霊で行なってこそできる
霊的な人だけ主の再臨を迎える
本文 ローマ人への手紙8:5−11
ハレルヤ!神様の全能な愛と主の平安を祈ります。
今日の聖書の本文の御言葉から始めます。
本文の御言葉に「肉体ですれば絶対にうまくいかない。むしろ死亡だ。」とあります。肉体は肉的にだけ行き、肉的なことだけするようになり、肉的に悟るようになります。だから「肉の思いは死である。」と結論づけました。
肉的な人たちは神様を喜ばせることができないし、いつも損害を与えて心配させます。しかし霊は霊の考えをして神様と主をいつも思います。霊の考えは永遠の命を与えます。肉体は神様の法に屈服しません。しかし霊は神様の法に従順し従います。
使徒パウロは主からこの真理をもらって実践し、そのように生きたので、霊的で信仰的な人になって主がお使いになるのにふさわしい人になったし、偉大な使徒になりました。使徒パウロは毎日自分の肉性を殺して祈り、霊的な人になって主の御心を悟って生きました。偉大な人生を生きました。成功しました。
霊について知らなかったり、霊的な人でなければ、霊の盲人であり、おしであり、耳の聞こえない人です。主が「どうやって盲人が盲人を手引きすることができるのか。盲人が盲人を手引きすればふたりとも落とし穴に落ち込み、何かにぶつかって怪我をしたり死んだりまでする。」とおっしゃいました(マタイ15:14)。
宗教の指導者たちの中で盲人たちは自分を信じてついて来る人たちを間違って導くので地獄に行かせ、自分も地獄に行っています。霊界に行って来た人たちや、地獄に行って来た人たちはみんな知っています。どんな宗教なのか一度考えてみて下さい。主の再臨を前にして霊的な英雄たちと霊的な指導者たちに会わなくてはいけません。会った人は幸せな人です。
肉の考えは死亡であり、霊の考えは生命です。主の考えは霊的なものであり、人間の考えは肉的なものです。神様と主がお使いになる使命者が霊的な人です。霊的な人であればあるほど聖霊の働きを起こして聖霊が充満します。肉的な人は聖霊の働きのおかげで聖霊を受けて暫し霊的に行っても再び肉的に考えて生きるので後には離れて行きます。
神様と主と聖霊様は霊でいらっしゃるから、私たちも霊に属して霊的な人にならなくてはいけません。そうしてこそ神様と主と聖霊様と通じます。人はそれぞれ肉もあり霊もあるから、霊に属して霊が中心になって生きなさいということです。霊は祈ってこそ神霊になります。絶対に主第一主義で生きて主を愛してこそ霊が肉体を主管して霊的な生き方をします。
霊が天の国に行くから霊に気を遣わなくてはいけません。霊を中心にしてこそ肉も霊と一緒に忽然と変化します。肉体の考えと行動が全て霊の考えに変化しなくてはいけません。聖霊を受けると霊的に生まれ変わって霊的な人になります。霊を中心とした人になります。
霊的な人になっても再び肉に属した人になる理由は、霊を中心とせず肉を中心とするから、だんだん肉に属した人になっていくのです。いつも霊を中心として霊に属した生き方をしなくてはいけません。一度得たなら奪われてはいけません。
主が「時間を計算してみると、肉で走れば足りなくて行けない。肉的にはいくら熱心にしても時間が足りない。これからはもっと霊的にすることによってのみすることができる。残った時間を見ると、肉的にすればできないが、霊的にすればできる。肉ですると時間が足りなくてできなくなる。霊的にすることによってのみすることができる。」とおっしゃいました。
主の御言葉を聴きましょう。
肉が見て聞いて考えて熱心に行なうが、今は肉がいくら熱心にやっても私の再臨のためにすべきことを全てすることはできないから私を迎えられない。時間が短い。できない。だからあなたがたは「できないときは方法を変えなさい。」と学んだとおりに霊でしなくてはいけない。霊ですればできる。
今も霊でする人は十分にやっている。あなたがた霊の人が私を悟って感じて見て、霊の耳で聞いて、霊で話し、霊で考え、霊界で自分の状態を見て、啓示者たちを通して私が啓示した御言葉を聴かなくてはいけない。そうして霊が肉よりたくさん分かって、もっと速く、もっと能力があって、もっと知恵深くなって、すべきことだけして、すべきでないことはしてはいけない。
霊が私と対話もし、霊が祈り、霊が私に切実に真実をもって悔い改め、霊が走らなくてはいけない。霊が肉体にさせ、命令し、治めながら走ってこそ、いくばくも残っていない私の再臨を肉も霊も準備して迎える。神霊な人だけが私の再臨を迎える。肉に属した人は熱心にやっても私の再臨を迎えられない。
あの時代のパリサイ人やユダヤ宗教人たちが熱心にしなかったのか。肉で熱心にやった。だから私が見せたが信じなかった。信じないから迎えられなかった。肉に属していたからだ。あの時代に霊に属した人だけが私を迎えた。霊の目を明けなくてはいけない。この時代も霊的な神霊な人だけが私を迎える。
肉ですると遅くて再臨の前に各自すべきことをできないし、準備すべきことを準備できない。肉は時間をあまりにもたくさん使わなくてはいけないからだ。霊ですれば十分にすることができる。肉ですると10倍、20倍時間がもっとかかる。肉が知恵深くて熱心にやっても霊がすることについて行けない。霊が主人になって肉体を運転し指導し教えて、肉体はその言葉通りについて行かなくてはいけない。
祈りも肉ですると長くやってもいくばくもできず、深い祈りをできなくなる。霊ですれば10分、20分、30分、1時間だけやっても一日中した分することになり、深いことを知るようになる。悔い改めも霊でしてこそ根本的にすることになるものだ。
今日の御言葉は実際に二言だ。あなたがたの先生にこのように啓示した。
1、霊的に行くべきであって、肉的に行くと時間が遅れてできない。
2、霊的な人だけが私の再臨を迎える。
あなたがたもこのように話したら根本を悟って分からなくてはいけない。
いつの時代でも霊的な人だけが私の父を迎え、私も迎えて、後悔なく御心を成しながら生きて死んだ。肉体を中心として生きたら千年の倍を生きるとしても天の国の人になることができない。聖霊で生まれ変わってこそ霊の人になる。聖霊で生まれ変わった人も霊を中心として霊を優先に生きてこそ霊の人になる。
しかし霊は後ろに立てて肉が前に行く人たちが多すぎる。霊的な人にならなくてはいけない。神霊で霊的な人になるように祈りなさい。摂理史の特技は霊的なことだ。あなたがたの先生からして霊的なことが特技だ。あなたがたもそうでなくてはいけない。神霊であれば神霊なことを知るようになる。肉に属した人は私と遠い人だ。霊に属した人は私と近い人だ。
肉的に生きた人たちは自分のすべきことをできなくて私と私の父を迎えられずに死んだ。現実もそうだ。今はあなたがたに残った時間さえいくばくも残っていない。あなたがたが霊でしなければ私の再臨を全て用意して迎えるのが不可能だ。
肉の考えで自分の罪を罪と思わず、悔い改めは神様が下さった一つの当然な信仰生活と思って悔い改めない人たちがいる。このように肉の目で見て肉の考えで生きた人は、これまで私イエスが天の御座に気楽に座ってあなたがたのために切実に求めてくれるものとばかり思ったのだろう。だから私の心情を分かるだろうか。
霊に属した神霊な人たちは私の姿を見て、私の心情の対象になり、私の心を受ける人たちは皆同じく私を見て、本に記録し語ったのではないか。私が主人になって話しなさいと言ったのだ。私が心情を焦がして涙を流している姿を言葉で言うからといってできることではない。あなたがたを見つめているが、私が願っていることを知らず、しないから、もどかしくて泣いている。あなたがたが熱心にやっているが、肉でするからやっても私を迎えられないので泣いている。
だから私の心を知っている人を通して私が叫び、今日私の心情のいきさつをあなたがたに話すのだ。
天の愛を知らずに生きていくから広い死亡の道へ行く人たちが多すぎる。彼らを見るのがどんなに辛いから涙ばかり流すのか。私があなたがただけでなく、世の中の全ての人たちを見つめている。私を知らない人は救われない。あなたがたが神霊な霊の体で人々を救わなくてはいけない。
神霊であって、どうか私について知りなさい。あなたがたが聖霊を受けて私の心を知るようになるから声を張り上げて泣き叫んだのではないか。だからと言ってあなたがたが私が見ているものをすべて見たのではない。私の心情を感じて泣いただけだ。神霊な人、霊的な人だけが感じて見て迎えるように、再臨の時もそうだ。再臨の時、私が人間のように肉体で来るだろうか。霊で来る。私を霊で見た人たちが証したのではないか。あなたがたは見ないと信じないのか。あなたがたが霊的であれば全て見ることができるだろうが、見えなければ見た人たちを通して信じるべきではないか。もし、自分が乗る車を誰かが見たけれど、その車が出発したと言うなら、直接見なくても見た人の言葉を信じるべきではないのか。もし信じないで待ち続けるなら、自分だけ損害だろう。
今は私の再臨の準備のためにあなたがたと共に長くいて助けてあげている。私がいつまでこのようにするだろうか。私が前もって啓示者たちとあなたがたの先生を通して話したことを考えなさい。時間がないと言ったのではないか。
今、準備するこの時は、ちょうど結婚を準備するある女性が準備ができずにいるので、新郎が結婚前に来てとても愛しているので助け、準備ができていないのを見てあまりにももどかしくて助けているような時だ。新郎が新婦を助けてあげながら準備させて結婚式の日を少し先に控えて行くのではないか。私もすぐに行くべき時になった。
あなたがたはこれを信じるのか。信じないなら肉的な人だ。霊的な人は私の言葉を信じる人であり、霊の言葉をもらった人の啓示を信じる人だ。私が行って再び来る時は瞬間、全ての行事が終わる。結婚を準備する日は長いが、新郎を迎える日は一日だ。その一日の中でも数時間だ。
今、新婦として準備できて選ばれる人だけ、私が再び来る時も連れて行ってもらえる。残りは新婦と新郎のためにパーティに参加した人たちだ。新婦として準備できていない人は、宴会場の雰囲気と飲食の雰囲気だけ味わって終わることになる。今あなたがたが私の再臨のために準備する新婦たちならば再臨の前から私を迎えるだろう。宴会場には前もって用意できた新婦だけ連れて行くように、再臨の時も準備できた人たちだけ連れて行く。
しかし準備できた人たちよ!本当に時間がない。霊に属した人は今、私の言葉を霊で聞いてこの言葉を信じるだろう。肉に属して肉で聞く人は普通に聞くだろう。だから肉で考え、見て、聞く人は、私の再臨について目を覚ましはしたが、時代は飛ぶように速く進んでいるのに、時間が足りなくて結局できずに終わってしまう。
私が真実をもって言う、今から肉でしないで霊でしなさい。霊でしてこそ各自自分のものを準備して十分に私を迎えることができる。あなたがたは私の再臨を熱心に準備しているが、肉が中心になってしている人が多すぎる。私が摂理の全世界を貫いて見たから分かる。神霊な人だけが私が再臨しても私を見て迎える。霊的な人だけが私を見て迎える。
肉は無益だ。肉の考えは死亡だ。肉が霊の考えを信じてついて行けば命の考えをするようになるだろう。あなたがたは肉であり、私は霊だから、私が話したことを必ず考えなさい。先生がいつも箴言で「私は霊であり、あなたがたは肉だ。」と言ったことを覚えて、私と一つの体になりなさい。「先生が肉なら主は霊でいらっしゃる。旧約は肉であり、新約は霊だ。」と言ったではないか。この全て、私イエスの御言葉だった。私イエスが与えた法だった。
肉に属して肉的なことばかりしないで、霊に属して霊的なことを中心としてやりなさい。その次に肉的なことをするものだ。霊が祈ってこそ深く祈る。私は毎日、毎時間、誰が私にふさわしくしているのか見て、ふさわしければ誰のところにでも行く。私に会うことも知恵が必要だ。あなたがたの先生に会うのも、知恵深くした人は会ったことがなくても会ったのではないか。
愛の功績だ。私が言ったではないか。神様を心と思いと命を尽くして愛しなさい。私が命を尽くしてあなたがたを愛したから、そのようにする人は誰でも私が会ってあげたし、働きかけてあげた。会ってあげたことを尊く思わないならまた肉的に流れて行ったのだ。
誰でも、自分の霊が私を救い主と認め、私が話した御言葉も認めてこそ、認められる。肉は無益だ。肉は摂理を認めても患難が来たり信仰が弱くなると否認して摂理から出て行く。全て霊で認めなくてはいけない。誰でも霊で私を認めない人は私と共にできない。
あなたがたは聖霊を受けて私を主だと認めたのではなかったのか。私の父と聖霊様についても分かって認めたのではなかったのか。なぜそこで終わる人たちが多く、休む人たちが多いのか。休まず聖霊を受けることによって霊的に行った人たちは限りなく行った。
あなたがたに私が話したことを何一つとして聞き流すな。私が話したことを慎んで信じて守る人は、私の国を相続する人であり、私の再臨を迎える人だ。誰かに自分が再臨を迎える人かどうか訊かないで、あなた自ら私の言葉を守りなさい。自分について把握すれば私の再臨を迎える人なのかそうでないのか自ら分かるようになる。
誰でも私イエスとどれだけ近いかによってその運命が左右される。予定が左右される。その人がもらうものが左右される。私を真心で愛する人が私に近く接するだろう。私の心情を分かってその時その時にすぐ気持ちよく行なう人が、私と近いだろう。あなたがたの先生も近くした人にその願いを聞いてあげたのではないか。
どのくらい私があなたがたと近いことを願っているのか分かるか。私の手に届くくらいに近くなくてはいけないし、私が普通の声で話しても聞こえるくらいに近くなくてはいけない。それから私と一体となって、私はその人の中に、その人は私の中で、恋人のように一体にならなくてはいけない。
霊でしなくてはいけない。霊的な人だけが私の再臨を迎える。この二つの御言葉をあなたがたが悟って分かりなさいと今日いろいろと話した。もう分かったか。私の心がすっきりする。私の言葉によってあなたがたが霊の人になることを願い、平安を祈る。ハレルヤ。アァメン。
自分の霊と主と共に霊的にする人は霊に属した人です。霊的にしてこそ不可能な時間にもすることができます。主が模範を見せて証させようとなさることです。このように先生がやってみても霊的に主と共にしてこそできるということです。
明け方の祈りの中で見たことを話してあげます。先生が必ず行くべき所があったのですが、列車に乗って行かなくてはいけない遠い道でした。一時間ほど歩いて行って駅前に行ってみると、私が感じるには列車がすでに出発したようでもあるし、出発していないようにも思いました。「もし列車が出発したなら困るんだけど・・・早く行こう。」と目的地に向かってせっせと歩いて行きました。
長い間歩いてある場所に行ってみると、私が乗ろうとしていた列車が止まっていたので乗り込みましたが、人が一人もいませんでした。列車で赤いランプが点滅していました。列車から降りなさいという信号でした。分かってみると、その列車の終着駅に来たので降りなさいという信号でした。
そこから私が行くべき所がまだかなり残っていたので歩いて行こうとすると、西の山に日が沈むまで三尋くらい残っていました。「行こうか。行くまいか。行く途中で暗くなったらすべきことができないから、行ってみたところで無駄になる。必ず列車に乗って行かなくてはいけなかったのに・・・」と後悔していました。その瞬間、場面が消えました。
列車は霊的なことを意味します。必ず霊的にやってこそ目的地に行くことができるということです。しかし肉的にすべきこともあります。歩いて行った所と歩いて行った道は、肉的にすべきことでした。列車の道がない所は歩いて行かなくてはいけません。最初に列車に乗ろうとして行く時に、肉的に歩いて行ったから、列車が出発したのです。列車で移動すべき所はあまりにも遠い所だったので、必ず列車に乗るべきだったのです。霊的にすべきことは列車と同じです。また主が列車と同じです。自分が霊的であってこそ主と列車に乗ることになります。
今日の御言葉を準備する時に見せて下さったものです。主と共に霊でしなければ残念な結果に終わります。このような啓示をもらって、主が私におっしゃったことを全て人々が分かりやすいように直接詳しく話して下さいと言いました。だから主と共に霊でやって奇跡的に5倍も早く終わったのです。
再臨も霊的に準備してこそ残った時間に全てすることができます。歩いて行くと不可能ですが、車に乗って行けば十分に行くことができるように、今すべて肉ではいくら熱心にやってもできませんが、霊ですれば全てすることができます。聖霊の火を受けて主と共に霊的にしなくてはいけません。
主、神様の恵みと、聖霊の働きと、主キリストの愛と慈悲が、御言葉を聴いて行なう全ての人たちに満ち、みな霊的に生きて霊で働く人たちになることを祝福します。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
霊的な人だけ主の再臨を迎える
本文 ローマ人への手紙8:5−11
ハレルヤ!神様の全能な愛と主の平安を祈ります。
今日の聖書の本文の御言葉から始めます。
本文の御言葉に「肉体ですれば絶対にうまくいかない。むしろ死亡だ。」とあります。肉体は肉的にだけ行き、肉的なことだけするようになり、肉的に悟るようになります。だから「肉の思いは死である。」と結論づけました。
肉的な人たちは神様を喜ばせることができないし、いつも損害を与えて心配させます。しかし霊は霊の考えをして神様と主をいつも思います。霊の考えは永遠の命を与えます。肉体は神様の法に屈服しません。しかし霊は神様の法に従順し従います。
使徒パウロは主からこの真理をもらって実践し、そのように生きたので、霊的で信仰的な人になって主がお使いになるのにふさわしい人になったし、偉大な使徒になりました。使徒パウロは毎日自分の肉性を殺して祈り、霊的な人になって主の御心を悟って生きました。偉大な人生を生きました。成功しました。
霊について知らなかったり、霊的な人でなければ、霊の盲人であり、おしであり、耳の聞こえない人です。主が「どうやって盲人が盲人を手引きすることができるのか。盲人が盲人を手引きすればふたりとも落とし穴に落ち込み、何かにぶつかって怪我をしたり死んだりまでする。」とおっしゃいました(マタイ15:14)。
宗教の指導者たちの中で盲人たちは自分を信じてついて来る人たちを間違って導くので地獄に行かせ、自分も地獄に行っています。霊界に行って来た人たちや、地獄に行って来た人たちはみんな知っています。どんな宗教なのか一度考えてみて下さい。主の再臨を前にして霊的な英雄たちと霊的な指導者たちに会わなくてはいけません。会った人は幸せな人です。
肉の考えは死亡であり、霊の考えは生命です。主の考えは霊的なものであり、人間の考えは肉的なものです。神様と主がお使いになる使命者が霊的な人です。霊的な人であればあるほど聖霊の働きを起こして聖霊が充満します。肉的な人は聖霊の働きのおかげで聖霊を受けて暫し霊的に行っても再び肉的に考えて生きるので後には離れて行きます。
神様と主と聖霊様は霊でいらっしゃるから、私たちも霊に属して霊的な人にならなくてはいけません。そうしてこそ神様と主と聖霊様と通じます。人はそれぞれ肉もあり霊もあるから、霊に属して霊が中心になって生きなさいということです。霊は祈ってこそ神霊になります。絶対に主第一主義で生きて主を愛してこそ霊が肉体を主管して霊的な生き方をします。
霊が天の国に行くから霊に気を遣わなくてはいけません。霊を中心にしてこそ肉も霊と一緒に忽然と変化します。肉体の考えと行動が全て霊の考えに変化しなくてはいけません。聖霊を受けると霊的に生まれ変わって霊的な人になります。霊を中心とした人になります。
霊的な人になっても再び肉に属した人になる理由は、霊を中心とせず肉を中心とするから、だんだん肉に属した人になっていくのです。いつも霊を中心として霊に属した生き方をしなくてはいけません。一度得たなら奪われてはいけません。
主が「時間を計算してみると、肉で走れば足りなくて行けない。肉的にはいくら熱心にしても時間が足りない。これからはもっと霊的にすることによってのみすることができる。残った時間を見ると、肉的にすればできないが、霊的にすればできる。肉ですると時間が足りなくてできなくなる。霊的にすることによってのみすることができる。」とおっしゃいました。
主の御言葉を聴きましょう。
肉が見て聞いて考えて熱心に行なうが、今は肉がいくら熱心にやっても私の再臨のためにすべきことを全てすることはできないから私を迎えられない。時間が短い。できない。だからあなたがたは「できないときは方法を変えなさい。」と学んだとおりに霊でしなくてはいけない。霊ですればできる。
今も霊でする人は十分にやっている。あなたがた霊の人が私を悟って感じて見て、霊の耳で聞いて、霊で話し、霊で考え、霊界で自分の状態を見て、啓示者たちを通して私が啓示した御言葉を聴かなくてはいけない。そうして霊が肉よりたくさん分かって、もっと速く、もっと能力があって、もっと知恵深くなって、すべきことだけして、すべきでないことはしてはいけない。
霊が私と対話もし、霊が祈り、霊が私に切実に真実をもって悔い改め、霊が走らなくてはいけない。霊が肉体にさせ、命令し、治めながら走ってこそ、いくばくも残っていない私の再臨を肉も霊も準備して迎える。神霊な人だけが私の再臨を迎える。肉に属した人は熱心にやっても私の再臨を迎えられない。
あの時代のパリサイ人やユダヤ宗教人たちが熱心にしなかったのか。肉で熱心にやった。だから私が見せたが信じなかった。信じないから迎えられなかった。肉に属していたからだ。あの時代に霊に属した人だけが私を迎えた。霊の目を明けなくてはいけない。この時代も霊的な神霊な人だけが私を迎える。
肉ですると遅くて再臨の前に各自すべきことをできないし、準備すべきことを準備できない。肉は時間をあまりにもたくさん使わなくてはいけないからだ。霊ですれば十分にすることができる。肉ですると10倍、20倍時間がもっとかかる。肉が知恵深くて熱心にやっても霊がすることについて行けない。霊が主人になって肉体を運転し指導し教えて、肉体はその言葉通りについて行かなくてはいけない。
祈りも肉ですると長くやってもいくばくもできず、深い祈りをできなくなる。霊ですれば10分、20分、30分、1時間だけやっても一日中した分することになり、深いことを知るようになる。悔い改めも霊でしてこそ根本的にすることになるものだ。
今日の御言葉は実際に二言だ。あなたがたの先生にこのように啓示した。
1、霊的に行くべきであって、肉的に行くと時間が遅れてできない。
2、霊的な人だけが私の再臨を迎える。
あなたがたもこのように話したら根本を悟って分からなくてはいけない。
いつの時代でも霊的な人だけが私の父を迎え、私も迎えて、後悔なく御心を成しながら生きて死んだ。肉体を中心として生きたら千年の倍を生きるとしても天の国の人になることができない。聖霊で生まれ変わってこそ霊の人になる。聖霊で生まれ変わった人も霊を中心として霊を優先に生きてこそ霊の人になる。
しかし霊は後ろに立てて肉が前に行く人たちが多すぎる。霊的な人にならなくてはいけない。神霊で霊的な人になるように祈りなさい。摂理史の特技は霊的なことだ。あなたがたの先生からして霊的なことが特技だ。あなたがたもそうでなくてはいけない。神霊であれば神霊なことを知るようになる。肉に属した人は私と遠い人だ。霊に属した人は私と近い人だ。
肉的に生きた人たちは自分のすべきことをできなくて私と私の父を迎えられずに死んだ。現実もそうだ。今はあなたがたに残った時間さえいくばくも残っていない。あなたがたが霊でしなければ私の再臨を全て用意して迎えるのが不可能だ。
肉の考えで自分の罪を罪と思わず、悔い改めは神様が下さった一つの当然な信仰生活と思って悔い改めない人たちがいる。このように肉の目で見て肉の考えで生きた人は、これまで私イエスが天の御座に気楽に座ってあなたがたのために切実に求めてくれるものとばかり思ったのだろう。だから私の心情を分かるだろうか。
霊に属した神霊な人たちは私の姿を見て、私の心情の対象になり、私の心を受ける人たちは皆同じく私を見て、本に記録し語ったのではないか。私が主人になって話しなさいと言ったのだ。私が心情を焦がして涙を流している姿を言葉で言うからといってできることではない。あなたがたを見つめているが、私が願っていることを知らず、しないから、もどかしくて泣いている。あなたがたが熱心にやっているが、肉でするからやっても私を迎えられないので泣いている。
だから私の心を知っている人を通して私が叫び、今日私の心情のいきさつをあなたがたに話すのだ。
天の愛を知らずに生きていくから広い死亡の道へ行く人たちが多すぎる。彼らを見るのがどんなに辛いから涙ばかり流すのか。私があなたがただけでなく、世の中の全ての人たちを見つめている。私を知らない人は救われない。あなたがたが神霊な霊の体で人々を救わなくてはいけない。
神霊であって、どうか私について知りなさい。あなたがたが聖霊を受けて私の心を知るようになるから声を張り上げて泣き叫んだのではないか。だからと言ってあなたがたが私が見ているものをすべて見たのではない。私の心情を感じて泣いただけだ。神霊な人、霊的な人だけが感じて見て迎えるように、再臨の時もそうだ。再臨の時、私が人間のように肉体で来るだろうか。霊で来る。私を霊で見た人たちが証したのではないか。あなたがたは見ないと信じないのか。あなたがたが霊的であれば全て見ることができるだろうが、見えなければ見た人たちを通して信じるべきではないか。もし、自分が乗る車を誰かが見たけれど、その車が出発したと言うなら、直接見なくても見た人の言葉を信じるべきではないのか。もし信じないで待ち続けるなら、自分だけ損害だろう。
今は私の再臨の準備のためにあなたがたと共に長くいて助けてあげている。私がいつまでこのようにするだろうか。私が前もって啓示者たちとあなたがたの先生を通して話したことを考えなさい。時間がないと言ったのではないか。
今、準備するこの時は、ちょうど結婚を準備するある女性が準備ができずにいるので、新郎が結婚前に来てとても愛しているので助け、準備ができていないのを見てあまりにももどかしくて助けているような時だ。新郎が新婦を助けてあげながら準備させて結婚式の日を少し先に控えて行くのではないか。私もすぐに行くべき時になった。
あなたがたはこれを信じるのか。信じないなら肉的な人だ。霊的な人は私の言葉を信じる人であり、霊の言葉をもらった人の啓示を信じる人だ。私が行って再び来る時は瞬間、全ての行事が終わる。結婚を準備する日は長いが、新郎を迎える日は一日だ。その一日の中でも数時間だ。
今、新婦として準備できて選ばれる人だけ、私が再び来る時も連れて行ってもらえる。残りは新婦と新郎のためにパーティに参加した人たちだ。新婦として準備できていない人は、宴会場の雰囲気と飲食の雰囲気だけ味わって終わることになる。今あなたがたが私の再臨のために準備する新婦たちならば再臨の前から私を迎えるだろう。宴会場には前もって用意できた新婦だけ連れて行くように、再臨の時も準備できた人たちだけ連れて行く。
しかし準備できた人たちよ!本当に時間がない。霊に属した人は今、私の言葉を霊で聞いてこの言葉を信じるだろう。肉に属して肉で聞く人は普通に聞くだろう。だから肉で考え、見て、聞く人は、私の再臨について目を覚ましはしたが、時代は飛ぶように速く進んでいるのに、時間が足りなくて結局できずに終わってしまう。
私が真実をもって言う、今から肉でしないで霊でしなさい。霊でしてこそ各自自分のものを準備して十分に私を迎えることができる。あなたがたは私の再臨を熱心に準備しているが、肉が中心になってしている人が多すぎる。私が摂理の全世界を貫いて見たから分かる。神霊な人だけが私が再臨しても私を見て迎える。霊的な人だけが私を見て迎える。
肉は無益だ。肉の考えは死亡だ。肉が霊の考えを信じてついて行けば命の考えをするようになるだろう。あなたがたは肉であり、私は霊だから、私が話したことを必ず考えなさい。先生がいつも箴言で「私は霊であり、あなたがたは肉だ。」と言ったことを覚えて、私と一つの体になりなさい。「先生が肉なら主は霊でいらっしゃる。旧約は肉であり、新約は霊だ。」と言ったではないか。この全て、私イエスの御言葉だった。私イエスが与えた法だった。
肉に属して肉的なことばかりしないで、霊に属して霊的なことを中心としてやりなさい。その次に肉的なことをするものだ。霊が祈ってこそ深く祈る。私は毎日、毎時間、誰が私にふさわしくしているのか見て、ふさわしければ誰のところにでも行く。私に会うことも知恵が必要だ。あなたがたの先生に会うのも、知恵深くした人は会ったことがなくても会ったのではないか。
愛の功績だ。私が言ったではないか。神様を心と思いと命を尽くして愛しなさい。私が命を尽くしてあなたがたを愛したから、そのようにする人は誰でも私が会ってあげたし、働きかけてあげた。会ってあげたことを尊く思わないならまた肉的に流れて行ったのだ。
誰でも、自分の霊が私を救い主と認め、私が話した御言葉も認めてこそ、認められる。肉は無益だ。肉は摂理を認めても患難が来たり信仰が弱くなると否認して摂理から出て行く。全て霊で認めなくてはいけない。誰でも霊で私を認めない人は私と共にできない。
あなたがたは聖霊を受けて私を主だと認めたのではなかったのか。私の父と聖霊様についても分かって認めたのではなかったのか。なぜそこで終わる人たちが多く、休む人たちが多いのか。休まず聖霊を受けることによって霊的に行った人たちは限りなく行った。
あなたがたに私が話したことを何一つとして聞き流すな。私が話したことを慎んで信じて守る人は、私の国を相続する人であり、私の再臨を迎える人だ。誰かに自分が再臨を迎える人かどうか訊かないで、あなた自ら私の言葉を守りなさい。自分について把握すれば私の再臨を迎える人なのかそうでないのか自ら分かるようになる。
誰でも私イエスとどれだけ近いかによってその運命が左右される。予定が左右される。その人がもらうものが左右される。私を真心で愛する人が私に近く接するだろう。私の心情を分かってその時その時にすぐ気持ちよく行なう人が、私と近いだろう。あなたがたの先生も近くした人にその願いを聞いてあげたのではないか。
どのくらい私があなたがたと近いことを願っているのか分かるか。私の手に届くくらいに近くなくてはいけないし、私が普通の声で話しても聞こえるくらいに近くなくてはいけない。それから私と一体となって、私はその人の中に、その人は私の中で、恋人のように一体にならなくてはいけない。
霊でしなくてはいけない。霊的な人だけが私の再臨を迎える。この二つの御言葉をあなたがたが悟って分かりなさいと今日いろいろと話した。もう分かったか。私の心がすっきりする。私の言葉によってあなたがたが霊の人になることを願い、平安を祈る。ハレルヤ。アァメン。
自分の霊と主と共に霊的にする人は霊に属した人です。霊的にしてこそ不可能な時間にもすることができます。主が模範を見せて証させようとなさることです。このように先生がやってみても霊的に主と共にしてこそできるということです。
明け方の祈りの中で見たことを話してあげます。先生が必ず行くべき所があったのですが、列車に乗って行かなくてはいけない遠い道でした。一時間ほど歩いて行って駅前に行ってみると、私が感じるには列車がすでに出発したようでもあるし、出発していないようにも思いました。「もし列車が出発したなら困るんだけど・・・早く行こう。」と目的地に向かってせっせと歩いて行きました。
長い間歩いてある場所に行ってみると、私が乗ろうとしていた列車が止まっていたので乗り込みましたが、人が一人もいませんでした。列車で赤いランプが点滅していました。列車から降りなさいという信号でした。分かってみると、その列車の終着駅に来たので降りなさいという信号でした。
そこから私が行くべき所がまだかなり残っていたので歩いて行こうとすると、西の山に日が沈むまで三尋くらい残っていました。「行こうか。行くまいか。行く途中で暗くなったらすべきことができないから、行ってみたところで無駄になる。必ず列車に乗って行かなくてはいけなかったのに・・・」と後悔していました。その瞬間、場面が消えました。
列車は霊的なことを意味します。必ず霊的にやってこそ目的地に行くことができるということです。しかし肉的にすべきこともあります。歩いて行った所と歩いて行った道は、肉的にすべきことでした。列車の道がない所は歩いて行かなくてはいけません。最初に列車に乗ろうとして行く時に、肉的に歩いて行ったから、列車が出発したのです。列車で移動すべき所はあまりにも遠い所だったので、必ず列車に乗るべきだったのです。霊的にすべきことは列車と同じです。また主が列車と同じです。自分が霊的であってこそ主と列車に乗ることになります。
今日の御言葉を準備する時に見せて下さったものです。主と共に霊でしなければ残念な結果に終わります。このような啓示をもらって、主が私におっしゃったことを全て人々が分かりやすいように直接詳しく話して下さいと言いました。だから主と共に霊でやって奇跡的に5倍も早く終わったのです。
再臨も霊的に準備してこそ残った時間に全てすることができます。歩いて行くと不可能ですが、車に乗って行けば十分に行くことができるように、今すべて肉ではいくら熱心にやってもできませんが、霊ですれば全てすることができます。聖霊の火を受けて主と共に霊的にしなくてはいけません。
主、神様の恵みと、聖霊の働きと、主キリストの愛と慈悲が、御言葉を聴いて行なう全ての人たちに満ち、みな霊的に生きて霊で働く人たちになることを祝福します。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/真実をもって主、神様を呼んでこそお応えになる
本文 イザヤ書55:6−9
ヨハネによる福音書4:23−24
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
神様はイザヤ預言者を通して「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」とおっしゃいました。
神様を呼び求め、尋ねる時だけでなく、人間同士も時に合わせてこそ会うことができるし、その人が願うとおりにしてあげてこそ会うことができるし、近くすることができるようになります。主とも同じです。主は今日この御言葉を中心として話されました。主が啓示なさった御言葉をよく聴いてこそ神様も主も近くすることができるし、答えをもらうようになるし、対話もするようになるから、よく聴いて下さい。
距離上、自分と離れている人を呼ぶときは声を張り上げて呼んでこそその人が分かって応えます。ある人が月明洞の芝生の聖殿の端にいるのに、先生の生家があった場所や食堂のほうから呼んでみて下さい。喉が張り裂けるほど呼んでこそやっと分かって応えるでしょう。普通に呼んでは、やきもきして首を長くして待ち焦がれている恋人でも聞こえないから応えられません。
人々も大きく呼んでこそ分かって応えるように、神様も大きく呼んでこそその声を聞いてお応えになります。「神様を大きく呼ぶ声」が何であるか主は話されたのですが「真実をもって呼ぶ声だ。神様には真実をもって呼ぶことが大きな声で呼ぶ声だ。」と言いました。
また「環境のせいで小さな声を出して静かに呼んでも真実をもって呼べば、神様と主と聖霊様には大きく呼ぶ声として聞こえる。だから誰でも真心で、まことに神様と主と聖霊様を呼んでこそ分かってすぐにお応えになる。あなたがたは服を引き裂かないで心を引き裂いて呼ばなくてはいけない。神様を呼ぶときは意識的に呼ばないで真心で呼んでこそ答えをもらうようになるし、心で答えを聞くようになる。」と主は重ねておっしゃいました。アァメン。
主は以前も今も変わらないことをおっしゃいます。ヨハネによる福音書4章23〜24節に「神様はまことの礼拝をする者たちを求めておられる。真実をもって礼拝する人、真心で神様に接し、仕え、慎み敬い、尊く思う人を求めている。」とおっしゃいました。主は夜ごと、明け方ごと、時間ごとにそういう人たちを訪ねて行かれるそうです。
神様は全知全能でいらっしゃいます。神聖でいらっしゃいます。完全な存在者でいらっしゃいます。主も聖霊様もそうです。霊とまこととをもって接しなくてはいけません。
まだ神様のことが分かりませんか。まだ主のことを本当に分かりませんか。神様と主について正しく知り、それに該当するように自分をきれいにし、威厳と畏れと忠誠と愛と感謝をもって心を尽くして思いを尽くして接しなくてはいけません。ここで「真心、真実、まこと」という心と行いを失って接したら神様はお応えにならないし、その祈りは決して神様に届きません。
真実でないことは神様に通じません。改心し悔い改めることも真実でなくてはいけません。そうであってこそ悔い改めが届いて許されます。罪を犯すとき、神様の心をそれほどにも傷つけたから、その傷ついた心が解かれるまで真実をもって悔い改めなくてはいけません。
みんな各自任された仕事をするときも、本当に真に感謝して、使命を下さったことに感謝しながらやってこそ、働いたことが神様に届きます。無理やりにやったり、仕方なくやったり、任されたから義務的にやったり、自分の存在のためにやったり、ある立場のためにやったり、ついて来る人たちのために仕方なくやる人たちは、真実と忠誠を持って働くことを願われる神様がご覧になるとふさわしくないので、天の国にその功績が少ししかありません。
真実と忠誠をもってしなくてはいけません。信じますか。そうしてこそその功績がビルのように高くそびえます。感謝と讃美と祈りと御言葉、全て真実をもってしなくてはいけません。そうしてこそ天の国の神様に届いて返事が来ます。返事がないことはこの御言葉を聴いて自ら再び検討してみなくてはいけません。
「真心と真実と真」をもって神様の前で行なうように行わなくてはいけません。主は傍で見ていらっしゃいます。主はため息をおつきになっても分かりません。もどかしくて泣いていらっしゃっても分かりません。今日の主の御言葉を聴いてこれからは主が特別に啓示した御言葉だと思って御言葉通りによくやらなくてはいけません。信じますか。アァメン。
友達の間も、兄弟の間も、恋人の間も、夫婦の間も、教役者と教会のメンバーの間も、指導者とついて行く人たちの間も、真実をもってしないと、全て心に感じるものがあるから分かるようになります。また行いを見ても形式なのか真実なのか分かるようになります。誰でも真実をもって接しないと、相手は言葉でも行いでも応えません。人間もそうなのに、神様はどれほどでしょうか。これから神様の前にも人々にも真実で接して行なわなくてはいけません。
欺く人と嘘をつく人の言葉は真実のようでも、知恵ある人は十のセンターで全て調べてみて接するので、偽りであることが分かるようになります。一つだけ見て信じないで、全てのことを見て信じなくてはいけません。人は自分を全て正しいと言います。その人が神様と主に訊いてみて正しいと言っても、自分が神様と主に答えてもらう前に信じてついて行くと、信じた分、ついて行った分、投資した分、損になります。
まだ神様と主と聖霊様と近くできなくて応えてもらっていない人たちは、再び真実をもって呼んで下さい。応えてもらった人も更にもらうために真実をもって呼んで生きなくてはいけません。
ダビデ王は真実をもっていつも神様を求めて呼びました。詩篇23編にもダビデが神様を讃美した詩が出てくるでしょう。そのようにいつも讃美しました。神様はダビデを見て「私にふさわしい者」だとおっしゃいました(列上11:38)。
真に神様を呼んで下さい。そして真に悔い改めて真実をもって悔い改めて下さい。そうすれば悔い改めになったのか先生に訊くこともなく悔い改めになったのです。真実をもって悔い改めたり呼んだりすると神様はお応えになるからです。真実の前にはサタンも介入できません。真実は光です。完全なものです。主は「完全でありなさい。」とおっしゃいました。
(イザヤ55:6)『あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。』
このように、神様に会うことのできる道は本当に予定されています。目で見ることだけが会うことではありません。その声だけ聞いても対話で会うことだと言いました。暗い夜に会いたい人に会ったのですが、顔は見えなくても互いに対話したら対話で会ったのです。神様も主も心で感じてその御言葉を聞いたら対話で会ったのです。
神様と主が傍にいらっしゃってもほとんど99%は見えません。許可なさった時に瞬間会い、象徴的に万物や他のものを見せて悟らせます。互いに顔を見れなくても電話で通じたら対話で会ったことになります。神様は顔をお見せにならない代わりに、いろいろと通じる道を下さいました。だから許可していない道で会おうとせずに、許可した道で神様と主と聖霊様と通じて会い、対話して下さい。
今日は「真心で、真に、真実をもって呼ぶ人たちに神様はお応えになる。」とおっしゃいました。「真心で神様を呼ぶことが大きく叫んで呼ぶこと」だと言いました。神様も主も真実をもって、真に呼んでこそ神様に届きます。先生にも真に正直に手紙を書いてこそ答えを与える返信が行きます。
そしてある命を拡大して全ての人たちに警告しました。また「祈らなくてはいけない。恵みを受けて聖霊を受けた後に祈りの初恋を失っていく。」と言いました。「持っているものの中で一つを失ったら次のものは失わないように徹底的に管理しなくてはいけない。」と警告しました。
今は私たちの主、神様の全知全能さと、聖霊様の熱い感動と、主イエス・キリストの愛が、真実をもって呼ぶこの人たちに応えることを願い、その愛と御働きが共にして、その願いを聞いて下さることを、三位の御名で祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 イザヤ書55:6−9
ヨハネによる福音書4:23−24
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
神様はイザヤ預言者を通して「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」とおっしゃいました。
神様を呼び求め、尋ねる時だけでなく、人間同士も時に合わせてこそ会うことができるし、その人が願うとおりにしてあげてこそ会うことができるし、近くすることができるようになります。主とも同じです。主は今日この御言葉を中心として話されました。主が啓示なさった御言葉をよく聴いてこそ神様も主も近くすることができるし、答えをもらうようになるし、対話もするようになるから、よく聴いて下さい。
距離上、自分と離れている人を呼ぶときは声を張り上げて呼んでこそその人が分かって応えます。ある人が月明洞の芝生の聖殿の端にいるのに、先生の生家があった場所や食堂のほうから呼んでみて下さい。喉が張り裂けるほど呼んでこそやっと分かって応えるでしょう。普通に呼んでは、やきもきして首を長くして待ち焦がれている恋人でも聞こえないから応えられません。
人々も大きく呼んでこそ分かって応えるように、神様も大きく呼んでこそその声を聞いてお応えになります。「神様を大きく呼ぶ声」が何であるか主は話されたのですが「真実をもって呼ぶ声だ。神様には真実をもって呼ぶことが大きな声で呼ぶ声だ。」と言いました。
また「環境のせいで小さな声を出して静かに呼んでも真実をもって呼べば、神様と主と聖霊様には大きく呼ぶ声として聞こえる。だから誰でも真心で、まことに神様と主と聖霊様を呼んでこそ分かってすぐにお応えになる。あなたがたは服を引き裂かないで心を引き裂いて呼ばなくてはいけない。神様を呼ぶときは意識的に呼ばないで真心で呼んでこそ答えをもらうようになるし、心で答えを聞くようになる。」と主は重ねておっしゃいました。アァメン。
主は以前も今も変わらないことをおっしゃいます。ヨハネによる福音書4章23〜24節に「神様はまことの礼拝をする者たちを求めておられる。真実をもって礼拝する人、真心で神様に接し、仕え、慎み敬い、尊く思う人を求めている。」とおっしゃいました。主は夜ごと、明け方ごと、時間ごとにそういう人たちを訪ねて行かれるそうです。
神様は全知全能でいらっしゃいます。神聖でいらっしゃいます。完全な存在者でいらっしゃいます。主も聖霊様もそうです。霊とまこととをもって接しなくてはいけません。
まだ神様のことが分かりませんか。まだ主のことを本当に分かりませんか。神様と主について正しく知り、それに該当するように自分をきれいにし、威厳と畏れと忠誠と愛と感謝をもって心を尽くして思いを尽くして接しなくてはいけません。ここで「真心、真実、まこと」という心と行いを失って接したら神様はお応えにならないし、その祈りは決して神様に届きません。
真実でないことは神様に通じません。改心し悔い改めることも真実でなくてはいけません。そうであってこそ悔い改めが届いて許されます。罪を犯すとき、神様の心をそれほどにも傷つけたから、その傷ついた心が解かれるまで真実をもって悔い改めなくてはいけません。
みんな各自任された仕事をするときも、本当に真に感謝して、使命を下さったことに感謝しながらやってこそ、働いたことが神様に届きます。無理やりにやったり、仕方なくやったり、任されたから義務的にやったり、自分の存在のためにやったり、ある立場のためにやったり、ついて来る人たちのために仕方なくやる人たちは、真実と忠誠を持って働くことを願われる神様がご覧になるとふさわしくないので、天の国にその功績が少ししかありません。
真実と忠誠をもってしなくてはいけません。信じますか。そうしてこそその功績がビルのように高くそびえます。感謝と讃美と祈りと御言葉、全て真実をもってしなくてはいけません。そうしてこそ天の国の神様に届いて返事が来ます。返事がないことはこの御言葉を聴いて自ら再び検討してみなくてはいけません。
「真心と真実と真」をもって神様の前で行なうように行わなくてはいけません。主は傍で見ていらっしゃいます。主はため息をおつきになっても分かりません。もどかしくて泣いていらっしゃっても分かりません。今日の主の御言葉を聴いてこれからは主が特別に啓示した御言葉だと思って御言葉通りによくやらなくてはいけません。信じますか。アァメン。
友達の間も、兄弟の間も、恋人の間も、夫婦の間も、教役者と教会のメンバーの間も、指導者とついて行く人たちの間も、真実をもってしないと、全て心に感じるものがあるから分かるようになります。また行いを見ても形式なのか真実なのか分かるようになります。誰でも真実をもって接しないと、相手は言葉でも行いでも応えません。人間もそうなのに、神様はどれほどでしょうか。これから神様の前にも人々にも真実で接して行なわなくてはいけません。
欺く人と嘘をつく人の言葉は真実のようでも、知恵ある人は十のセンターで全て調べてみて接するので、偽りであることが分かるようになります。一つだけ見て信じないで、全てのことを見て信じなくてはいけません。人は自分を全て正しいと言います。その人が神様と主に訊いてみて正しいと言っても、自分が神様と主に答えてもらう前に信じてついて行くと、信じた分、ついて行った分、投資した分、損になります。
まだ神様と主と聖霊様と近くできなくて応えてもらっていない人たちは、再び真実をもって呼んで下さい。応えてもらった人も更にもらうために真実をもって呼んで生きなくてはいけません。
ダビデ王は真実をもっていつも神様を求めて呼びました。詩篇23編にもダビデが神様を讃美した詩が出てくるでしょう。そのようにいつも讃美しました。神様はダビデを見て「私にふさわしい者」だとおっしゃいました(列上11:38)。
真に神様を呼んで下さい。そして真に悔い改めて真実をもって悔い改めて下さい。そうすれば悔い改めになったのか先生に訊くこともなく悔い改めになったのです。真実をもって悔い改めたり呼んだりすると神様はお応えになるからです。真実の前にはサタンも介入できません。真実は光です。完全なものです。主は「完全でありなさい。」とおっしゃいました。
(イザヤ55:6)『あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。』
このように、神様に会うことのできる道は本当に予定されています。目で見ることだけが会うことではありません。その声だけ聞いても対話で会うことだと言いました。暗い夜に会いたい人に会ったのですが、顔は見えなくても互いに対話したら対話で会ったのです。神様も主も心で感じてその御言葉を聞いたら対話で会ったのです。
神様と主が傍にいらっしゃってもほとんど99%は見えません。許可なさった時に瞬間会い、象徴的に万物や他のものを見せて悟らせます。互いに顔を見れなくても電話で通じたら対話で会ったことになります。神様は顔をお見せにならない代わりに、いろいろと通じる道を下さいました。だから許可していない道で会おうとせずに、許可した道で神様と主と聖霊様と通じて会い、対話して下さい。
今日は「真心で、真に、真実をもって呼ぶ人たちに神様はお応えになる。」とおっしゃいました。「真心で神様を呼ぶことが大きく叫んで呼ぶこと」だと言いました。神様も主も真実をもって、真に呼んでこそ神様に届きます。先生にも真に正直に手紙を書いてこそ答えを与える返信が行きます。
そしてある命を拡大して全ての人たちに警告しました。また「祈らなくてはいけない。恵みを受けて聖霊を受けた後に祈りの初恋を失っていく。」と言いました。「持っているものの中で一つを失ったら次のものは失わないように徹底的に管理しなくてはいけない。」と警告しました。
今は私たちの主、神様の全知全能さと、聖霊様の熱い感動と、主イエス・キリストの愛が、真実をもって呼ぶこの人たちに応えることを願い、その愛と御働きが共にして、その願いを聞いて下さることを、三位の御名で祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/心の啓示だ
心の目で見なさい
本文:エペソ人への手紙1:17−19
ハレルヤ!主の平安を祈ります。主を愛するとき、主の心にふさわしく愛さなくてはいけません。霊界で見ると、肉界で考えるのと異なります。主を愛することにおいて認められた人が、先生を愛する人として認められます。先生の気に入るように愛することもできないのに、どうして先生がその人を見てふさわしいと言うでしょうか。
主はちょうど田舎の上の田と同じです。皆さんが主に愛で接することは、ちょうど水と同じです。主という上の田に愛という水がいっぱいに満たされると、その下の田まで水が溢れて流れて来ます。その下の田は先生です。
上の田に水がまず流れて行くのが自然の法則であり、順理であるように、摂理歴史もまず主に愛で接することが充分に満ち溢れなくてはいけません。上の田に水が満ち溢れて来てこそ下の田にも水が流れて行きます。いつもこのように接しなくてはいけません。
イエス様を信じれば誰でもイエス様が下さる啓示を受けることができます。しかし啓示を受けたらよく分別しなくてはいけません。啓示を受けたら、サタンが与える啓示なのか、あるいは自分の意思で悟ることなのか、あるいは霊的な世界に入って行くから学んだことが体系的に思い浮かぶことなのか、分別するのが難しいです。だから主を直接見せて下さいと言います。けれど目で見ることだけが確認する方法ではありません。耳で聞くのも確認することだし、心で感じることも確認することです。
主は「目の門を通してだけ来るのではない。こうだから話してあげなさい。」とおっしゃいました。私たちには主が入って来られる門がたくさんあります。目で見せながら目の門から入って来られるし、耳で聞かせながら耳の門から入って来られるし、対話でおっしゃりながら口の門から入って来られるし、感じさせながら心情と心の門から入って来られます。それから私たちが行なうときに行動の門から入って来られます。
主が皆に伝えて下さる啓示がありますが、すなわち主日の御言葉と水曜の御言葉を通して与える啓示です。この御言葉を切実に聴いて悟ろうとする時に、最も多くの答えをもらうようになるし、応えてもらうようになるし、悟って分かるように啓示して下さいます。これは御言葉の啓示です。
主が私たちの前に来られると、見えなくても平安が訪れるし、感動するし、主の心が感じられます。主が自分を深く愛する心を分かってあげる時は、息もできないほどに心情が感じられ、締め付けられます。「私があなたをあれほど愛し、あれほど大切にしてあげて接しているのに、そんなに分からないのか。」と言って胸を焦がし、心情を焦がす主の熱い心が感じられます。
そして自分も気づかないうちに告白するようになります。約束するようになります。霊魂深く悟るようになります。涙が流れて川になります。主の咽びが胸に迫ってきます。世の中の全てが感じられ、摂理の全てが感じられます。兄弟たちの立場が感じられ、理解できます。彼らのために祈るようになります。これまで主が主日の壇上と水曜の壇上を通しておっしゃったことが全て思い出されます。過ぎし日に主が助けて下さったことが全て思い出されます。できなかったことがすべて思い出され、むせび泣くようになり、主に申し訳なくて頭を上げることができません。
このように、主が目で見せて下さらなくても心情で感じ、心で感じ、染み入ることがもっと衝撃的に主を悟らせ感じさせます。だから主は目で見せて下さって一時的に目が奪われるようにするより、お見せにならず、魂で感じ、心情深く霊魂まで感じてむせび泣くようにします。このようにして全身と心と霊魂が感じて満ちるようになさるということです。信じますか。
主は「言葉でも表現しきれないし、目で見せても伝えきれないし、耳で聞かせても伝えきれない。」とおっしゃり「ただ心と感じで伝わる。千言の言葉より心情深く感じなくてはいけない。」とおっしゃいました。
このように主は「私を目で瞬間見るより、見えなくても心で感じ、心情で感じ、全身と魂と霊で感じるときにたくさん感じるようになる。全ての摂理人たちにこのように働きかける。」とおっしゃいました。
サタンや悪魔が前に来ると平安が来ません。心が不安だし、焦るし、畏れの感情が来るし、疑いの心が湧きます。また異性的な感情と様々な異常な感情が来ます。サタンはうんこと同じで、腐ったものと同じだから、腐った臭いばかり漂わせて、香りは漂わすことができません。サタンが来るとそのままサタンの臭いがします。恐ろしいです。言葉も怖く話し、行動もひやりとします。もう主がどうして見せてくれずに働きかけられるか分かったでしょう。
心情の恵みが大きな恵みです。この恵みを受けると神様の心と聖霊様の心と主の心をよく分かるようになります。だから兄弟たちの心をよく分かって慰めるようになり、ほめるようになり、主の心で接するようになります。使徒パウロは「わたしたちはキリストの思いを持っている」と言いました。
(コリント?2:16)「『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」
主の心情の啓示の中で「どうしてあなたがたは私の心情を分からないのか。わたしは摂理人一人一人を愛して大切にしてあげ、その時その時よく接してあげているのに、どうしてあなたは分からないのか。」という啓示が本当に多いです。また主は「再臨の時が近づいた。あなたがたが患難の日に遭う時になってやっと私が言ったことを信じるのか。人々は私が話す時は信じても、少し関心を置いたり信じたりしても、すぐに忘れてしまって患難と苦痛のその日が迫る時になってやっと恐れて私を探す。」と言って主は心情を打ち明けられました。
聖霊で生まれ変わって神様の霊が臨んで生きる人が患難を避ける人です。主を迎えて生きる人が患難を避ける人です。主の再臨の時に主を迎えるには、今主を迎えていつも主と通じながら生きなくてはいけません。今迎えられなければ再臨の時も迎えられません。
主はおっしゃいました。「急がなくては絶対に私を迎えられない。まだ私を命を懸けて迎えようとしない精神異常の人たちがいる。彼らには災難の日がだんだん迫って来る。災難が迫った時に私を呼んでも答えることができないし、送った災難はそのまま戻りはしない。私を迎えた人は私が離れても、ちょうど恋人が離れてからもいつも電話で通じるように、心と心情の電話でいつも通じる。彼らには災難の代わりに祝福が訪ねて来て、患難の時もパーティをする。」とおっしゃいました。先生も患難の時に心のパーティをしています。
今は、主をお迎えして主と一緒に生きる人が最高のスターです。世の中のスターが良かったなら、先生もやったでしょう。主の懐に抱かれたスター、主の御言葉をよく聴くスター、主の御言葉に従順するスターにならなくてはいけません。今この時代はそういう時代です。
神様の全知全能な愛と、主の共になさることと、聖霊様の感動、感化、御働きが満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
心の目で見なさい
本文:エペソ人への手紙1:17−19
ハレルヤ!主の平安を祈ります。主を愛するとき、主の心にふさわしく愛さなくてはいけません。霊界で見ると、肉界で考えるのと異なります。主を愛することにおいて認められた人が、先生を愛する人として認められます。先生の気に入るように愛することもできないのに、どうして先生がその人を見てふさわしいと言うでしょうか。
主はちょうど田舎の上の田と同じです。皆さんが主に愛で接することは、ちょうど水と同じです。主という上の田に愛という水がいっぱいに満たされると、その下の田まで水が溢れて流れて来ます。その下の田は先生です。
上の田に水がまず流れて行くのが自然の法則であり、順理であるように、摂理歴史もまず主に愛で接することが充分に満ち溢れなくてはいけません。上の田に水が満ち溢れて来てこそ下の田にも水が流れて行きます。いつもこのように接しなくてはいけません。
イエス様を信じれば誰でもイエス様が下さる啓示を受けることができます。しかし啓示を受けたらよく分別しなくてはいけません。啓示を受けたら、サタンが与える啓示なのか、あるいは自分の意思で悟ることなのか、あるいは霊的な世界に入って行くから学んだことが体系的に思い浮かぶことなのか、分別するのが難しいです。だから主を直接見せて下さいと言います。けれど目で見ることだけが確認する方法ではありません。耳で聞くのも確認することだし、心で感じることも確認することです。
主は「目の門を通してだけ来るのではない。こうだから話してあげなさい。」とおっしゃいました。私たちには主が入って来られる門がたくさんあります。目で見せながら目の門から入って来られるし、耳で聞かせながら耳の門から入って来られるし、対話でおっしゃりながら口の門から入って来られるし、感じさせながら心情と心の門から入って来られます。それから私たちが行なうときに行動の門から入って来られます。
主が皆に伝えて下さる啓示がありますが、すなわち主日の御言葉と水曜の御言葉を通して与える啓示です。この御言葉を切実に聴いて悟ろうとする時に、最も多くの答えをもらうようになるし、応えてもらうようになるし、悟って分かるように啓示して下さいます。これは御言葉の啓示です。
主が私たちの前に来られると、見えなくても平安が訪れるし、感動するし、主の心が感じられます。主が自分を深く愛する心を分かってあげる時は、息もできないほどに心情が感じられ、締め付けられます。「私があなたをあれほど愛し、あれほど大切にしてあげて接しているのに、そんなに分からないのか。」と言って胸を焦がし、心情を焦がす主の熱い心が感じられます。
そして自分も気づかないうちに告白するようになります。約束するようになります。霊魂深く悟るようになります。涙が流れて川になります。主の咽びが胸に迫ってきます。世の中の全てが感じられ、摂理の全てが感じられます。兄弟たちの立場が感じられ、理解できます。彼らのために祈るようになります。これまで主が主日の壇上と水曜の壇上を通しておっしゃったことが全て思い出されます。過ぎし日に主が助けて下さったことが全て思い出されます。できなかったことがすべて思い出され、むせび泣くようになり、主に申し訳なくて頭を上げることができません。
このように、主が目で見せて下さらなくても心情で感じ、心で感じ、染み入ることがもっと衝撃的に主を悟らせ感じさせます。だから主は目で見せて下さって一時的に目が奪われるようにするより、お見せにならず、魂で感じ、心情深く霊魂まで感じてむせび泣くようにします。このようにして全身と心と霊魂が感じて満ちるようになさるということです。信じますか。
主は「言葉でも表現しきれないし、目で見せても伝えきれないし、耳で聞かせても伝えきれない。」とおっしゃり「ただ心と感じで伝わる。千言の言葉より心情深く感じなくてはいけない。」とおっしゃいました。
このように主は「私を目で瞬間見るより、見えなくても心で感じ、心情で感じ、全身と魂と霊で感じるときにたくさん感じるようになる。全ての摂理人たちにこのように働きかける。」とおっしゃいました。
サタンや悪魔が前に来ると平安が来ません。心が不安だし、焦るし、畏れの感情が来るし、疑いの心が湧きます。また異性的な感情と様々な異常な感情が来ます。サタンはうんこと同じで、腐ったものと同じだから、腐った臭いばかり漂わせて、香りは漂わすことができません。サタンが来るとそのままサタンの臭いがします。恐ろしいです。言葉も怖く話し、行動もひやりとします。もう主がどうして見せてくれずに働きかけられるか分かったでしょう。
心情の恵みが大きな恵みです。この恵みを受けると神様の心と聖霊様の心と主の心をよく分かるようになります。だから兄弟たちの心をよく分かって慰めるようになり、ほめるようになり、主の心で接するようになります。使徒パウロは「わたしたちはキリストの思いを持っている」と言いました。
(コリント?2:16)「『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」
主の心情の啓示の中で「どうしてあなたがたは私の心情を分からないのか。わたしは摂理人一人一人を愛して大切にしてあげ、その時その時よく接してあげているのに、どうしてあなたは分からないのか。」という啓示が本当に多いです。また主は「再臨の時が近づいた。あなたがたが患難の日に遭う時になってやっと私が言ったことを信じるのか。人々は私が話す時は信じても、少し関心を置いたり信じたりしても、すぐに忘れてしまって患難と苦痛のその日が迫る時になってやっと恐れて私を探す。」と言って主は心情を打ち明けられました。
聖霊で生まれ変わって神様の霊が臨んで生きる人が患難を避ける人です。主を迎えて生きる人が患難を避ける人です。主の再臨の時に主を迎えるには、今主を迎えていつも主と通じながら生きなくてはいけません。今迎えられなければ再臨の時も迎えられません。
主はおっしゃいました。「急がなくては絶対に私を迎えられない。まだ私を命を懸けて迎えようとしない精神異常の人たちがいる。彼らには災難の日がだんだん迫って来る。災難が迫った時に私を呼んでも答えることができないし、送った災難はそのまま戻りはしない。私を迎えた人は私が離れても、ちょうど恋人が離れてからもいつも電話で通じるように、心と心情の電話でいつも通じる。彼らには災難の代わりに祝福が訪ねて来て、患難の時もパーティをする。」とおっしゃいました。先生も患難の時に心のパーティをしています。
今は、主をお迎えして主と一緒に生きる人が最高のスターです。世の中のスターが良かったなら、先生もやったでしょう。主の懐に抱かれたスター、主の御言葉をよく聴くスター、主の御言葉に従順するスターにならなくてはいけません。今この時代はそういう時代です。
神様の全知全能な愛と、主の共になさることと、聖霊様の感動、感化、御働きが満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/神様はふさわしいことだけ聞いて下さる
絶対的であってこそ絶対的だ
本文 詩篇18:25−26
主の平安を祈ります。「絶対的であってこそ絶対的だ。絶対的な人生だ。」主のこの一言の御言葉は「誰でも神様と主の前に絶対的に行なってこそ絶対的に成される。」という御言葉です。
主が「誰でも絶対的な基準を立てなさい。」とおっしゃいました。行なったとおりに与えるという法を定めておかれたので、絶対その行いに従って下さいます。しなければ一万年経ってもできません。だから主は「恋人も、子供も、しもべだという人も、誰でも完全に絶対的に行なってこそ、新婦は新婦の立場で、子供は子供の立場で、しもべはしもべの立場で、彼らに必要なものを絶対的に与える。」とおっしゃいました。
先生はこれまで聖書を基礎に「人間の責任分担」という主の御言葉を悟り、神様が下さる時までずっと求め、絶対的に行なってきました。だから摂理のしるしを起こし、主と同行する人生を生きてきたのです。
絶対的にすれば絶対的な神様が働きかけられます。神様に金を捧げれば金を下さるし、銀を捧げれば銀を下さいます。絶対的です。だから自分が行なったとおりに絶対的にもらうのです。それをもらって困難が訪れたら打ち勝たなくてはいけません。良いものであればより高い次元へと上がって行かなくてはいけません。絶対的にしなければ一生できません。
完全な人に主の完全さを見せて下さいます。自分が完全になってこそ主はやっと主の完全さを見せて下さるということです。完全でなければ完全でないものと対になります。すでに前にも御言葉がたくさん出たでしょう。完全に行なう人には夢にも現にも完全なものを見せて下さるし、霊の世界も完全なものを見せて下さいます。清らかな人には夢の啓示も清らかさで見せて下さいます。
太陽が東側から毎日昇るように、絶対に行えば太陽のように絶対に光を放ちます。十個の中でたった三個を行なうにも絶対に完全に行なって下さい。そうしてこそ三個に該当するものを絶対に得ます。十個を行なっても完全に行なわなければ一つも絶対的に成されません。自分がしていることが完全でなくてはいけません。
主は人間の霊のために私たちをつかんで下さいます。人間が救われなければ結局その霊魂が地獄に行くから、主は私たちの霊を哀れに思われます。霊が救われると永遠に天国で暮らすようになります。人間に霊がなければ主は人間たちにそのようになさいません。
この世で暫し楽に生きるために肉だけに気を遣って生きては、その霊が永遠に苦痛の世界へ行くようになります。自分の肉体は死んで分からないと言いますが、心が肉体から霊体へ行き、肉体が霊体に変化したので、霊が苦痛を受けると自分の肉体が苦痛を受けるのと100分の1も変わりません。
この世で自分ができるのに知らなくてできず、しなくてできないことで地獄に行ったのを霊の体は一点一画も漏れなくはっきりと分かります。霊の体でもこの世で自分の肉体が生きていたことを全て記憶し、自分が幼かった時、若かった時、年をとった時に行なったことをすべて見ながら後悔し、苦痛を受けます。その苦痛を受けるなと、分かっている人は伝道し、教えてあげ、管理してあげ、御言葉を伝えてあげながら正すのです。
主はまるで親が幼い子供に、その子が死の道を行くのを分かって、死のその道を行くなと祈りながら哀願するように、私たちが虚しい滅亡の道、世の中の暗闇の道を行くと、どうかその道へ行かないでくれと懇請なさいます。永遠に滅亡する道へ行った後に初めて泣きながら主を呼んで足掻くことをご存知で、主は行くなと哀願なさいます。
この世でただ見るときは良い道のようだし祝福される道のようですが、絶対に違います。主は分かっておっしゃいます。主がおっしゃっても信じないし通じないから、涙ばかり流されます。霊界の目を開いた人たちは、このような主の姿を見ます。直接その姿を見れない人たちは、主が泣いていらっしゃるのが感じられたし、悟れたと言います。見れなくてもその感じと悟りと霊感が全て合っています。
ある人は、目を閉じていた時に熱いものが前から来たと言いました。その人の前に熱いお湯があったのか、火があったのか、熱いものが来たというその感じが合っています。
主の姿が見えなくても、その声が聞こえなくても「愛している。私があなたをどんなに愛しているのかあなたは分かっていない。」という感じが来たり、悟れたら、その啓示は合っています。
主は見えなくてその声が耳で聞こえませんが、心で感じられ、心で聞こえるだけでも合っています。100分の1の霊感だと言いました。霊感は瞬間によぎります。100分の1くらいの感じが来ますが、それが運命を左右する啓示です。そのときは主か前にいらっしゃっても、遠くにいらっしゃっても、主の心と繋がったときです。
絶対的な悔い改めは絶対的な赦しです。絶対的な平和は絶対的な平和です。絶対的な健康管理は絶対的な健康です。絶対的な純潔は絶対的な天の新婦です。まだ習慣ができていませんが、どんどん絶対的に行なわなくてはいけません。御言葉を聴くときも絶対的に聞いてこそ絶対的に耳に入ってきて心に届きます。
これまでみんな絶対的にやってきました。しなかったからできなかったのです。したのにできなかったことは、まだ時になっていないからであり、主の御心でないからです。私たちが絶対的にしてもそれが成されなければ、私たちに害になることがあったから、主は私たちを愛されるので、それができないようになさり、他のもので祝福して下さいました。
「絶対的」というこの哲学を忘れてはいけません。「絶対的であってこそ絶対的だ。」という御言葉は神様と主の特別啓示だから、一生心に刻んで生きなくてはいけません。
神様と主は「絶対的に行ないなさい。そうすれば絶対的に接してあげる。」とおっしゃいました。絶対的にしなければサタンに引っ張って行かれて損害を被ります。絶対的に行なえば「サタン不可侵」です。神様と主の前に絶対的な生き方が、ただ主と一体となった生き方です。今日からそのように生きてみることを主の御名で祝福します。
今から別の話をします。
私たちが心から多くのことを求め、願い、行なったのに、成されるのを見ると十個のうちで二個、あるいは三個、あるいは一つしか成されません。なぜあれほどにも心からたくさん求めて行なったのに数個、あるいは一つしか成されないのか気になるでしょう。
神様は求めたものがふさわしくてこそ下さるし、求めた人もふさわしくしてこそ下さるし、全ての人たちを見たときにふさわしくてこそ下さるし、神様の前にふさわしくてこそ下さいます。求めたものが小さくても大きくてもふさわしくなかったら下さいませんでした。
イエス様がこの世にいらっしゃったときも神様は主を通して下さいました。ある人は主に会ったとき、自分が盲人だから目をあけさせて下さいと求めました。求めたことがふさわしいから成されるようにして目をあけさせて下さいました。主は求める人たちに「あなたの信仰どおりになりなさい。信仰がどれだけあるのか見よう。あなたの信仰があなたを救う。」とおっしゃいました。体調の悪い人が主に健康を切に求めたとき、ふさわしければ健康にして下さいました。
ある人は兄弟たち同士、土地のことで争っているので、主に公義で分けて下さいと言いました(ルカ12:13)。主はそれがふさわしくないから「私は土地を分けてあげるために来たのではない。人の富は土地や財物にだけあるのではない。」とおっしゃいました。この御言葉は「私を悟ってついて来ながらも富や財物が私にあることを知らないのか。」という意味が大きかったのです。
イエス様がこの世にいらっしゃったときも人々は主にありとあらゆることを訊いてみました。だいたい病気がよくなることを願って病気を治してもらった人がたくさんいました。病気を治して下さいということはふさわしいからたくさん治してもらいました。
病気を治して下さいという祈りはふさわしいから、落胆せずに続けて祈りながら、医学で手をつけるべきことは必ずしなくてはいけません。手術して切ってしまうべきものは切ってしまわなくてはいけません。代替医学と物理治療だけでは絶対的に信じることができません。3分の1も難しいです。祈ってよくなるものは絶対に祈ればいいです。まずふさわしいのか見なくてはいけません。ふさわしくないのに無知でお祈りだけしてはいけません。医学で治療すべきときもいろいろ迅速に調べて判断しなくてはいけません。
今はふさわしければ神様が祈りを聞いて下さると言いました。本当にふさわしいものを求めなくてはいけません。求めてもふさわしいものではないから成されなかったのです。だからあれほどにもたくさん祈っていろいろと切に求めても、神様から見るとふさわしくなくて成されなかったのです。
神様は横のことと縦のことをすべて見て下さいます。地球世界と神様の全てのものを見てバランスが合ってこそ下さいます。時になってこそ下さいます。数百種類、検討してみてふさわしければ下さいます。だから祈ったことが成されたら、宝くじに当たるのと同じです。神様がして下さったことに感謝しなくてはいけません。
必ずふさわしいものが何であるか分かって求めなくてはいけません。求めて行なったのに神様と主が下さらなかったと寂しがるなとおっしゃるのです。ふさわしくない祈りはまるで、電話番号を知らない人が電話番号を押すのと同じです。番号を正しく押してこそ友達や恋人が応答するように、神様にもふさわしいお祈りをしてこそ聞いて下さいます。
ふさわしいお祈りは本当に難しいものです。「伝道します。主のために犠牲になります。忠誠を尽くします。患難と困難を耐え忍びます。平和に暮らします。兄弟に自分のからだのように接しながら暮らします。主の心情を分かって再臨を準備する生活をします。」このようなお祈りを聞いて下さいます。民族のための祈り、兄弟たちのための祈り、命のための祈りをよく聞いて下さいます。聖霊で祈ると感動を下さってふさわしいことが浮かびます。信じますか。
神様は大きなものだからと言って負担になって成して下さらないことはありません。ある人の祈りによって民族の運命が左右されることもあります。子供の祈りによって、その教会を裁くはずだったのに裁かれないときがあります。
全て祈ったけれど神様がご覧になるとふさわしくないから成して下さらなかったということが分かりましたか。あるいはまだ時になっていなくて成して下さっていないということが分かったでしょう。
神様がその事に計画なさったことがあります。それを求めなくてはいけません。先生のために祈っても神様がご覧になってふさわしくてこそ成して下さいます。神様の絶対的な御心があります。これを分かってその方向で祈らなくてはいけません。祈ったのに聞いて下さらなかったものは後で見ると「あ〜だから聞いて下さらなかったんだ。」とはっきりと悟るようになります。
自分が祈ったことを神様が聞いて下さらなかったとしても、その祈りが無駄にならないように別の方向で成して下さいます。信じますか。
今年の修錬会のテーマは「希望を成す歴史」です。希望の主人は「主」でいらっしゃいます。摂理歴史は主が願われる歴史を成しています。
修錬会のときも新しい人たちを伝道してきて人生の夢をおのおの成すようにしなさいと言いました。そしてもう一つは聖霊の働きをして、まだ恵みを受けていない人たちもみんな恵みを満ちるほど受けるように祈って讃美するようにしなさいと言いました。
希望を成す歴史であるということを分かって参加すれば希望が成されます。だから希望を成す歴史だと言ったのです。
本当に時間がありません。先生も特別祈祷の時間に入りました。この貴い時間を摂理全体のために、民族のために使わなくてはいけません。自分が責任を果たせなくて後ろにいる人たちを取りまとめていましたが、主をきちんと迎えられないかと心配になって、今は主に従って前で飛んで行かなくてはいけないから、取り残されている人たちもみんな一緒に飛んで行かなくてはいけません。
「自分が絶対的にやりなさい。」ということをどうして言うのか分かりますか。自分が絶対的に行なう人たちが天国へ向かいます。他の人たちは信じることができないから、自分が必ずしなくてはいけません。自分のことは自分のことだから誰でもできます。
皆さんは一日にごはんを三食絶対的に必ず食べ、一日に三回絶対的に歯を磨き、絶対的に寝るでしょう。他のこともそのようにすれば簡単にできます。
神様ばかり、主ばかり仰いで、全て分かってして下さるだろうと信じる人たちの中に、失敗する人が多いです。してくれないと寂しいと言って信仰生活もしません。自分がしなくてはいけません。自分の生活だから自分がしないといけないのであって、どうして神様がしてくれることばかりを望み、任せてばかりいますか。
全知全能な神様も忙しいのに、自分がすべきこともしないで怠けて任せてばかりいますか。間違った思考を持った人です。先生はそんなふうに摂理歴史を導いてきませんでした。自分がしなくてはいけません。神様がなさることが別にあります。
主は「神様のように完全になりなさい。」と言いました(マタイ5:48)。「完全な者にだけ主の完全さを見せる。」と言いました。先生も私にふさわしい手紙が来てこそ返事をあげるように、神様もふさわしいお祈りにだけ答えを下さいます。
神様の全知全能さと大きな恵みと、主の愛と、聖霊様の熱い働きが、御言葉に従順し不法を行わない人たちに満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
絶対的であってこそ絶対的だ
本文 詩篇18:25−26
主の平安を祈ります。「絶対的であってこそ絶対的だ。絶対的な人生だ。」主のこの一言の御言葉は「誰でも神様と主の前に絶対的に行なってこそ絶対的に成される。」という御言葉です。
主が「誰でも絶対的な基準を立てなさい。」とおっしゃいました。行なったとおりに与えるという法を定めておかれたので、絶対その行いに従って下さいます。しなければ一万年経ってもできません。だから主は「恋人も、子供も、しもべだという人も、誰でも完全に絶対的に行なってこそ、新婦は新婦の立場で、子供は子供の立場で、しもべはしもべの立場で、彼らに必要なものを絶対的に与える。」とおっしゃいました。
先生はこれまで聖書を基礎に「人間の責任分担」という主の御言葉を悟り、神様が下さる時までずっと求め、絶対的に行なってきました。だから摂理のしるしを起こし、主と同行する人生を生きてきたのです。
絶対的にすれば絶対的な神様が働きかけられます。神様に金を捧げれば金を下さるし、銀を捧げれば銀を下さいます。絶対的です。だから自分が行なったとおりに絶対的にもらうのです。それをもらって困難が訪れたら打ち勝たなくてはいけません。良いものであればより高い次元へと上がって行かなくてはいけません。絶対的にしなければ一生できません。
完全な人に主の完全さを見せて下さいます。自分が完全になってこそ主はやっと主の完全さを見せて下さるということです。完全でなければ完全でないものと対になります。すでに前にも御言葉がたくさん出たでしょう。完全に行なう人には夢にも現にも完全なものを見せて下さるし、霊の世界も完全なものを見せて下さいます。清らかな人には夢の啓示も清らかさで見せて下さいます。
太陽が東側から毎日昇るように、絶対に行えば太陽のように絶対に光を放ちます。十個の中でたった三個を行なうにも絶対に完全に行なって下さい。そうしてこそ三個に該当するものを絶対に得ます。十個を行なっても完全に行なわなければ一つも絶対的に成されません。自分がしていることが完全でなくてはいけません。
主は人間の霊のために私たちをつかんで下さいます。人間が救われなければ結局その霊魂が地獄に行くから、主は私たちの霊を哀れに思われます。霊が救われると永遠に天国で暮らすようになります。人間に霊がなければ主は人間たちにそのようになさいません。
この世で暫し楽に生きるために肉だけに気を遣って生きては、その霊が永遠に苦痛の世界へ行くようになります。自分の肉体は死んで分からないと言いますが、心が肉体から霊体へ行き、肉体が霊体に変化したので、霊が苦痛を受けると自分の肉体が苦痛を受けるのと100分の1も変わりません。
この世で自分ができるのに知らなくてできず、しなくてできないことで地獄に行ったのを霊の体は一点一画も漏れなくはっきりと分かります。霊の体でもこの世で自分の肉体が生きていたことを全て記憶し、自分が幼かった時、若かった時、年をとった時に行なったことをすべて見ながら後悔し、苦痛を受けます。その苦痛を受けるなと、分かっている人は伝道し、教えてあげ、管理してあげ、御言葉を伝えてあげながら正すのです。
主はまるで親が幼い子供に、その子が死の道を行くのを分かって、死のその道を行くなと祈りながら哀願するように、私たちが虚しい滅亡の道、世の中の暗闇の道を行くと、どうかその道へ行かないでくれと懇請なさいます。永遠に滅亡する道へ行った後に初めて泣きながら主を呼んで足掻くことをご存知で、主は行くなと哀願なさいます。
この世でただ見るときは良い道のようだし祝福される道のようですが、絶対に違います。主は分かっておっしゃいます。主がおっしゃっても信じないし通じないから、涙ばかり流されます。霊界の目を開いた人たちは、このような主の姿を見ます。直接その姿を見れない人たちは、主が泣いていらっしゃるのが感じられたし、悟れたと言います。見れなくてもその感じと悟りと霊感が全て合っています。
ある人は、目を閉じていた時に熱いものが前から来たと言いました。その人の前に熱いお湯があったのか、火があったのか、熱いものが来たというその感じが合っています。
主の姿が見えなくても、その声が聞こえなくても「愛している。私があなたをどんなに愛しているのかあなたは分かっていない。」という感じが来たり、悟れたら、その啓示は合っています。
主は見えなくてその声が耳で聞こえませんが、心で感じられ、心で聞こえるだけでも合っています。100分の1の霊感だと言いました。霊感は瞬間によぎります。100分の1くらいの感じが来ますが、それが運命を左右する啓示です。そのときは主か前にいらっしゃっても、遠くにいらっしゃっても、主の心と繋がったときです。
絶対的な悔い改めは絶対的な赦しです。絶対的な平和は絶対的な平和です。絶対的な健康管理は絶対的な健康です。絶対的な純潔は絶対的な天の新婦です。まだ習慣ができていませんが、どんどん絶対的に行なわなくてはいけません。御言葉を聴くときも絶対的に聞いてこそ絶対的に耳に入ってきて心に届きます。
これまでみんな絶対的にやってきました。しなかったからできなかったのです。したのにできなかったことは、まだ時になっていないからであり、主の御心でないからです。私たちが絶対的にしてもそれが成されなければ、私たちに害になることがあったから、主は私たちを愛されるので、それができないようになさり、他のもので祝福して下さいました。
「絶対的」というこの哲学を忘れてはいけません。「絶対的であってこそ絶対的だ。」という御言葉は神様と主の特別啓示だから、一生心に刻んで生きなくてはいけません。
神様と主は「絶対的に行ないなさい。そうすれば絶対的に接してあげる。」とおっしゃいました。絶対的にしなければサタンに引っ張って行かれて損害を被ります。絶対的に行なえば「サタン不可侵」です。神様と主の前に絶対的な生き方が、ただ主と一体となった生き方です。今日からそのように生きてみることを主の御名で祝福します。
今から別の話をします。
私たちが心から多くのことを求め、願い、行なったのに、成されるのを見ると十個のうちで二個、あるいは三個、あるいは一つしか成されません。なぜあれほどにも心からたくさん求めて行なったのに数個、あるいは一つしか成されないのか気になるでしょう。
神様は求めたものがふさわしくてこそ下さるし、求めた人もふさわしくしてこそ下さるし、全ての人たちを見たときにふさわしくてこそ下さるし、神様の前にふさわしくてこそ下さいます。求めたものが小さくても大きくてもふさわしくなかったら下さいませんでした。
イエス様がこの世にいらっしゃったときも神様は主を通して下さいました。ある人は主に会ったとき、自分が盲人だから目をあけさせて下さいと求めました。求めたことがふさわしいから成されるようにして目をあけさせて下さいました。主は求める人たちに「あなたの信仰どおりになりなさい。信仰がどれだけあるのか見よう。あなたの信仰があなたを救う。」とおっしゃいました。体調の悪い人が主に健康を切に求めたとき、ふさわしければ健康にして下さいました。
ある人は兄弟たち同士、土地のことで争っているので、主に公義で分けて下さいと言いました(ルカ12:13)。主はそれがふさわしくないから「私は土地を分けてあげるために来たのではない。人の富は土地や財物にだけあるのではない。」とおっしゃいました。この御言葉は「私を悟ってついて来ながらも富や財物が私にあることを知らないのか。」という意味が大きかったのです。
イエス様がこの世にいらっしゃったときも人々は主にありとあらゆることを訊いてみました。だいたい病気がよくなることを願って病気を治してもらった人がたくさんいました。病気を治して下さいということはふさわしいからたくさん治してもらいました。
病気を治して下さいという祈りはふさわしいから、落胆せずに続けて祈りながら、医学で手をつけるべきことは必ずしなくてはいけません。手術して切ってしまうべきものは切ってしまわなくてはいけません。代替医学と物理治療だけでは絶対的に信じることができません。3分の1も難しいです。祈ってよくなるものは絶対に祈ればいいです。まずふさわしいのか見なくてはいけません。ふさわしくないのに無知でお祈りだけしてはいけません。医学で治療すべきときもいろいろ迅速に調べて判断しなくてはいけません。
今はふさわしければ神様が祈りを聞いて下さると言いました。本当にふさわしいものを求めなくてはいけません。求めてもふさわしいものではないから成されなかったのです。だからあれほどにもたくさん祈っていろいろと切に求めても、神様から見るとふさわしくなくて成されなかったのです。
神様は横のことと縦のことをすべて見て下さいます。地球世界と神様の全てのものを見てバランスが合ってこそ下さいます。時になってこそ下さいます。数百種類、検討してみてふさわしければ下さいます。だから祈ったことが成されたら、宝くじに当たるのと同じです。神様がして下さったことに感謝しなくてはいけません。
必ずふさわしいものが何であるか分かって求めなくてはいけません。求めて行なったのに神様と主が下さらなかったと寂しがるなとおっしゃるのです。ふさわしくない祈りはまるで、電話番号を知らない人が電話番号を押すのと同じです。番号を正しく押してこそ友達や恋人が応答するように、神様にもふさわしいお祈りをしてこそ聞いて下さいます。
ふさわしいお祈りは本当に難しいものです。「伝道します。主のために犠牲になります。忠誠を尽くします。患難と困難を耐え忍びます。平和に暮らします。兄弟に自分のからだのように接しながら暮らします。主の心情を分かって再臨を準備する生活をします。」このようなお祈りを聞いて下さいます。民族のための祈り、兄弟たちのための祈り、命のための祈りをよく聞いて下さいます。聖霊で祈ると感動を下さってふさわしいことが浮かびます。信じますか。
神様は大きなものだからと言って負担になって成して下さらないことはありません。ある人の祈りによって民族の運命が左右されることもあります。子供の祈りによって、その教会を裁くはずだったのに裁かれないときがあります。
全て祈ったけれど神様がご覧になるとふさわしくないから成して下さらなかったということが分かりましたか。あるいはまだ時になっていなくて成して下さっていないということが分かったでしょう。
神様がその事に計画なさったことがあります。それを求めなくてはいけません。先生のために祈っても神様がご覧になってふさわしくてこそ成して下さいます。神様の絶対的な御心があります。これを分かってその方向で祈らなくてはいけません。祈ったのに聞いて下さらなかったものは後で見ると「あ〜だから聞いて下さらなかったんだ。」とはっきりと悟るようになります。
自分が祈ったことを神様が聞いて下さらなかったとしても、その祈りが無駄にならないように別の方向で成して下さいます。信じますか。
今年の修錬会のテーマは「希望を成す歴史」です。希望の主人は「主」でいらっしゃいます。摂理歴史は主が願われる歴史を成しています。
修錬会のときも新しい人たちを伝道してきて人生の夢をおのおの成すようにしなさいと言いました。そしてもう一つは聖霊の働きをして、まだ恵みを受けていない人たちもみんな恵みを満ちるほど受けるように祈って讃美するようにしなさいと言いました。
希望を成す歴史であるということを分かって参加すれば希望が成されます。だから希望を成す歴史だと言ったのです。
本当に時間がありません。先生も特別祈祷の時間に入りました。この貴い時間を摂理全体のために、民族のために使わなくてはいけません。自分が責任を果たせなくて後ろにいる人たちを取りまとめていましたが、主をきちんと迎えられないかと心配になって、今は主に従って前で飛んで行かなくてはいけないから、取り残されている人たちもみんな一緒に飛んで行かなくてはいけません。
「自分が絶対的にやりなさい。」ということをどうして言うのか分かりますか。自分が絶対的に行なう人たちが天国へ向かいます。他の人たちは信じることができないから、自分が必ずしなくてはいけません。自分のことは自分のことだから誰でもできます。
皆さんは一日にごはんを三食絶対的に必ず食べ、一日に三回絶対的に歯を磨き、絶対的に寝るでしょう。他のこともそのようにすれば簡単にできます。
神様ばかり、主ばかり仰いで、全て分かってして下さるだろうと信じる人たちの中に、失敗する人が多いです。してくれないと寂しいと言って信仰生活もしません。自分がしなくてはいけません。自分の生活だから自分がしないといけないのであって、どうして神様がしてくれることばかりを望み、任せてばかりいますか。
全知全能な神様も忙しいのに、自分がすべきこともしないで怠けて任せてばかりいますか。間違った思考を持った人です。先生はそんなふうに摂理歴史を導いてきませんでした。自分がしなくてはいけません。神様がなさることが別にあります。
主は「神様のように完全になりなさい。」と言いました(マタイ5:48)。「完全な者にだけ主の完全さを見せる。」と言いました。先生も私にふさわしい手紙が来てこそ返事をあげるように、神様もふさわしいお祈りにだけ答えを下さいます。
神様の全知全能さと大きな恵みと、主の愛と、聖霊様の熱い働きが、御言葉に従順し不法を行わない人たちに満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
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