すると私たちは再び神様を愛するようになり、反対にサタンを御言葉の剣で打ち破り、鎖でしっかりと縛っておくことができます。
悪魔は神様が人間に下さった愛を横取りしました。人間が神様の御言葉に不従順だったのでそのようにしました。悔い改めて神様の御言葉に従順すれば敵、悪魔を滅ぼすことのできる権能を得るようになります。神様はその権能を下さいます。
主は悪魔を打ち破る人たちを見てとてもお喜びになります。霊界で見るとまるで英雄扱いをして下さいます。その功績で階級を上げて下さり、使命を下さいます。
悪魔は第一に、人間の愛を奪いました。第二に、神様と人間の間の愛を奪おうと妨害しています。私たちがいつも新婦の条件を立てて王の王でいらっしゃるキリスト、イエス様を愛しているから、また昔のエデンの園でエバの愛を奪って自分のものにしたように誘惑しています。
今日、私たちが主の新婦になって主を愛しているから、サタン、悪魔は男性と女性が堕落するようにして、主の新婦となった人たちの愛を奪い、彼らを取る作戦を使っています。サタンはエデンの園のときから今までそのようにしています。
主はこれを見て本当に痛ましく思っていらっしゃいます。サタンに引っ張って行かれると地獄へ行きます。サタンは霊物だから人間を使って惑わし、様々に誘惑します。誰でも自分が完全にイエス様に従えば、絶対に倒れません。自分が喜んでついて行ったら結局地獄の道なのです。
サタンは愛を奪って行く怪物です。私たちの天敵です。先生は主の十字架のハンを解いて悪魔を滅ぼすために主に体を捧げたので、このような歴史を成すようになったのです。主は敵を討ってくれとおっしゃいます。皆この秘密を知って敵、悪魔を滅ぼさなくてはいけません。主を信じて愛し、その御言葉に従順することが悪魔を滅ぼすことです。先生は御言葉の斧で敵、悪魔の首を切って滅ぼします。悪魔の主管を受けて罪を犯した人たちも、御言葉の斧で切って悔い改めさせます。
聖書では「悪魔を滅ぼしなさい。悪魔に敵対しなさい。悪魔と戦って勝ちなさい。」と言いました。悪魔が働きかけなければ人間はそれほど悪くありません。悪魔が人間に臨んで働きかけるからそんなに悪くなるのです。

みんな祈って御言葉を実践し、サタン、悪魔、悪霊たちを全滅させなくてはいけません。悪魔が持っている武器より私たちが持っている武器のほうが新型だしはるかに良くて優勢だし、戦って勝つのに有利です。私たちは銃を持って戦いますが、悪魔は田舎の鍬やシャベルを持って来ます。だから悪魔が来たらパン!と撃ってしまえばいいです。近くに来れないようにしなくてはいけません。近くに来ると突かれます。銃を持っている人でもうとうとしたり眠ったら、鍬とシャベルを持って来る悪魔にやられて死ぬことになります。
悪魔を滅ぼすことくらいに重要なことがありますが、「自分との戦い」です。悪魔が来なくても、妨害する人がいなくても、自分の人生は自分と戦って打ち勝たなくてはいけません。肉と霊が戦って霊が勝たなくてはいけません。霊で肉的な思考と行いに全て打ち勝たなくてはいけません。勤勉であり、祈って、讃美し、聖書を読み、御言葉を聴き、落胆しないで希望に満ちて打ち勝たなくてはいけません。
主は「あなたがた皆リバイバル講師にならなくてはいけない。」とおっしゃいました。どういうことかというと「自分に対してリバイバル講師になりなさい。」とおっしゃいました。「自分を改革し、自分が自分を直し、自分自ら聖霊の火を受けるようにしなくてはいけない。リバイバル講師のように自分が自分に悔い改めなさいと叫び、神霊でありなさいと叫び、リバイバル講師のようにもがきながらいつも自分を教育して自分を生かさなくてはいけない。」とおっしゃいました。
そしてまた「自分が完全に生きて聖霊が満ちたら、出て行って兄弟たちにも叫ぶのだ。リバイバル講師が聴衆を前にして緊張を緩めずにするように、自分というリバイバル講師もそのようにしなくてはいけない。覚悟と執念が優れていなくてはいけないし、勤勉で大胆でなくてはいけない。」とおっしゃいました。
主が「必ず自分に対してリバイバル講師にならなくてはいけない。」とおっしゃったから、そのように生きて下さい。

主に背いて異性によって裏切った罪と、主の恋人たちを堕落させた人たちに罪がどれほど大きいのか、本当に深く悔い改めなくてはいけません。主を愛していたのに異性のせいで主に対する愛が他の人に向かったら、主を愛で裏切った罪を犯したことです。
主は先生に「そのとき私が受けた心情の苦しみを話してあげなさい。」とおっしゃいました。堕落した人、堕落させた人、特に天が立てた人を堕落させた人、結婚した人を惑わして堕落させた人たちに深くおっしゃいました。愛する人に裏切られ、王の王に背くその行為に主は怒りがこみ上げたとおっしゃいました。「その人が再び戻って来て100年地面を打って悔い改めても振り向かない。」とおっしゃるほどに腹が立ったとおっしゃいました。
幼い人も、成長した人も、主の愛に背いて他の人のところに行った人たちはみんな同じです。主を捨てて背を向けて行って自分が好きな人と愛するのをご覧になって主は「あなたは終わった。地獄だ。あなたは私が受けた苦痛を、舌を噛みながら受けるだろう。」とおっしゃいました。
世の中でも愛の裏切り者とは情が離れるから一生一緒に暮らせなくて結局離婚します。再び戻って来ても元のようになるのは難しいです。愛の裏切りほど過酷な行為はないし、愛の裏切りほど心情の深い傷はありません。傷つけられた人はまた別の人を選んで愛することで癒されればいいですが、傷を与えた人は絶壁を登るくらいに辛い苦痛によって回復しなくてはいけません。
悔い改めはあまりにも大変です。主が受けた過ぎし日の心情とその苦痛を知って慟哭し、その傷を愛で接して癒し、祈って悔い改めてこそその悔い改めをお受け取りになります。主は「赦しはしてやるが行なったとおりに受けるからその影響が天国まで及ぶ。」とおっしゃいました。
主を愛で不信して悔い改めて回復した人は、天国でも行なったとおりに受けるから、家も違うし、地域も違うし、主が接して下さるのも違うと言いました。堕落せずに清く主に仕えた人たちはどれほど幸せなのか知るべきです。この世で主に仕えた行為によって天国の人生が変わります。
主は啓示者たちにその本心を語られますが、「愛」を最高だとおっしゃいます。愛が終われば終わるし、愛すれば再び生き返ります。
私たち摂理史は、既成では敢えて起こすことのできない歴史を起こしました。再臨の時に合わせて過去30年間、主を迎えるところに焦点を合わせて主が導いてこられました。神様は主の再臨の時を合わせて、まるで一人の人を選んで働きかけられるかのように摂理歴史を生み、働きかけてこられました。
主が啓示者たちにおっしゃいました。「私があなたがたを救って、他の人たちを通して受けられない栄光を受けるために特別に働きかけてきたのにまだ分からないのか。個人までも事々に特別に働きかけていることを知らなくてはいけない。あなたがたを異端だと言ってあらゆる悪口と聞くに堪えない言葉を言った人たちは、根本的に悔い改めなければ暗闇へ行くことになる。あなたがたは苦痛を受け、迫害を受けてきたが、本当によくやった。真に幸せな人たちだ。あなたがたは迫害されたが打ち勝って最後まで行なったから、最後のこの時に結局摂理歴史のあなたがたに祝福が回って行ったのではないか。私の祝福はこれだ、最後の時を知らせてやる祝福だ。聖霊の働きを受けさせてやる祝福だ。私があなたがたと共にする祝福だ。神様の霊をあなたがたに注いでやる祝福だ。最後に与えた祝福を誰にも奪われないようにしなさい。」とおっしゃいました。
この祝福によって時を知るようになり、より良い救いを受けて永遠な祝福を受けるようになったのです。最高の祝福です。そして神様は「あなたがたはどうして私を天にいる存在者とばかり思ってあまり求めないのか。」とおっしゃったそうです。みんな真実をもって神様を呼び求めるべき時です。

今日の御言葉の核心は第一に、サタンに打ち勝ちなさいと言いました。第二に、自分自身に打ち勝って自分を復興させなさいと言いました。第三に、神様と一体となり、主と一体となりなさいと言いました。聖霊と恵みを満ちるほど受けて信仰が堅固な人にならなくてはいけません。

サタンに打ち勝ち、自分自身に打ち勝ち、神様から恵みを満ちるほど受けなくてはいけません。聖霊を受けたのに、もうあの熱い熱気が冷めました。このようにしては世の中で鈍くなり、霊的に感覚がなくなり、悪人たちの市中に入って行くようになります。「聖霊を受けた」ということは一つの体験ではありません。神様をお迎えしたことです。神様の霊を受けたことです。
聖霊を受けたから区別された生き方をしなくてはいけません。いつも恵みが満ちなくてはいけません。ダムや飲み水用の上水ダムに、干ばつに備えて水をもっと満ちるほど受けておかなくてはいけません。満ち溢れるほどに満たさなくてはいけません。これと同じく聖霊の恵みも私たちの心と精神と霊に満ち溢れるほどに受けておかなくてはいけません。

今は聖霊の働きの時代です。聖霊で生まれ変わってこそ、患難に打ち勝ち、主を迎え、天の国に行くことができます。今は啓示の時代です。主がもどかしいからいつの時よりさらにたくさん啓示して下さっています。今は神霊な時代です。神霊な御言葉でなくてはみんな聴こうとしないし、聖霊の熱い御言葉を伝える人だけについて行きます。

今は自分を完全にする時です。今伝道して功績を積まなければ永久にできずに終わることになります。サタンはどんどん悪くなります。この時が最後の瞬間の機会です。一人一人、みんな本当に傷なく整えなくてはいけません。

全知全能な神様の能力と愛と、主の大きな御言葉と啓示と、聖霊の感動、感化、御働きが、御言葉を聴いて、悟って、尊く思い、行なう全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。




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健康コラム 文:パク・ギョンイル(内科専門医)

神様の贈り物「運動」

「適度さと続けること」が大切
「健康管理」とは何だろうか。病気の予防のための活動は本人が自らすることだとすれば、病気の早期発見および治療は医療人が担当することになる。このように、本人と医療サービスが統合されて成される、本人の保護活動全部を健康管理と言うことができる。先生は、自分が自分を治療する医者になって自分の管理をし、常識的な医学知識さえあれば基本的なことは予防できるとおっしゃった。ここでは病気の予防のための本人の活動の中で、運動に関して話そうと思う。
「適度な運動」は身体が耐えられ、体に負担を与えない程度の運動のことを言う。過度な運動によって身体が耐えられず、体に負担を与えるとすれば、良い運動と言うことはできない。全世界的に有名な合気道の選手が年を取って関節炎でひどく苦労していたというエピソードは、示唆する所が多い。身体が耐えるに適当な活動は、脈拍数によって見定められる。年齢によって許容する最大脈拍数がある。最大心拍数(脈拍数)は220から自分の年齢を引くと算出できる。つまり本人の年齢が40歳なら「220-40=180」で、運動を激しくやっても毎分180回の脈拍数は本人の身体が耐え得るという意味だ。ここで「適度さ」とは、最大脈拍数の70〜75%だ。

220−年齢=最大心拍数
適切な運動量=最大心拍数×(0.7〜0.75)
ところで運動をしてみると、現在の運動量に満足できず、次第に運動量を増やしていく場合が多い。運動を持続しながら運動中毒で行き過ぎた運動をするようになるのだが、このとき、上の数式は自分の運動量がどれだけ適当であるかを確認する指標になる。また運動量を漸次増やしていく場合にも、適当な活動の指標を提示する。
特に運動中毒が多く生じる活動が、ジョギング、長距離走等である。走ることは燃焼させる作用をするが、あまりに速く走るからといって効果がさらに現れるわけではないので、ゆっくり走るのが良い。走っている途中に膝や足首に無理がかかって痛める場合が多いので、準備運動のときに十分に解してやらなくてはいけない。適当な走りは、一週間に3回以上、15〜30分程度、持続的に走り、走っているときに一番つらい瞬間が、最大脈拍数の70〜75%を超えないようにすると良い。肥満の人の場合、走ることがむしろ膝の損傷を誘発することもあるので、膝に負担を与えない運動をするのが良い。代表的なものが自転車に乗ることだ。
自転車に強い強度で短く乗るのは、体脂肪の減少効果もなく、運動効果も不完全だ。適切に自転車に乗るには、運動前後に5分程度ストレッチをして、一週間に3回以上、30〜45分程度で約6〜13kmを走ると良い。体力が弱い場合、20〜30分程度で約5〜8kmを走るようにし、腰や膝の痛みがある場合、室内自転車を利用すればよい。
運動の程度を単純に脈拍数で決定することはできない。4時間ゆっくり歩くだけの場合、脈拍数の変化がほとんどないが、運動をしていないわけではない。しかし4時間歩く運動が、1時間やったのに比べてむしろ膝の関節等をもっと悪くする原因になることもあるので、適度な運動と言うことはできない。適度に歩く運動は、一度歩くとき30〜45分程度で、一週間に3〜5回以上歩くが、歩幅をできるだけ広げて速い歩行で歩くことだ。
適度な運動が健康維持に影響を及ぼすために一番大切なことは、運動量や運動時間も大切ではあるが、もっと大切なことは、たゆまず運動することである。短い時間でもたゆまず運動することは効果的に心臓と肺の機能を向上させ、強い血管組織を持つようにする効果があるので、成人病を予防できるだけでなく、肥満解消に良く、老化現象を遅らせることができる。
先生が、運動は「神様の贈り物」だとおっしゃった。運動をするにあたって、時間と環境は問題ではない。信仰の健康のために祈って讃美し聖書を読むように、肉体の健康のためには運動をたゆまずすべきだとおっしゃった。「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス․キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙5:23)という御言葉のように、霊肉の運動を通しての全ての人たちの健康を祝福する。




摂理の月刊誌「チョウンソリ」2008年10月号より
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CATEGORY : 御言葉
<2009年8月30日 主日の御言葉>
DATE : 2009-09-01-Tue  Trackback 0  Comment 0
赦しはあるが延期はない

本文 マタイによる福音書24:21−22
    ルカによる福音書21:34−36


ハレルヤ!主の平安を祈ります。
今日初めて来られた方々と最近新しく来られた皆さん、早く来られた方々もみんな神様が御心があって皆さんを神様の前に来させました。自分たちが願い望んだから来させたのです。
先生も神様と主を50年以上経験してみましたが、神様と主が私をお呼びになったことが分かりました。何も言わずに私を感動させ、御言葉と環境で働きかけ、いろいろと個性に合わせて働きかけ、神様が願われる目的と御心を少しずつ行なわせて導いて下さいました。人間はなぜ生きるのか、神様がなぜ必要なのか、人生の真とは何であり目的は何であるのか、行くべき道はどんな道なのか悟らせ、導いて働きかけられました。
神様はただお呼びになるのではありません。
神様が皆さん各自をお呼びになった大きな御心があります。人間が神様の御心を知らなければ地上で虚しく生きながら、罪悪の世界で罪を犯して罪の代価を受けながら毎日地獄のようなあらゆる苦痛を味わって生きることになります。そのように生きないで、永遠に存在なさる神様が世の中と人間を創造なさった御心通りに神様を愛して信じ、義なる生き方をして、愛と平和で神様の御心を世の中に実行しながら生きて、神様の国、天国に来て永遠に喜びと愛で神様と一緒に暮らそうと呼んだのです。
神様は全世界の皆をお呼びになり、皆その御心通りに生きなさいと予定なさいました。しかし人々は知らなくて自分の時に来ないし、神様が尊いということを知らずに生きています。人生を虚しく生きて死ぬ時になると「人生、もうこれで終わり?あんまりだ。獣のような人生だ。」と言いながら、その時になって初めて虚しく生きたことを悟って後悔し、人生の道を探します。
なぜ人生が虚しいのですか。神様の御心通りに生きれば虚しくありません。一日を生きても、時を無為に過ごすから虚しいのです。意味があるように永遠な世界のために生きたらどうして虚しいでしょうか。人生も同じです。

永遠な天国の道でも遅く悟ったら分かっても行けません。人生、息絶えれば神様と主を信じていなかった人は、神様の国に行けません。神様と主を信じないで息絶えたら、天国と反対の、永遠に苦痛を受ける地獄へ行くことになります。取り戻すことのできる人は誰もいません。それで終わったのです。
私たちの人生の前には「天国と地獄」、二つの道しかありません。先生はこれを早く知ったので、全ての人生をひたすら天だけのために投資してきました。神様が私たちをお呼びになったのは「この世で神様の御言葉を聞いてその御心通りに生きて、時になって死ぬことになったら、この世で神様の御心に従って苦労したその努力と忠誠を尽くしたその行いどおりに天の国に行って、準備しておいたものをもらって永遠にそこで暮らしなさい。」ということです。だからどれほど幸せですか。
これを正しく知らなければ神様がお呼びになったのに教会に少し通って再び世の中へと出て行きます。本当にもどかしい人です。先に来た人たちが正しく分かって本当によく教えなくてはいけません。教えてあげる人の責任も大きいし、本人の責任はもっと大きいです。
神様と主を信じて愛して尊く思えなくて、永遠の命の道を行けなければ、永遠に失敗した人生です。この世で世の中のことを全て享受して生きても、神様を信じず、その方が遣わしたメシア、イエス様を信じないことで救われずに死んだ人は、一生普通に生きても神様と主を信じることで救われて生きて死んだ人より幸せでない人です。天国に行って来た人や、地獄に行って来た人たちはこの秘密をはっきりと知っています。
神様がこの世を創造しておいて、この世の親を通して産み育てて、この地上で神様を信じて天国のように生きて、天の国に来なさい、とお呼びになりました。

初めて来た人たちは本当に貴いことを悟らなくてはいけません。神様を仰ぎ見て感激して祈り、ありがたく思わなくてはいけません。イエス様が皆さんをお呼びになり、伝道して連れて来るまで皆さんの過去の人生をご覧になって、多くの人々の中から来させたのです。伝道者たちの話を聴いてみると、100人、あるいは500人の中で一人来たと言いました。
地獄へ行く人生を生きている人たちを教会へ導いて、神様と主の御心どおりに生きながら天国の人生を生きて、死んだ後に天国へ行こうと選んで呼んで来たから、神様と主を愛して、喜んで感謝しなくてはいけません。そうしてこそ主も熱く接して下さいます。

今日、主は皆におっしゃいます。「私も寛大に接するから、あなたも寛大にしなさい。寛大に接しなさい。私もその人に寛大に接することにしたから、あなたもその人に寛大に接しなさい。」とおっしゃいます。「あなたが愛する人だから寛大に接してあげなさい。」とおっしゃいます。「その人があなたを愛しているから寛大に接しなさい。」とおっしゃいます。
寛大さは哀れに思うところから来るし、慈悲深い心から来ます。自分の気持ちを傷つけた人たちに寛大に接しなくてはいけません。そうしなければ自分の心にサタンが入って来ます。そのようにすれば嬉しいことと良いことがあります。
聖書で主は「私も罰しないし詰問しないから、あなたもそうしなさい。」とおっしゃいました。主のようにしなければ主に反対する人であり、主の心に逆らう人になります。

主は続いて本当に貴い御言葉をもう一言語られました。主は「延期はないが赦しはある。」とおっしゃいました。主はこの御言葉をニ〜三回繰り返されました。何についての延期なのか、何をお赦しになるのか悟れなくて主に訊きました。
「延期」については「私の父が定めた私の再臨はもう延期はない。」と私の心に御言葉が聞こえてきました。そして「赦し」については「あなたがたが切に求めて熱心にやれば、神様が憐れみと慈悲で寛大に赦して下さり、再臨の前に切迫している災難と災いの中で収めるものは収められ、減らすものは減らして下さり、赦して下さるものもある。」と悟りました。だから主は「本当によくやってお祈りをたくさんしなさい。」とおっしゃいました。それで私の心に急ぐ気持ちが生じて「本当に瞬間の時間に立っているんだ。」と悟りました。
主は「私が去って行ったら誰が教えてくれるのか。私がいる時、この時期に関することを早く学びなさい。」とおっしゃいました。
主は1次再臨を延期なさいました。これは主を信じて待っている人たちがまだ準備ができていないからです。実際に、待っていたとおりなら主の再臨は1999−2000年に起こったでしょう。そのとき皆、世の終末だと言って主が再び来られると言いました。
聖書に預言した御言葉のように、まだ主が再臨なさらなくても1999年以降、全世界のあちこちであらゆる災難と患難としるしが本当にたくさん起こりました。先生はそれらを直接見ましたが、主は終末に該当する災難だと言いました。

「1次再臨を延期した。」という御言葉は、主が世の中の預言者たちと摂理史の啓示を受ける人たちにまで一様に話して下さいました。また死んで霊界に行った人たちが、主が1次再臨を延長なさったが、実際に延期したその日が近づいたという話を天使から聞いて、生き返って話したりもしました。
主は確かに再臨を延期なさいました。しかし延期したその時間さえ終わったと主は使命者たちと啓示を受ける人たちに一様におっしゃいました。
主は再臨について「今、最後の瞬間にかかって生きている。」とおっしゃいました。「延期はないからもっとしっかりしなさい。」とおっしゃった御言葉です。「心が緩んでいる人たちはずっとそういう状態で生きるなら、主の再臨を迎えられない」とおっしゃった御言葉であり、「考えを緩めないで緊張を解くな」とおっしゃった御言葉です。

「あなたを中心として皆、今よりもっと早く準備しなさい。」という主の心情が私の心に伝わってきました。
主は皆におっしゃいました。「もう延長はない。延期はない。今あなたがたがそのままにしては私の心が不安だ。だから霊的にしなさい。肉的にしたらできない。霊的にしなさいということは霊でしなさいということだ。肉体が肉的に考えて無知でするな。説教の御言葉も霊がもらって伝える神霊な御言葉だから、伝える人たちも霊で十分に叫んでくれなくてはいけない。肉がしたら熱心にやっても知恵なくやるから遅くてできない。」とおっしゃいました。
主を迎える準備は霊がしなくてはいけません。霊が主を迎えるのです。霊が主を迎えて天の国に行くのです。肉が迎えるのではありません。肉は主が来ても見えません。「今は霊がしても肉と一緒にするから遅いので、もっと早くしなさい。」という御言葉です。

主は「赦し」について「あなたがたが切に求めて熱心にすれば私の父が憐れみと慈悲で、寛大さで、お赦しにはなる。」とおっしゃいました。真実をもって罪を悔い改めれば赦して下さいます。各自、自分の罪は自分が犯したから、この上なく真実に自分が悔い改めをしなくてはいけません。
先生も摂理全体について祈ります。摂理史の誰かのために祈って、まるで先生が罪を犯したかのように思って、赦して下さいと切実に求めると、主は赦してあげたとおっしゃいました。そして今日の明け方に来られたときにまた「赦したから寛大に接しなさい。」とおっしゃいました。
先生も切に求めますが、本人たちも必ず自分の過ちを赦して下さいと言って切実に祈らなくてはいけません。主の気持ちを傷つけたこと、兄弟に言葉で傷を与えたこと、約束を守らなかったこと、自暴自棄したこと、全て悔い改めなくてはいけません。必ず個人と兄弟と主にすべて解かなくてはいけません。
主は、伝道を熱心にした人たちが自分の過ちを悔い改めるときによりよく赦して下さいます。そして自分の任されたところの責任を果たし、忠誠を尽くし、主の仕事を熱心にした人たちをよりよく赦して下さいます。そして「赦しはある」という今日の御言葉のように主は「切実に祈るときに赦してあげ、患難と災難を免じてあげ、減らしてあげる。」とおっしゃいました。
「赦しはあるが、再臨だけでなく定めた時間において延期はない。個人の災難と患難について祈れば、赦してあげ、減らしてあげる。家庭・民族・世界的に訪れる災難と災いと患難について祈れば、赦してあげ、減らしてあげることもある。」と言いました。早く祈って赦してもらい、前に迫って来る困難をなくさなくてはいけません。
今日は「赦しはする。しかし再臨の延期はない。」と主が天の父の心をお分かりになって話して下さいました。主が私にお話しになると、全世界に御言葉が出て行って皆が聞くようになるから、主は先生に話して下さって行かれたのです。「延期はない。赦しはある。」という御言葉をこのように解いて伝えてあげたから、この御言葉を聴いてみんな早く祈らなくてはいけません。

主に、伝道をどのようにすべきかと訊きました。「一つだ。一つだ。そうすればできる。」とおっしゃいました。それで先生は「主よ、『一つ』という言葉はどういうことですか。一人ずつ伝道しなさいということですか。」と訊きました。主は「そうではなく、全体の摂理人たちの心が一つにならなくてはいけない。愛も一つ、信仰も一つ、私の再臨を信じて準備することも一つ、伝道することも、全て一人がするように、全体が一人のように動いてしなくてはいけない。」とおっしゃいました。
そして主は「今年は<新しく変化しなさい>と言ったではないか。今年みんな聖霊で生まれ変わって変化してしまわなくてはいけない。だから聖霊の働きを続けているのだ。変化した人だけ実を結ぶ木と見る。変化しない人は実のない木と見るだろう。マタイによる福音書3章10節を読んでみなさい。」とおっしゃいました。
(マタイ3:10)「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」
主はまたおっしゃいました。
今、摂理人全ては伝道に拍車をかけなくてはいけません。全体が、一人が動くかのようにしなくてはいけません。「祈ろう!」と言えば全体がみんな祈り、「走ろう!」と言えば全体が一つとなって、一人が走るかのようにしなくてはいけないし、「伝道しよう!」と言えばみんな伝道しなくてはいけません。
みんな各自、自分が伝道すべき人がいるから、その人は自分が必ず伝道しなくてはいけません。全体が伝道して下さい。御言葉を終わります。

聖父、神様の愛と、主の御言葉と、聖霊の感動、感化、御働きが満ちることを祝福します。アァメン。




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