私の霊を注いであげよう
本文 使徒行伝2:16-21
全知全能の神様の愛と、主の慈悲と恵みと、聖霊の感動と熱い働きが満ちることを祈ります。
主がおっしゃいます。
「私の再臨が10年後にあっても、7年後にあっても、3年後にあっても時間は同じだ。」
どういうことかと言うと、人々が考えるとき、3年より10年という時間がはるかに長く、準備できる機会がもっと多いと思うでしょう?誰でもそう思います。先生も3年、7年、10年は時間の差があると思いました。世の中で誰でもそのように考えるでしょう。
しかし主の御言葉を聴いてみるとそうではありません。「あなたがたの考えは私の考えと異なる。」とおっしゃいました。主がおっしゃるには「ぐっすり眠る人が1時間寝て目を覚ましても、2時間寝て目を覚ましても、3時間寝て目を覚ましても、眠りの中の時間は1時間、2時間、3時間、全て瞬間のようだったのではないか。もっと眠っても、少なく寝ても、瞬間の時間のようだ。これと同じく3年でも、7年でも、10年でも、あなたがたの日々が夢のように瞬間に過ぎ去る。だから将来の10年も、7年も、3年も、全て同じ時間で、短い時間だけ残っているのだ。だから慌てて早く悔い改め、早く用意し、伝道すべき人たちを早く伝道し、早く私と一体になりなさい。しようと思うなら早くしなさい。しないつもりなら私に失望ばかりさせないで、聖殿の敷居ばかりすり減らさないで、席ばかり占めていないで、救われるべき他の人たちが座るように席を空けてあげなさい。」とおっしゃいました。
世の中でどんなことができないとしても、救いだけは確信できるように十分にやって生きなくてはいけません。世の中で成功はできなかったとしても主を迎えれば人として生まれた最高の甲斐がある人であり、誰より成功した人です。
主からもらった歌がまた出たでしょう?「永遠に幸せな道を行く人が幸せな人」だと言いました。人々はちょっとの間幸せな道を行きながら幸せだと言います。それが幸せではありません。
一夜の愛のことをどうして愛だと言えますか。説教を聴いて感動してその瞬間だけ兄弟を憎まず、その後にまた憎むのが本当の愛ですか。こういう人は愛において幸せな人だと言えません。永遠に許してあげ、愛してこそ愛の永遠な幸せな人です。
愛は計算するものではありません。無条件、主の心で、単純に、幼子のように、愛するのが愛です。「あいつが間違ったのに・・・私に悔い改めもしないで本当に良心がないな。」と言いながら計算してはいけません。これは偉大な愛ではありません。主の愛ではありません。
先生には敵たちと私を憎む人たちがたくさんいました。しかし全て許してあげました。彼らが地獄に行かないように彼らのために祈ってあげました。
ある日、主は私に「あなたは私の恋人なのに、誰がこんなふうにあなたをここにいさせたのか。私がそのままにしておかない。行なったとおりに報いてあげるだろう。」とおっしゃいました。この時、私は主に「私には敵もいないし、憎む人もいません。主にしたがってここに来ました。」と言いました。この時は2007年7月でした。
主は「本当にいないのか。」とおっしゃいました。私は「本当にいません。いれば私が神様に告げて処理するでしょう。私は先に許してしまうから私には敵も、憎む人もいません。主が教えて下さったとおりに従順しながら行くべきでしょう。」と言いました。
その時、主は「敵を愛することがどんなに偉大な愛なのか。どんなにすばらしい人なのか。」とおっしゃいました。そしてまたおっしゃるには「毎日一言、箴言で一巻の本をつくってあげるから、私の言葉を覚えて心に記録しておき、後で書ける機会が来たら紙に記録しなさい。」とおっしゃいました。
愛は計算するものではなく、ただ単純に考えて愛してあげるべきです。憎んだ人も、自分に無念な思いをさせた人も愛するものです。絶対に従順しなくてはいけません。自分が自分を悟ってみるのと上から見るのは異なるし、兄弟が見て接するのは異なります。信じますか。
使徒行伝2章16〜18節まで読んでみて、残りの21節までまた読んでみましょう。みな一緒に読んでみましょう。
(使2:16-21)『〔16〕そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、〔17〕「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。〔18〕その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。〔19〕また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。〔20〕主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。〔21〕そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」。』
イエス様は人類のために人々の罪を代わりに負われ、十字架を負われました。そして復活後、天の国へと昇天なさいました。その時も実際、旧約の終末でした。神様はヨエル預言者を通して預言なさったとおりに男女の僕たちに神様の霊を注いで下さいました。
空(から)の器に水を注いでやると、水がいっぱいになるでしょう。神様の霊を心の器に注いで下さると、皆さんの心の器に神様の霊がいらっしゃるようになります。単純に「聖霊を受けた。火を受けた。恵みを受けた。異言を話す。異言を通訳する。」という恵みの次元で終わるのではありません。神様の霊が皆さんの心に来られるからそのように神霊な働きが起こるのです。
聖霊は熱いものとばかり思ってはいけません。聖霊は「神様の霊」です。主も「神様の霊」です。神様と聖霊様とイエス様は三位一体だと言ったでしょう。神様の霊を注いで下さるのです。この時、主も共になさり、聖霊様も共になさいます。三位の神様でいらっしゃいます。
聖霊の働きを単純に神様の恵みとだけ考えてはいけません。聖霊の働きは熱いのがすべてではありません。神様の霊が臨むから熱いのです。使徒の時代に五旬節の聖霊の働きもそのように起こりました。聖霊が臨むと異言を話し、九つの賜物が臨みます。
神様の霊を受けて熱いから叫ぶのです。恵みを受けると本当に火の塊が太陽のように自分の前に近寄って来るでしょう。熱すぎて焼けて死ぬほど熱かったりもしたでしょう。
「聖霊は熱い。」、「聖霊を受けると九つの賜物を受ける。」とこのようにばかり考えてはいけません。なぜ主が「水と聖霊で生まれ変わりなさい。」とおっしゃったのか知らなくてはいけません。「水と聖霊で生まれ変わってこそ天の国に入れる。」ということです。
水は命の御言葉、救いの御言葉です。御言葉で生まれ変わらなくてはいけません。また聖霊で生まれ変わりなさいと言いました。聖霊で生まれ変わりなさいということは「神様の霊を受けなさい。神様の霊で生まれ変わりなさい。」ということです。
聖霊を体験するだけでは、ご飯を食べるのにご飯の味がどうか一匙食べてみたり、果物があって一口食べてみたのと同じです。恵みを体験するだけではいけません。食べ物を味見するだけでは結局飢え死にします。十分にたらふく毎日食べなくてはいけません。
「聖霊を受ける」ということは今日の御言葉のように神様がおっしゃるには「私が私の霊をあなたの肉体に注いであげることだ。私の霊があなたの肉体を使ってこの世で私の人生を生きることだ。」とおっしゃいました。これを中心として主も一体となり、天母様も一体になるのです。
主は愛で救って下さり、聖霊様は感動させてすべきことをおさせになり、神様は能力で私たちの肉体にその霊を注いで下さって、天の国の霊の形体を着るように変化させて下さいます。
しかし根本は、神様の霊が私たちの肉体に臨むと肉体にあらゆる恵みの変化が起こるように、私たちの霊も変化が起こります。どんな変化かというと、すなわち天の国の形体に変化するようになります。天の国の天使や主のような形体へ変化を起こすようになります。あの天に属する霊の形を着るようになります。主のような霊になります。天使のように、あるいは天の国にいる霊のように変わるようになります。そうしてこそ天の国に行くようになります。
このように神様の霊が臨むと熱いだけで終わるのではありません。自分の霊が天の天使や主のような形体に変化し、天の国に行って生きられる体へと形体が変化します。
神様の霊が臨むと神様の霊がその人を支配します。サタンが来るとサタンがその人を支配します。主は三位体なので聖霊様と共に働かれます。聖霊について知って受けなくてはいけません。知っている通りに続けて話してあげましょう。みな神様と主にどんどん訊いてみて下さい。個性どおりに教えて下さいます。
神様が神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると熱くて感動が起こり、男女が愛すると愛の反応が起こるように私たちの肉体に愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制の働きが起こるようになります。
それだけでなく遺伝子、生命体の形体が変化してこの世の人として生まれるように、神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると私たちの霊が天の形体へと変化して天の国の人たちになります。天母、聖霊様は霊の母として変化した霊たちを育てて下さいます。
形体が変わって天の国の天使や主のような形体になった霊でなければ天の国に行って生きることができません。そうでなければ主の御言葉通りに決して天の国に行くことができません。聖霊で生まれ変わってこそ天の国に行くことができると言いました。
主は公生涯のとき3年間、御言葉をお伝えになり、人々を水と聖霊で生まれ変わらせて下さいました。主が逝かれた後にはそのようにする人がいないから神様がそれぞれの肉体に神様の霊を注いで下さって歴史をお広げになりました。その時から今までずっとそのように働きかけてこられました。
今神様は私たちの肉体にその霊を注いで下さり、聖霊によって私たちの霊の形体が天の国の霊へと生まれ変わるようにして下さっています。だから主の再臨を前にして行われる聖霊の集会に絶対に参加して勤しんで新しく生まれ変わらなくてはいけません。
集会に参加しなければ恵みを受けられないだけでなく、霊が天の国の形体に変化することができません。前に変化した霊はまた眠って罪を犯したため闇の主管圏にいるので、再び神様の霊を受けて新しく変化しなくてはいけません。
先生も初めて聖霊を受けたとき、サッカーボールくらいの火が講壇のほうから来ました。一人でいるときでした。その時は梅雨時だったのですが、教会へ行こうとすると川を渡らなくてはいけませんでした。その川のほとりを渡っていると水が増えて、死を免れて、雨でずぶぬれになって教会に来て、一人で祈っているときでした。
その時講壇の上のほうから火の塊が来て、焼け死ぬほどに私の体が熱かったです。瞬間、数十カ国の異言が出てきて通訳が出てきたので、私が霊でどんな祈りをしているのか悟るようになりました。神様が臨在なさり、聖霊様が臨在なさり、主が臨在なさる時、熱いです。火はすなわち神の降臨です。
その日の明け方に熱く悔い改め、これからどのように生きようと決心しました。どんな困難があっても主を信じて神様を愛して生きようと祈りました。
その後、ずっと恵みの生活をしながら山でのお祈り生活をより熱心にするようになりました。また伝道するようになり、街やバスで叫び始めました。遠い距離にあるチョンジュや、チョナン、テジョン地域に行くときは、車がないから夜に飛んで行きました。天使がいつも共にして神様が臨在なさるから、主とさらに同行して御言葉に従順することができました。
神様の霊を受けたから、神様と主と一体となって生きなくてはいけません。毎日神様と主に仕え、愛し、その御心通りに実践しながら生きなくてはいけません。この世に属した霊でなく、天に属した霊へとその形体が変わってこそ、神様と主と一体となり、聖霊の感動の中でさらに同行して生きることができます。
聖霊で生まれ変わってこそ第一に、罪を遠ざけるようになり、もう罪を犯さなくなります。第二に、本人の信仰が生きて精神が生きるので、罪の落とし穴を分かってそこに陥りません。第三に、サタンの誘惑と惑わしも、知恵と知識で分かって治められます。第四に、キリストの中で罪に定められなくなります。
単純に隣の人が受ける火によって体験的に熱く感じるだけの体験で終わってはいけません。聖霊を満ちるほど受けて天の国の霊へと生まれ変わってしまうべきです。少し熱いのは神様が自分に来るという予備の感じに過ぎません。聖霊を受けるとき、気をもんで切に求め、神様の霊が自分と一つになることを分かって満ちるほど受けなくてはいけません。
神様がそれぞれの肉体にその霊を注いで下さいますが、満ち溢れるほど十分に注いで下さることができるようにしなくてはいけません。そのためには世界の摂理の教会は、聖霊を満ちるほどに受けている人たちを中心として連続的に恵みの歴史を続けなくてはいけません。神様の霊を受けた人たちも、恵みを体験した人たちも、まだ受けられていない人たちも、続けなくてはいけません。
神様は哀願し準備できると、一人でいてもその霊を注いで下さいます。外国に出て行っている人たちも自分の位置で祈って神様の霊を注いで下さいと切に求めなくてはいけません。讃美し祈って熱心にやらなくてはいけません。秋になると脱穀の機械一台だけではその広い野原を全て脱穀することができません。すぐに吹雪が吹き付けてきます。早く聖霊に満ちた人を任命し、各教会で欠ける人なくみな聖霊を受けるように、聖霊の働きを続けなくてはいけません。恵みを受けたことを証しますが、絶対に秩序を持ってやり、騒がしくしてはいけません。他の所へ流れて行く時間を奪ってみな全面的に祈って伝道しなくてはいけません。時間は主です。時間を奪われると主を奪われます。主を優先権にして時間を使わなくてはいけません。
神様の霊を満ちるほどに受けてこそ昔先生がやったように一箇所で数百人ずつ伝道するようになります。ペテロも五旬節に聖霊を受けて3000人を悔い改めさせ、洗礼を授けました。(使2:41)
主は十字架を負われる前にも命の御言葉を伝えて人々が水と聖霊で生まれ変わるようになさいました。神様の霊が臨むようになさいました。恵みと真理が充満するようになさいました。主は「神様の御言葉を託された人は神様」だとおっしゃいました。(ヨハネ10:35)
イエス様がこの世にいらっしゃったとき、その時代が邪悪でなく、イエス様とその福音を受け入れてついて行ったなら、主は十字架を負われず、3年間福音をお伝えになり聖霊の働きをなさったように、続けてそのように歴史をお広げになったでしょう。その時代は責任を果たせず、神様が遣わされた救い主を拒絶したので、神様は御心を変えて神様が直接その霊を全ての肉体に注いで下さいました。三位の神様でいらっしゃいます。
この時代もイエス様が先生を通して伝える時代の福音を受け入れたなら、そのまま命の御言葉で神様が働きかけられ、御言葉と聖霊で生まれ変わるようになったことでしょう。私たちの肉は九つの恵みを受けて生まれ変わるようになり、私たちの霊は天の形体を着て歴史を続けて広げていったでしょう。
時代の十字架を負ったから今神様がその霊を摂理の全ての肉体に注いで下さっています。神様の霊が臨むとすべてのことを証するようになります。特にメシア、主を証するようになります。証すればするほど能力が生じます。主を強く証しなくてはいけません。使徒の時代にも主を証しました。皆さんは主と私を証するでしょう。
旧約時代にも神様の霊が臨んだとき、全てのことを証しました。モーセに神様が臨まれ、ヨシュアにも臨んで歴史をお広げになりました。預言者たちに神様が臨んでその時代の切迫した状況を叫ばせて救いの歴史をお広げになりました。
ダビデにも神様の霊が臨んだのでダビデは獅子の口を引き裂き、イスラエル民族の運命を左右するゴリアテを打ち殺し、パリサイ人の大軍と戦って勝ちました。神様の霊が臨んでその霊を肉体に注いで下さるとこのように大きなことをするようになります。それなのに何人かだけ伝道して終わるでしょうか。百人、千人、一万人ずつはやるべきでしょう。摂理の運命を背負って行かなくてはいけません。
サムソンやギデオンに神様の霊が臨んだから、自分の民族に攻め入って来た人たちを神様の霊の能力で、神様と共に打ち破って滅ぼし、40年間民族を平和にしました。
このように神様の霊が臨んだら大きなことをしなくてはいけません。数十人が摂理の運をもらっても3〜4人しか伝道できませんでした。たった一日だけでもそのくらいはできます。聖霊で生まれ変わっていないからそうなのです。全ての過ちを悔い改め、街に出て行って彼らが聞いても聞かなくても時代を叫んであげなくてはいけません。死ぬ前に全てのすべきことをやって下さい。私たちがやれば主はキリスト教で火をおつけになるでしょう。
神様の霊を注いで下さる神様と、私たちを救って下さるイエス様と、私たちを感動・感化して下さり熱く働きかけられる聖霊様に感謝を捧げ、三位の働きが全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらです。http://cgm.or.kr/
本文 使徒行伝2:16-21
全知全能の神様の愛と、主の慈悲と恵みと、聖霊の感動と熱い働きが満ちることを祈ります。
主がおっしゃいます。
「私の再臨が10年後にあっても、7年後にあっても、3年後にあっても時間は同じだ。」
どういうことかと言うと、人々が考えるとき、3年より10年という時間がはるかに長く、準備できる機会がもっと多いと思うでしょう?誰でもそう思います。先生も3年、7年、10年は時間の差があると思いました。世の中で誰でもそのように考えるでしょう。
しかし主の御言葉を聴いてみるとそうではありません。「あなたがたの考えは私の考えと異なる。」とおっしゃいました。主がおっしゃるには「ぐっすり眠る人が1時間寝て目を覚ましても、2時間寝て目を覚ましても、3時間寝て目を覚ましても、眠りの中の時間は1時間、2時間、3時間、全て瞬間のようだったのではないか。もっと眠っても、少なく寝ても、瞬間の時間のようだ。これと同じく3年でも、7年でも、10年でも、あなたがたの日々が夢のように瞬間に過ぎ去る。だから将来の10年も、7年も、3年も、全て同じ時間で、短い時間だけ残っているのだ。だから慌てて早く悔い改め、早く用意し、伝道すべき人たちを早く伝道し、早く私と一体になりなさい。しようと思うなら早くしなさい。しないつもりなら私に失望ばかりさせないで、聖殿の敷居ばかりすり減らさないで、席ばかり占めていないで、救われるべき他の人たちが座るように席を空けてあげなさい。」とおっしゃいました。
世の中でどんなことができないとしても、救いだけは確信できるように十分にやって生きなくてはいけません。世の中で成功はできなかったとしても主を迎えれば人として生まれた最高の甲斐がある人であり、誰より成功した人です。
主からもらった歌がまた出たでしょう?「永遠に幸せな道を行く人が幸せな人」だと言いました。人々はちょっとの間幸せな道を行きながら幸せだと言います。それが幸せではありません。
一夜の愛のことをどうして愛だと言えますか。説教を聴いて感動してその瞬間だけ兄弟を憎まず、その後にまた憎むのが本当の愛ですか。こういう人は愛において幸せな人だと言えません。永遠に許してあげ、愛してこそ愛の永遠な幸せな人です。
愛は計算するものではありません。無条件、主の心で、単純に、幼子のように、愛するのが愛です。「あいつが間違ったのに・・・私に悔い改めもしないで本当に良心がないな。」と言いながら計算してはいけません。これは偉大な愛ではありません。主の愛ではありません。
先生には敵たちと私を憎む人たちがたくさんいました。しかし全て許してあげました。彼らが地獄に行かないように彼らのために祈ってあげました。
ある日、主は私に「あなたは私の恋人なのに、誰がこんなふうにあなたをここにいさせたのか。私がそのままにしておかない。行なったとおりに報いてあげるだろう。」とおっしゃいました。この時、私は主に「私には敵もいないし、憎む人もいません。主にしたがってここに来ました。」と言いました。この時は2007年7月でした。
主は「本当にいないのか。」とおっしゃいました。私は「本当にいません。いれば私が神様に告げて処理するでしょう。私は先に許してしまうから私には敵も、憎む人もいません。主が教えて下さったとおりに従順しながら行くべきでしょう。」と言いました。
その時、主は「敵を愛することがどんなに偉大な愛なのか。どんなにすばらしい人なのか。」とおっしゃいました。そしてまたおっしゃるには「毎日一言、箴言で一巻の本をつくってあげるから、私の言葉を覚えて心に記録しておき、後で書ける機会が来たら紙に記録しなさい。」とおっしゃいました。
愛は計算するものではなく、ただ単純に考えて愛してあげるべきです。憎んだ人も、自分に無念な思いをさせた人も愛するものです。絶対に従順しなくてはいけません。自分が自分を悟ってみるのと上から見るのは異なるし、兄弟が見て接するのは異なります。信じますか。
使徒行伝2章16〜18節まで読んでみて、残りの21節までまた読んでみましょう。みな一緒に読んでみましょう。
(使2:16-21)『〔16〕そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、〔17〕「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。〔18〕その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。〔19〕また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。〔20〕主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。〔21〕そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」。』
イエス様は人類のために人々の罪を代わりに負われ、十字架を負われました。そして復活後、天の国へと昇天なさいました。その時も実際、旧約の終末でした。神様はヨエル預言者を通して預言なさったとおりに男女の僕たちに神様の霊を注いで下さいました。
空(から)の器に水を注いでやると、水がいっぱいになるでしょう。神様の霊を心の器に注いで下さると、皆さんの心の器に神様の霊がいらっしゃるようになります。単純に「聖霊を受けた。火を受けた。恵みを受けた。異言を話す。異言を通訳する。」という恵みの次元で終わるのではありません。神様の霊が皆さんの心に来られるからそのように神霊な働きが起こるのです。
聖霊は熱いものとばかり思ってはいけません。聖霊は「神様の霊」です。主も「神様の霊」です。神様と聖霊様とイエス様は三位一体だと言ったでしょう。神様の霊を注いで下さるのです。この時、主も共になさり、聖霊様も共になさいます。三位の神様でいらっしゃいます。
聖霊の働きを単純に神様の恵みとだけ考えてはいけません。聖霊の働きは熱いのがすべてではありません。神様の霊が臨むから熱いのです。使徒の時代に五旬節の聖霊の働きもそのように起こりました。聖霊が臨むと異言を話し、九つの賜物が臨みます。
神様の霊を受けて熱いから叫ぶのです。恵みを受けると本当に火の塊が太陽のように自分の前に近寄って来るでしょう。熱すぎて焼けて死ぬほど熱かったりもしたでしょう。
「聖霊は熱い。」、「聖霊を受けると九つの賜物を受ける。」とこのようにばかり考えてはいけません。なぜ主が「水と聖霊で生まれ変わりなさい。」とおっしゃったのか知らなくてはいけません。「水と聖霊で生まれ変わってこそ天の国に入れる。」ということです。
水は命の御言葉、救いの御言葉です。御言葉で生まれ変わらなくてはいけません。また聖霊で生まれ変わりなさいと言いました。聖霊で生まれ変わりなさいということは「神様の霊を受けなさい。神様の霊で生まれ変わりなさい。」ということです。
聖霊を体験するだけでは、ご飯を食べるのにご飯の味がどうか一匙食べてみたり、果物があって一口食べてみたのと同じです。恵みを体験するだけではいけません。食べ物を味見するだけでは結局飢え死にします。十分にたらふく毎日食べなくてはいけません。
「聖霊を受ける」ということは今日の御言葉のように神様がおっしゃるには「私が私の霊をあなたの肉体に注いであげることだ。私の霊があなたの肉体を使ってこの世で私の人生を生きることだ。」とおっしゃいました。これを中心として主も一体となり、天母様も一体になるのです。
主は愛で救って下さり、聖霊様は感動させてすべきことをおさせになり、神様は能力で私たちの肉体にその霊を注いで下さって、天の国の霊の形体を着るように変化させて下さいます。
しかし根本は、神様の霊が私たちの肉体に臨むと肉体にあらゆる恵みの変化が起こるように、私たちの霊も変化が起こります。どんな変化かというと、すなわち天の国の形体に変化するようになります。天の国の天使や主のような形体へ変化を起こすようになります。あの天に属する霊の形を着るようになります。主のような霊になります。天使のように、あるいは天の国にいる霊のように変わるようになります。そうしてこそ天の国に行くようになります。
このように神様の霊が臨むと熱いだけで終わるのではありません。自分の霊が天の天使や主のような形体に変化し、天の国に行って生きられる体へと形体が変化します。
神様の霊が臨むと神様の霊がその人を支配します。サタンが来るとサタンがその人を支配します。主は三位体なので聖霊様と共に働かれます。聖霊について知って受けなくてはいけません。知っている通りに続けて話してあげましょう。みな神様と主にどんどん訊いてみて下さい。個性どおりに教えて下さいます。
神様が神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると熱くて感動が起こり、男女が愛すると愛の反応が起こるように私たちの肉体に愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制の働きが起こるようになります。
それだけでなく遺伝子、生命体の形体が変化してこの世の人として生まれるように、神様の霊を私たちの肉体に注いで下さると私たちの霊が天の形体へと変化して天の国の人たちになります。天母、聖霊様は霊の母として変化した霊たちを育てて下さいます。
形体が変わって天の国の天使や主のような形体になった霊でなければ天の国に行って生きることができません。そうでなければ主の御言葉通りに決して天の国に行くことができません。聖霊で生まれ変わってこそ天の国に行くことができると言いました。
主は公生涯のとき3年間、御言葉をお伝えになり、人々を水と聖霊で生まれ変わらせて下さいました。主が逝かれた後にはそのようにする人がいないから神様がそれぞれの肉体に神様の霊を注いで下さって歴史をお広げになりました。その時から今までずっとそのように働きかけてこられました。
今神様は私たちの肉体にその霊を注いで下さり、聖霊によって私たちの霊の形体が天の国の霊へと生まれ変わるようにして下さっています。だから主の再臨を前にして行われる聖霊の集会に絶対に参加して勤しんで新しく生まれ変わらなくてはいけません。
集会に参加しなければ恵みを受けられないだけでなく、霊が天の国の形体に変化することができません。前に変化した霊はまた眠って罪を犯したため闇の主管圏にいるので、再び神様の霊を受けて新しく変化しなくてはいけません。
先生も初めて聖霊を受けたとき、サッカーボールくらいの火が講壇のほうから来ました。一人でいるときでした。その時は梅雨時だったのですが、教会へ行こうとすると川を渡らなくてはいけませんでした。その川のほとりを渡っていると水が増えて、死を免れて、雨でずぶぬれになって教会に来て、一人で祈っているときでした。
その時講壇の上のほうから火の塊が来て、焼け死ぬほどに私の体が熱かったです。瞬間、数十カ国の異言が出てきて通訳が出てきたので、私が霊でどんな祈りをしているのか悟るようになりました。神様が臨在なさり、聖霊様が臨在なさり、主が臨在なさる時、熱いです。火はすなわち神の降臨です。
その日の明け方に熱く悔い改め、これからどのように生きようと決心しました。どんな困難があっても主を信じて神様を愛して生きようと祈りました。
その後、ずっと恵みの生活をしながら山でのお祈り生活をより熱心にするようになりました。また伝道するようになり、街やバスで叫び始めました。遠い距離にあるチョンジュや、チョナン、テジョン地域に行くときは、車がないから夜に飛んで行きました。天使がいつも共にして神様が臨在なさるから、主とさらに同行して御言葉に従順することができました。
神様の霊を受けたから、神様と主と一体となって生きなくてはいけません。毎日神様と主に仕え、愛し、その御心通りに実践しながら生きなくてはいけません。この世に属した霊でなく、天に属した霊へとその形体が変わってこそ、神様と主と一体となり、聖霊の感動の中でさらに同行して生きることができます。
聖霊で生まれ変わってこそ第一に、罪を遠ざけるようになり、もう罪を犯さなくなります。第二に、本人の信仰が生きて精神が生きるので、罪の落とし穴を分かってそこに陥りません。第三に、サタンの誘惑と惑わしも、知恵と知識で分かって治められます。第四に、キリストの中で罪に定められなくなります。
単純に隣の人が受ける火によって体験的に熱く感じるだけの体験で終わってはいけません。聖霊を満ちるほど受けて天の国の霊へと生まれ変わってしまうべきです。少し熱いのは神様が自分に来るという予備の感じに過ぎません。聖霊を受けるとき、気をもんで切に求め、神様の霊が自分と一つになることを分かって満ちるほど受けなくてはいけません。
神様がそれぞれの肉体にその霊を注いで下さいますが、満ち溢れるほど十分に注いで下さることができるようにしなくてはいけません。そのためには世界の摂理の教会は、聖霊を満ちるほどに受けている人たちを中心として連続的に恵みの歴史を続けなくてはいけません。神様の霊を受けた人たちも、恵みを体験した人たちも、まだ受けられていない人たちも、続けなくてはいけません。
神様は哀願し準備できると、一人でいてもその霊を注いで下さいます。外国に出て行っている人たちも自分の位置で祈って神様の霊を注いで下さいと切に求めなくてはいけません。讃美し祈って熱心にやらなくてはいけません。秋になると脱穀の機械一台だけではその広い野原を全て脱穀することができません。すぐに吹雪が吹き付けてきます。早く聖霊に満ちた人を任命し、各教会で欠ける人なくみな聖霊を受けるように、聖霊の働きを続けなくてはいけません。恵みを受けたことを証しますが、絶対に秩序を持ってやり、騒がしくしてはいけません。他の所へ流れて行く時間を奪ってみな全面的に祈って伝道しなくてはいけません。時間は主です。時間を奪われると主を奪われます。主を優先権にして時間を使わなくてはいけません。
神様の霊を満ちるほどに受けてこそ昔先生がやったように一箇所で数百人ずつ伝道するようになります。ペテロも五旬節に聖霊を受けて3000人を悔い改めさせ、洗礼を授けました。(使2:41)
主は十字架を負われる前にも命の御言葉を伝えて人々が水と聖霊で生まれ変わるようになさいました。神様の霊が臨むようになさいました。恵みと真理が充満するようになさいました。主は「神様の御言葉を託された人は神様」だとおっしゃいました。(ヨハネ10:35)
イエス様がこの世にいらっしゃったとき、その時代が邪悪でなく、イエス様とその福音を受け入れてついて行ったなら、主は十字架を負われず、3年間福音をお伝えになり聖霊の働きをなさったように、続けてそのように歴史をお広げになったでしょう。その時代は責任を果たせず、神様が遣わされた救い主を拒絶したので、神様は御心を変えて神様が直接その霊を全ての肉体に注いで下さいました。三位の神様でいらっしゃいます。
この時代もイエス様が先生を通して伝える時代の福音を受け入れたなら、そのまま命の御言葉で神様が働きかけられ、御言葉と聖霊で生まれ変わるようになったことでしょう。私たちの肉は九つの恵みを受けて生まれ変わるようになり、私たちの霊は天の形体を着て歴史を続けて広げていったでしょう。
時代の十字架を負ったから今神様がその霊を摂理の全ての肉体に注いで下さっています。神様の霊が臨むとすべてのことを証するようになります。特にメシア、主を証するようになります。証すればするほど能力が生じます。主を強く証しなくてはいけません。使徒の時代にも主を証しました。皆さんは主と私を証するでしょう。
旧約時代にも神様の霊が臨んだとき、全てのことを証しました。モーセに神様が臨まれ、ヨシュアにも臨んで歴史をお広げになりました。預言者たちに神様が臨んでその時代の切迫した状況を叫ばせて救いの歴史をお広げになりました。
ダビデにも神様の霊が臨んだのでダビデは獅子の口を引き裂き、イスラエル民族の運命を左右するゴリアテを打ち殺し、パリサイ人の大軍と戦って勝ちました。神様の霊が臨んでその霊を肉体に注いで下さるとこのように大きなことをするようになります。それなのに何人かだけ伝道して終わるでしょうか。百人、千人、一万人ずつはやるべきでしょう。摂理の運命を背負って行かなくてはいけません。
サムソンやギデオンに神様の霊が臨んだから、自分の民族に攻め入って来た人たちを神様の霊の能力で、神様と共に打ち破って滅ぼし、40年間民族を平和にしました。
このように神様の霊が臨んだら大きなことをしなくてはいけません。数十人が摂理の運をもらっても3〜4人しか伝道できませんでした。たった一日だけでもそのくらいはできます。聖霊で生まれ変わっていないからそうなのです。全ての過ちを悔い改め、街に出て行って彼らが聞いても聞かなくても時代を叫んであげなくてはいけません。死ぬ前に全てのすべきことをやって下さい。私たちがやれば主はキリスト教で火をおつけになるでしょう。
神様の霊を注いで下さる神様と、私たちを救って下さるイエス様と、私たちを感動・感化して下さり熱く働きかけられる聖霊様に感謝を捧げ、三位の働きが全ての人たちに満ちることを祝福します。アァメン。
元記事はこちらです。http://cgm.or.kr/主にぴったりくっついて生きる時だ
本文 ヨハネによる福音書15:4−5
神様の愛と主の恵みと慈悲と聖霊の熱い御働きが御言葉によってさらに充満することを祈ります。
この時は主の再臨の時です。人々が行なったとおりによりいっそう次第にひどくなり、民族が騒がしくなるでしょう。風の音と波の音が極めて激しくなるでしょう。皆恐れるでしょう。
主は「すでに患難が始まった。」とおっしゃいました。季節の時になると必ず寒波が押し寄せ、雨が降り注ぐということは予想することですが、これから降り注ぐのは毎年来る梅雨時の雨でもなく吹雪でもありません。私たちが全く予想できないほど降り注ぐでしょう。
寒気に本当に気をつけなくてはいけません。この時に聖霊の恵みを受けて急いで準備しなくてはいけません。それが逃れることです。全世界は平和が渡り鳥のように飛んで行ってしまい、カラスばかり群れを成して鳴くでしょう。本当に祈らなくてはいけません。吹雪が吹かずずっと春の日が来るようにすることはできないでしょう。
季節が来るとその季節に該当する雪や雨が降り注ぎます。それを止めることはできません。ただ主はこのようにおっしゃいました。
「祈りなさい。今ほど祈りが必要な時はなかった。聖霊を受けなさい。最後に私があなたがたのために瞬間来たから、最後にこの機会を逃すな。今はソドムの地に住んでいたロトが天使に会った日の夜のような時だ。天使の言葉を聞いても逃れなかった人たちは皆滅ぼされた。この時代に私が話す御言葉をもって叫ぶ人を通して伝える言葉を聞いても守らなければ肉と霊が救われるだろうか。」
これから患難の吹雪が吹くし、風雨が次第に強く吹き付けるでしょう。
主は「その日はもう避けることができなくなった。あなたがたの人生はそのように定まった。この世が天にそのように接したのだ。平和の夢を成そうと北側から自発的に行なっていたことなのに、なぜ北側は自分たちがその平和を放棄して瞬間冷たく変わってしまい氷のように冷たくなったのだろうか。自分たちも分からないだろう。」
この御言葉通りに彼らは嫌がりながらもしなくてはならない運命になりました。
主は「エルサレムよ!めんどりがひよこを抱くようにしたのにあなたがたは私が遣わした使役者たちの懐へは来たがらなかった。今はあなたがたは荒廃するだろう。この時代もそうだ、祈ればただその日を減らして下さるだろう。あなたがたが祈って神様が減らして下さらないなら残るものはないだろう。」とおっしゃいました。
この時代が責任を果たしたなら、南北が区切られず徐々に一つの体になるように主は働きかけられたでしょう。今は一つの体の中で上半身の心と下半身の心が変わりました。対話すれば誤解が解け、同じ心になります。これからの天気を見ると、民族に風雨と吹雪がたくさん吹き荒れるでしょう。皆自分の生のために祈る時です。
神様が遣わした人に冷たく接するとどの時代でも皆同じです。世の中のあることは、将来にそのようなことが起こるから予め見せて下さることもあります。すると後にその通りに同じことが起こります。もう一つは、時代や民族が責任を果たせなかったときに起こる患難だったけれど、義人の祈りによって運命が左右されることもあります。
どの時代でも待っていた人たちが、神様が遣わした使命者に無知で接してその人が使命を果たせないと、使命者は苦痛の十字架の道を行くことになります。それで終わるのではなく、各自の責任を果たせなかった個人や民族はさらに代価を受けることになります。
イエス様がイスカリオテのユダに「私はあなたが責任を果たせなくて、記録されたとおりに苦難の道を行くが、あなたは人の子にそのように接したから災いがあるだろう。」とおっしゃいました。この時代もイスカリオテのユダのようになってしまいました。
今日主は皆さんに「患難の前に聖霊の印を押して頂きなさい。今はやく私が教えてあげたとおりにしなさい。」とおっしゃいました。主が眠りを起こされなくても本人が分かって早く起きて祈り、生活の中で聖霊の火を切らさないで、聖霊の火が消えた人は兄弟たちと一緒に祈ってまた点けなさいとおっしゃいました。
主に「将来にこのように患難が訪れるでしょうが、建物も建てて伝道をすべきでしょうか。」と訊きました。これに対して主は「功績をたくさん積めば天の国に持って行くから、死ぬその日が明日になっても自分のすべきことは必ずしなくてはいけない。」と言いました。
皆、先に話した冷たい風、風雨、台風の比喩を悟って下さい。
「私は主に仕えて生きるから幸せな人」だと歌を歌っています。憎まれてもついて来る人たちがとても良くしてくれるから、私は本当に幸せな人です。
兄弟を憎むなと主があんなにもおっしゃったのに、聖書の御言葉を守らないで生きる大きな村の人たちは、本当に大きな困難が迫って来ることも知らず、主が前途に必ず来られるのかもよく分かっていません。
憎み、血気を表し、出まかせにしゃべるときは内心すっきりするでしょう。ストレスが解けるでしょう。ところが心は嬉しくないのをみんな経験したことがあるでしょう。川の向こうの大きな村の年老いた人たちの心もそうです。冷たく接したから、その行いどおりに冷たく接した人たちには夏にさらに冷たい風が激しく吹きつけるでしょう。私たちは聖霊の熱い火によって寒くないでしょう。
隠れた患難は患難の前日までも分かりません。患難のその日とその時は誰も分からないから、ただ事前に祈らなくてはいけません。風が強く吹くと大きな松の木々が揺れ、吹雪が吹くと松葉が枯葉に変わりはしませんが、寒くてぶるぶる震えるでしょう。山火事が起こると大きな木でも燃えてしまいます。黒い松も青い松も皆燃えるでしょう。
皆さんは人々に過酷に接しては絶対にいけません。特に神様の人々に冷たく過酷に接してはいけません。天国に行ってみると、主を信じる人たちが主に悪口を言ったこともたくさんあります。これは主が遣わした人を悪く言い、過酷に接した行いのせいです。
神様の人々に過酷に接するとその行いどおりに報いて下さいます。そうすると逃れることができません。主はご自分を遣わした人に冷酷に接し、悪口を言い、逆らうことを一番お嫌いになります。「私はそういう人たちから顔を背け、そういう人たちには御心がないからそのまま離れる。」とおっしゃいました。主は使役者を使って一緒に行かれます。
兄弟同士いくら間違ったことも今までのことを許そうと決心すれば何でもありません。敵を愛してみてこそ先生の心を分かるようになります。私たちの前に死亡の道と命の道があるのに今までのことを許すことができませんか。私たちはひたすらサタンと戦わなくてはいけません。兄弟たちと戦わないで悪い霊たちと戦わなくてはいけません。
これから兄弟たちを変な目で見ないで、互いに主に接するように変わらなくてはいけません。落とし穴に落ちた人や落胆した人たちの手紙をもらって先生が助けに行っているから、皆さんの心のままにその人に石を投げたら結局私に当たることになります。だから兄弟たちに石を投げず、睨み付けないで下さい。
摂理の人たちは本当に幸せな人たちです。主が来られる前に主が直々に来られて聖霊集会を導いて下さり、一つ一つ掴んで下さるから、どんなに幸せですか。これまで世の中の多くの患難に打ち勝ち、30年間主に丁重に仕えてきたからです。主が既に行く所を決めておかれて、今私たちに働きかけられ、共になさっているから、摂理歴史最高の奇跡の時です。本当に祝福されました。この時に主を歓迎して皆飛び込まなくてはいけません。
肉体が機会を逃すと一生後悔しなくてはいけませんが、霊的な機会を逃すと永遠に後悔しなくてはいけません。自分は本当にそうではないのに見る人たちが良く言わないで横目でにらんだら、目を閉じ耳をふさいで主だけについて行けばいいです。人は腹が立つととんでもないことを言います。
最後に主が私に明け方に話して下さったことをまた話してあげなさいとおっしゃったので、伝えてあげますから、よく聴いて下さい。
1、自分の十字架を負って行く人は主がご覧になるとき本当に美しい人だ。さらに美しい人は他人の十字架まで黙って喜んで負って行く人だ。
2、現在の信仰が生きていて、精神が生きている人は、過去に主が自分にどのように接して下さったのか悟るようになり、現在も主がどのように接して下さっているのか分かる。
3、今は歴史のクライマックスだ。恵みと啓示と聖霊の働きと御言葉だ。この時が過ぎると私たち同士互いに聖霊の火を点けてあげなくてはいけない。この時に自分の荷を全て下ろしてしまい、新婦の服に着替えなくてはいけない。
4、主にぴったりついて回ってこそその風で全てのことを超越し容易くすることができる。
−主の恵みを受けて主にくっついて行ってこそその風の勢いで全てのことを超越し、飛び回るということです。
そうすると不可能なこともできるし、患難と迫害にも打ち勝つということです。主と離れた人は自分の力で自分が熱心にやって自ら長所と短所を悟ってついて来なくてはならないと言いました。
主にぴったりとついて行けば主が行なわれることを直接見てついて行くようになるが、主と離れた人は聖霊様の感動で感じながらついて行かなくてはならないと言いました。主にぴったりついて行けば主の風で超越して目で見ながら行くようになりますが、主と離れた人は自ら力を尽くして行い、風を起こして行かなくてはいけないと言いました。このようにするとあまりにも大変です。自分が眠りも起こさなくてはいけないし、いろいろと大変です。
5、聖霊に会うと感動を受けて熱くなり、神様に会うと能力が来て大胆になり、主に会うと愛らしくて嬉しく、無条件良い。主は「見えなくてもそうだと思いなさい。」とおっしゃいました。
−主は私たちの愛なので私たちに会うと恋人に接するようになさいます。見えなくてもそのように感じられます。まるで自分の愛する恋人に会った時のように働かれます。
神様の全知全能さと、主の恵みと愛と、聖霊様の熱い働きと感動、感化が全ての人々に満ちることを祝福します。アァメン。
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本文 ヨハネによる福音書15:4−5
神様の愛と主の恵みと慈悲と聖霊の熱い御働きが御言葉によってさらに充満することを祈ります。
この時は主の再臨の時です。人々が行なったとおりによりいっそう次第にひどくなり、民族が騒がしくなるでしょう。風の音と波の音が極めて激しくなるでしょう。皆恐れるでしょう。
主は「すでに患難が始まった。」とおっしゃいました。季節の時になると必ず寒波が押し寄せ、雨が降り注ぐということは予想することですが、これから降り注ぐのは毎年来る梅雨時の雨でもなく吹雪でもありません。私たちが全く予想できないほど降り注ぐでしょう。
寒気に本当に気をつけなくてはいけません。この時に聖霊の恵みを受けて急いで準備しなくてはいけません。それが逃れることです。全世界は平和が渡り鳥のように飛んで行ってしまい、カラスばかり群れを成して鳴くでしょう。本当に祈らなくてはいけません。吹雪が吹かずずっと春の日が来るようにすることはできないでしょう。
季節が来るとその季節に該当する雪や雨が降り注ぎます。それを止めることはできません。ただ主はこのようにおっしゃいました。
「祈りなさい。今ほど祈りが必要な時はなかった。聖霊を受けなさい。最後に私があなたがたのために瞬間来たから、最後にこの機会を逃すな。今はソドムの地に住んでいたロトが天使に会った日の夜のような時だ。天使の言葉を聞いても逃れなかった人たちは皆滅ぼされた。この時代に私が話す御言葉をもって叫ぶ人を通して伝える言葉を聞いても守らなければ肉と霊が救われるだろうか。」
これから患難の吹雪が吹くし、風雨が次第に強く吹き付けるでしょう。
主は「その日はもう避けることができなくなった。あなたがたの人生はそのように定まった。この世が天にそのように接したのだ。平和の夢を成そうと北側から自発的に行なっていたことなのに、なぜ北側は自分たちがその平和を放棄して瞬間冷たく変わってしまい氷のように冷たくなったのだろうか。自分たちも分からないだろう。」
この御言葉通りに彼らは嫌がりながらもしなくてはならない運命になりました。
主は「エルサレムよ!めんどりがひよこを抱くようにしたのにあなたがたは私が遣わした使役者たちの懐へは来たがらなかった。今はあなたがたは荒廃するだろう。この時代もそうだ、祈ればただその日を減らして下さるだろう。あなたがたが祈って神様が減らして下さらないなら残るものはないだろう。」とおっしゃいました。
この時代が責任を果たしたなら、南北が区切られず徐々に一つの体になるように主は働きかけられたでしょう。今は一つの体の中で上半身の心と下半身の心が変わりました。対話すれば誤解が解け、同じ心になります。これからの天気を見ると、民族に風雨と吹雪がたくさん吹き荒れるでしょう。皆自分の生のために祈る時です。
神様が遣わした人に冷たく接するとどの時代でも皆同じです。世の中のあることは、将来にそのようなことが起こるから予め見せて下さることもあります。すると後にその通りに同じことが起こります。もう一つは、時代や民族が責任を果たせなかったときに起こる患難だったけれど、義人の祈りによって運命が左右されることもあります。
どの時代でも待っていた人たちが、神様が遣わした使命者に無知で接してその人が使命を果たせないと、使命者は苦痛の十字架の道を行くことになります。それで終わるのではなく、各自の責任を果たせなかった個人や民族はさらに代価を受けることになります。
イエス様がイスカリオテのユダに「私はあなたが責任を果たせなくて、記録されたとおりに苦難の道を行くが、あなたは人の子にそのように接したから災いがあるだろう。」とおっしゃいました。この時代もイスカリオテのユダのようになってしまいました。
今日主は皆さんに「患難の前に聖霊の印を押して頂きなさい。今はやく私が教えてあげたとおりにしなさい。」とおっしゃいました。主が眠りを起こされなくても本人が分かって早く起きて祈り、生活の中で聖霊の火を切らさないで、聖霊の火が消えた人は兄弟たちと一緒に祈ってまた点けなさいとおっしゃいました。
主に「将来にこのように患難が訪れるでしょうが、建物も建てて伝道をすべきでしょうか。」と訊きました。これに対して主は「功績をたくさん積めば天の国に持って行くから、死ぬその日が明日になっても自分のすべきことは必ずしなくてはいけない。」と言いました。
皆、先に話した冷たい風、風雨、台風の比喩を悟って下さい。
「私は主に仕えて生きるから幸せな人」だと歌を歌っています。憎まれてもついて来る人たちがとても良くしてくれるから、私は本当に幸せな人です。
兄弟を憎むなと主があんなにもおっしゃったのに、聖書の御言葉を守らないで生きる大きな村の人たちは、本当に大きな困難が迫って来ることも知らず、主が前途に必ず来られるのかもよく分かっていません。
憎み、血気を表し、出まかせにしゃべるときは内心すっきりするでしょう。ストレスが解けるでしょう。ところが心は嬉しくないのをみんな経験したことがあるでしょう。川の向こうの大きな村の年老いた人たちの心もそうです。冷たく接したから、その行いどおりに冷たく接した人たちには夏にさらに冷たい風が激しく吹きつけるでしょう。私たちは聖霊の熱い火によって寒くないでしょう。
隠れた患難は患難の前日までも分かりません。患難のその日とその時は誰も分からないから、ただ事前に祈らなくてはいけません。風が強く吹くと大きな松の木々が揺れ、吹雪が吹くと松葉が枯葉に変わりはしませんが、寒くてぶるぶる震えるでしょう。山火事が起こると大きな木でも燃えてしまいます。黒い松も青い松も皆燃えるでしょう。
皆さんは人々に過酷に接しては絶対にいけません。特に神様の人々に冷たく過酷に接してはいけません。天国に行ってみると、主を信じる人たちが主に悪口を言ったこともたくさんあります。これは主が遣わした人を悪く言い、過酷に接した行いのせいです。
神様の人々に過酷に接するとその行いどおりに報いて下さいます。そうすると逃れることができません。主はご自分を遣わした人に冷酷に接し、悪口を言い、逆らうことを一番お嫌いになります。「私はそういう人たちから顔を背け、そういう人たちには御心がないからそのまま離れる。」とおっしゃいました。主は使役者を使って一緒に行かれます。
兄弟同士いくら間違ったことも今までのことを許そうと決心すれば何でもありません。敵を愛してみてこそ先生の心を分かるようになります。私たちの前に死亡の道と命の道があるのに今までのことを許すことができませんか。私たちはひたすらサタンと戦わなくてはいけません。兄弟たちと戦わないで悪い霊たちと戦わなくてはいけません。
これから兄弟たちを変な目で見ないで、互いに主に接するように変わらなくてはいけません。落とし穴に落ちた人や落胆した人たちの手紙をもらって先生が助けに行っているから、皆さんの心のままにその人に石を投げたら結局私に当たることになります。だから兄弟たちに石を投げず、睨み付けないで下さい。
摂理の人たちは本当に幸せな人たちです。主が来られる前に主が直々に来られて聖霊集会を導いて下さり、一つ一つ掴んで下さるから、どんなに幸せですか。これまで世の中の多くの患難に打ち勝ち、30年間主に丁重に仕えてきたからです。主が既に行く所を決めておかれて、今私たちに働きかけられ、共になさっているから、摂理歴史最高の奇跡の時です。本当に祝福されました。この時に主を歓迎して皆飛び込まなくてはいけません。
肉体が機会を逃すと一生後悔しなくてはいけませんが、霊的な機会を逃すと永遠に後悔しなくてはいけません。自分は本当にそうではないのに見る人たちが良く言わないで横目でにらんだら、目を閉じ耳をふさいで主だけについて行けばいいです。人は腹が立つととんでもないことを言います。
最後に主が私に明け方に話して下さったことをまた話してあげなさいとおっしゃったので、伝えてあげますから、よく聴いて下さい。
1、自分の十字架を負って行く人は主がご覧になるとき本当に美しい人だ。さらに美しい人は他人の十字架まで黙って喜んで負って行く人だ。
2、現在の信仰が生きていて、精神が生きている人は、過去に主が自分にどのように接して下さったのか悟るようになり、現在も主がどのように接して下さっているのか分かる。
3、今は歴史のクライマックスだ。恵みと啓示と聖霊の働きと御言葉だ。この時が過ぎると私たち同士互いに聖霊の火を点けてあげなくてはいけない。この時に自分の荷を全て下ろしてしまい、新婦の服に着替えなくてはいけない。
4、主にぴったりついて回ってこそその風で全てのことを超越し容易くすることができる。
−主の恵みを受けて主にくっついて行ってこそその風の勢いで全てのことを超越し、飛び回るということです。
そうすると不可能なこともできるし、患難と迫害にも打ち勝つということです。主と離れた人は自分の力で自分が熱心にやって自ら長所と短所を悟ってついて来なくてはならないと言いました。
主にぴったりとついて行けば主が行なわれることを直接見てついて行くようになるが、主と離れた人は聖霊様の感動で感じながらついて行かなくてはならないと言いました。主にぴったりついて行けば主の風で超越して目で見ながら行くようになりますが、主と離れた人は自ら力を尽くして行い、風を起こして行かなくてはいけないと言いました。このようにするとあまりにも大変です。自分が眠りも起こさなくてはいけないし、いろいろと大変です。
5、聖霊に会うと感動を受けて熱くなり、神様に会うと能力が来て大胆になり、主に会うと愛らしくて嬉しく、無条件良い。主は「見えなくてもそうだと思いなさい。」とおっしゃいました。
−主は私たちの愛なので私たちに会うと恋人に接するようになさいます。見えなくてもそのように感じられます。まるで自分の愛する恋人に会った時のように働かれます。
神様の全知全能さと、主の恵みと愛と、聖霊様の熱い働きと感動、感化が全ての人々に満ちることを祝福します。アァメン。
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本文 テサロニケ人への第一の手紙5:16−18
神様の愛と主の平安を祈ります。
主は十字架で万民の罪の代わりに亡くなり、その霊で霊獄にいる霊たちに福音をお伝えになりました。人々の肉は従順でなかったので裁かれて死にましたが、その霊はイエス様がお伝えになる福音を聴いて神様に従って生きるようになるためだと言いました。
(ペテロ?3:18−20)『キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。』
(ペテロ?4:6)『死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。』
彼らはノアの時代に神様の御言葉にずっと従順しないで水で裁かれ、その肉体が生を全うできずに早く死んだ人たちの霊です。主は彼らのために神様の慈悲と哀れみによって福音を伝えて下さったのです。主が福音をお伝えになってもこの世の現実と同じく彼らもやはり信じませんでした。
自分が乗るべき車に乗れなかったのに、他の車がまだあると思ってはいけません。車はもう遅れずに時間に合わせて出発します。皆さんはこれに該当しないので、絶対にペテロの第一の手紙3:18〜20と4:6にある御言葉に未練を置かないで下さい。
私たちは今、現実において肉体が霊と一緒に救われて生きてこそ天国を確信することのできる時代に生きています。もう最後の瞬間の時間しかありません。この時間に皆さんの霊が確実に救いを成すようにしなくてはいけません。余命がまだ数年残っているとしてもそれを計算しないで下さい。
イエス様はこの世にいらっしゃったとき、3年間福音をお伝えになり、公生涯の歴史をお広げになりました。その時イエス様はバプテスマのヨハネが言ったとおりに御言葉と恵みの火で人々にバプテスマをお授けになりました。イエスが十字架で亡くなって復活なさり、昇天なさった後に、聖霊の歴史が起こりました。弟子たちはその時になってやっと聖霊の火を受け、主の心情と根本を悟り、悔い改め、命を捧げて叫び、福音を広げていきました。
この時代もそれと同じです。聖父神様は全知全能で治められます。聖子イエス様は人間をお救いになり、人間の罪を贖って下さいます。聖霊様は母性神として感動させ、私たちを育てて下さり、和睦させ、すべきことをおさせになり、福音を伝えさせ、火のように熱く働かれます。その熱い愛を火で表現なさって、私たちが神様の御心を広げていくようにして下さいます。三位の神様でいらっしゃいます。
父と母と子供たちが一体となって一つの家庭のことを十分にやっていくように、三位体が一体となって見えるこの地球の家庭のことと見えないあの天国の家庭の全てのことをしていかれます。
先生が以前には明け方3時に祈るだけでも私が好きな車がピカピカして私を待っていました。運転手は私の前に車を持って来て「お乗り下さい。」と言って私を乗せ、望む場所に降ろして行きました。
最近は明け方2時30分に起きて準備し、3時に祈ると自転車が私の前にあります。その上運転手もいなくて、私が自分で足でペダルを回して力いっぱいこがなくてはいけませんでした。
主に言いました。「主よ、年を取ったから以前と同じではありません。数日前に二日徹夜したので、時間が大きく狂っています。」
主が静かにおっしゃいました。「アブラハムは100歳でイサクを産んだのではないか。」
これに私は「主よ、言うべき言葉がありません。明日は遅くまで祈るとしても早く起きます。」と言いました。
その翌日、主と約束したとおりに起きると、やっと明け方の2時10分前でした。「今日はティコにでも乗れるだろう。」と思って熱心に祈りました。ところがオートバイを私の前に持って来てありました。本当に衝撃でした。
どうしてお祈りをしなくてはいけないのか、主がおっしゃった御言葉を伝えてあげましょう。
1、祈ってこそ主と近くなり、主と深い心の対話が成されます。
−皆やってみたでしょう。ある人は、主と対話をせず、一人で自分の心と対話をやり取りする人もいます。だから悪霊や悪魔が入ってきてつぶやいているのか、必ず確認して分別しなくてはいけません。
2、祈ってこそ聖霊の感動の働きが起こります。
−感動を受けることは始動がかかるということです。
3、祈ってこそ私たちの天敵であるサタン、悪魔、悪霊たちを撃退できます。
4、祈ってこそ今年の標語のように新しく変化を受けます。
−先生の霊が各教会を巡ってみると、変化していない人たちが見えます。先生が行っても分かりません。「あの人誰?」と言います。水と聖霊で生まれ変わって神霊な霊に変化をしなくてはいけません。
5、祈ってこそもらうようになります。
6、祈ると兄弟が違って見え、愛らしく見え、憎らしく見えません。
7、祈ってこそ神様の心を分かり、主の心を分かり、先生の心を分かり、兄弟たちの心を分かって、正しく、より良く接するようになります。
8、それぞれの人々にはおのおの守護天使がいます。祈ってこそ守護天使たちが勇気を出して能力を発揮し、サタンや悪霊と戦って私たちからサタンと悪霊を追い出してくれます。
10、祈ると神霊になり、知恵深くなり、聡明になり、精神が生き返り、腐った人生を生きなくなります。
11、祈ると世の中を遠ざけ、主を第1順位に置いて生きるようになります。
12、祈ると速い雲になるように、速い風になります。
13、祈ると自分が過去に間違って生きたことを悔い改めるようになります。そしてこれを証して他の人たちに罪を犯さないように話してあげたい心が衝動的に起こって耐えられません。祈ると祈らない人たちをもどかしくて見ていられません。
14、祈ると罪を犯さなくなることもあります。
ここで「お祈りはなぜしなくてはいけないか」についての御言葉を終わります。
主神様の恵みと能力と御言葉と、主イエス・キリストの愛と御言葉と、聖霊様の感動・感化と御働きと大きな恵みが、この御言葉を聞いて行なうすべての人たちにいっそう共にすることを、聖父、聖子、聖霊の御名で祝福します。アァメン。
元記事はこちらです。http://cgm.or.kr/
本文 テサロニケ人への第一の手紙5:16−18
神様の愛と主の平安を祈ります。
主は十字架で万民の罪の代わりに亡くなり、その霊で霊獄にいる霊たちに福音をお伝えになりました。人々の肉は従順でなかったので裁かれて死にましたが、その霊はイエス様がお伝えになる福音を聴いて神様に従って生きるようになるためだと言いました。
(ペテロ?3:18−20)『キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。』
(ペテロ?4:6)『死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。』
彼らはノアの時代に神様の御言葉にずっと従順しないで水で裁かれ、その肉体が生を全うできずに早く死んだ人たちの霊です。主は彼らのために神様の慈悲と哀れみによって福音を伝えて下さったのです。主が福音をお伝えになってもこの世の現実と同じく彼らもやはり信じませんでした。
自分が乗るべき車に乗れなかったのに、他の車がまだあると思ってはいけません。車はもう遅れずに時間に合わせて出発します。皆さんはこれに該当しないので、絶対にペテロの第一の手紙3:18〜20と4:6にある御言葉に未練を置かないで下さい。
私たちは今、現実において肉体が霊と一緒に救われて生きてこそ天国を確信することのできる時代に生きています。もう最後の瞬間の時間しかありません。この時間に皆さんの霊が確実に救いを成すようにしなくてはいけません。余命がまだ数年残っているとしてもそれを計算しないで下さい。
イエス様はこの世にいらっしゃったとき、3年間福音をお伝えになり、公生涯の歴史をお広げになりました。その時イエス様はバプテスマのヨハネが言ったとおりに御言葉と恵みの火で人々にバプテスマをお授けになりました。イエスが十字架で亡くなって復活なさり、昇天なさった後に、聖霊の歴史が起こりました。弟子たちはその時になってやっと聖霊の火を受け、主の心情と根本を悟り、悔い改め、命を捧げて叫び、福音を広げていきました。
この時代もそれと同じです。聖父神様は全知全能で治められます。聖子イエス様は人間をお救いになり、人間の罪を贖って下さいます。聖霊様は母性神として感動させ、私たちを育てて下さり、和睦させ、すべきことをおさせになり、福音を伝えさせ、火のように熱く働かれます。その熱い愛を火で表現なさって、私たちが神様の御心を広げていくようにして下さいます。三位の神様でいらっしゃいます。
父と母と子供たちが一体となって一つの家庭のことを十分にやっていくように、三位体が一体となって見えるこの地球の家庭のことと見えないあの天国の家庭の全てのことをしていかれます。
先生が以前には明け方3時に祈るだけでも私が好きな車がピカピカして私を待っていました。運転手は私の前に車を持って来て「お乗り下さい。」と言って私を乗せ、望む場所に降ろして行きました。
最近は明け方2時30分に起きて準備し、3時に祈ると自転車が私の前にあります。その上運転手もいなくて、私が自分で足でペダルを回して力いっぱいこがなくてはいけませんでした。
主に言いました。「主よ、年を取ったから以前と同じではありません。数日前に二日徹夜したので、時間が大きく狂っています。」
主が静かにおっしゃいました。「アブラハムは100歳でイサクを産んだのではないか。」
これに私は「主よ、言うべき言葉がありません。明日は遅くまで祈るとしても早く起きます。」と言いました。
その翌日、主と約束したとおりに起きると、やっと明け方の2時10分前でした。「今日はティコにでも乗れるだろう。」と思って熱心に祈りました。ところがオートバイを私の前に持って来てありました。本当に衝撃でした。
どうしてお祈りをしなくてはいけないのか、主がおっしゃった御言葉を伝えてあげましょう。
1、祈ってこそ主と近くなり、主と深い心の対話が成されます。
−皆やってみたでしょう。ある人は、主と対話をせず、一人で自分の心と対話をやり取りする人もいます。だから悪霊や悪魔が入ってきてつぶやいているのか、必ず確認して分別しなくてはいけません。
2、祈ってこそ聖霊の感動の働きが起こります。
−感動を受けることは始動がかかるということです。
3、祈ってこそ私たちの天敵であるサタン、悪魔、悪霊たちを撃退できます。
4、祈ってこそ今年の標語のように新しく変化を受けます。
−先生の霊が各教会を巡ってみると、変化していない人たちが見えます。先生が行っても分かりません。「あの人誰?」と言います。水と聖霊で生まれ変わって神霊な霊に変化をしなくてはいけません。
5、祈ってこそもらうようになります。
6、祈ると兄弟が違って見え、愛らしく見え、憎らしく見えません。
7、祈ってこそ神様の心を分かり、主の心を分かり、先生の心を分かり、兄弟たちの心を分かって、正しく、より良く接するようになります。
8、それぞれの人々にはおのおの守護天使がいます。祈ってこそ守護天使たちが勇気を出して能力を発揮し、サタンや悪霊と戦って私たちからサタンと悪霊を追い出してくれます。
10、祈ると神霊になり、知恵深くなり、聡明になり、精神が生き返り、腐った人生を生きなくなります。
11、祈ると世の中を遠ざけ、主を第1順位に置いて生きるようになります。
12、祈ると速い雲になるように、速い風になります。
13、祈ると自分が過去に間違って生きたことを悔い改めるようになります。そしてこれを証して他の人たちに罪を犯さないように話してあげたい心が衝動的に起こって耐えられません。祈ると祈らない人たちをもどかしくて見ていられません。
14、祈ると罪を犯さなくなることもあります。
ここで「お祈りはなぜしなくてはいけないか」についての御言葉を終わります。
主神様の恵みと能力と御言葉と、主イエス・キリストの愛と御言葉と、聖霊様の感動・感化と御働きと大きな恵みが、この御言葉を聞いて行なうすべての人たちにいっそう共にすることを、聖父、聖子、聖霊の御名で祝福します。アァメン。
元記事はこちらです。http://cgm.or.kr/分れ争う者は荒れ果てる
本文 マタイによる福音書12:25−26、30−31
神様の全知全能さと主の恵みと真理によって平安であることを祈ります。
主が彼らの思いを見抜いておっしゃいます。「おおよそ、内部で分れ争う人は荒れ果ててしまい、内わで分かれ争う町や家や個人は立ち行かない。」
イエス様がこの世にいらっしゃったとき、パリサイ人たちとサドカイ人たちは内部で分れ争い、派を分け、争い、主に害を及ぼしました。
主は彼らをご覧になって「あなたがたは分かれ争うことによって滅びるようになり、荒れ果てるようになり、倒れて立ち上がれないだろう。あなたがたが分れ争って私の羊たちを引っ張って行き、あなたがたの主観を立てようとするが、あなたがたの思い通りにあなたがたの主観を立てられず滅びるだろう。」とおっしゃいました。
結局分れ争った人たちの末路は滅亡と荒廃で終わってしまいました。彼らはサタンの主管を受ける人たちになり、悪霊たちがその心を主管して使う人たちになりました。
それで主は「私があなたの心の中の悪霊を追い出せば神様の国と心の天国が臨むだろう。そうでなければ心が苦しい地獄になるだろう。」とおっしゃいました。
主について行く途中で信仰を捨てた人たちが、主に従う人たちを引きずり出して、自分の意を成そうとしました。それで主が「あなたがたは立ち行かず、荒れ果てる。」とおっしゃいました。
サタンと悪霊はそういう人たちの心を主管します。だから絶対にサタンの誘惑に引っかからないで断ち切りなさいと主がおっしゃるのです。話したのに聞かない人たちは左側に置くと主はおっしゃいました。マタイによる福音書25:33に、羊は右側に置き、やぎは左側に置くとあります。右側は天国のことを言い、左側は地獄のことを言ったのです。
終末の時、再臨による患難がすでに始まったということを皆知っています。患難は「神様の裁き」です。
主は「過去も考えないで、未来も考えないで、今を考えなさい。」とおっしゃいました。今自分が主の前によくやっているのか、鏡に自分の顔を映して見るように、主の御言葉で自分を映して見なさいとおっしゃいました。
御言葉に引っかかった人は死亡の道にいる人であり、左側にいる人です。すぐに悔い改めて反省しなければ、だんだん自分が出て来れない深い落とし穴へ行ってしまいます。
主がおっしゃるときは最後に悔い改める機会があり、反省する機会があるのです。地獄は自分が同調して行くものだと言いました。サタンの主管を受けて自分が好んで「不法」を行なって行くのです。今日、主はその「不法」とは内部で分れ争う人たちだとおっしゃいました。
主は私たちにお尋ねになりました。「あなたがたはどの道を選択するのか。」
「こっちへ行こうか、あっちへ行こうか。摂理を出て行こうか、このままいようか。」と右往左往する人たちをご覧になって主は「あなたがたの前に二つの道がある。死亡の道と命の道だ。早く一つを選びなさい。」とおっしゃいます。
恵みを受けて熱心にやる人たちには困難に二つの道が現れません。そのようにできなかった人たちに困難に二つの道が現れて「どうしようか。」と悩ませます。心が堅固でない人を主はお選びになりません。
自分の内部で分れ争ってはいけません。自分の肉の考えと自分の霊の考えが分かれ争ってはいけません。そして教会の中で派を分けないで、皆一つにならなくてはいけません。サタンは分れ争いの霊です。サタンの主管を受けると分れ争うようになります。
御言葉で言わなくても各自は毎日行なったとおりに受けています。各自行なったとおりに毎日裁きを受けたり祝福を受けたりしています。自分が祝福を受けたのか、災いを受けたのか、捨てられたのか、自分たちはよく分かります。自分たちが恵みを受ければ自らよく分かります。
自分を冷徹に判断し「神様と私、主と私」の人生にならなくてはいけません。先生によく見せようとしないで、主の前に遜色があってはいけません。きれいでなくてはいけません。毎日自分の行いを悔い改めなくてはいけません。毎日洗って磨くように、毎日ごはんを食べるように、毎日寝るように、信仰もそのようにしなくてはいけません。
聖父・神様の大きな愛と主の恵みと慈悲が充満し、聖霊様の感動・感化・御働きが充満することを祝福します。アァメン。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 マタイによる福音書12:25−26、30−31
神様の全知全能さと主の恵みと真理によって平安であることを祈ります。
主が彼らの思いを見抜いておっしゃいます。「おおよそ、内部で分れ争う人は荒れ果ててしまい、内わで分かれ争う町や家や個人は立ち行かない。」
イエス様がこの世にいらっしゃったとき、パリサイ人たちとサドカイ人たちは内部で分れ争い、派を分け、争い、主に害を及ぼしました。
主は彼らをご覧になって「あなたがたは分かれ争うことによって滅びるようになり、荒れ果てるようになり、倒れて立ち上がれないだろう。あなたがたが分れ争って私の羊たちを引っ張って行き、あなたがたの主観を立てようとするが、あなたがたの思い通りにあなたがたの主観を立てられず滅びるだろう。」とおっしゃいました。
結局分れ争った人たちの末路は滅亡と荒廃で終わってしまいました。彼らはサタンの主管を受ける人たちになり、悪霊たちがその心を主管して使う人たちになりました。
それで主は「私があなたの心の中の悪霊を追い出せば神様の国と心の天国が臨むだろう。そうでなければ心が苦しい地獄になるだろう。」とおっしゃいました。
主について行く途中で信仰を捨てた人たちが、主に従う人たちを引きずり出して、自分の意を成そうとしました。それで主が「あなたがたは立ち行かず、荒れ果てる。」とおっしゃいました。
サタンと悪霊はそういう人たちの心を主管します。だから絶対にサタンの誘惑に引っかからないで断ち切りなさいと主がおっしゃるのです。話したのに聞かない人たちは左側に置くと主はおっしゃいました。マタイによる福音書25:33に、羊は右側に置き、やぎは左側に置くとあります。右側は天国のことを言い、左側は地獄のことを言ったのです。
終末の時、再臨による患難がすでに始まったということを皆知っています。患難は「神様の裁き」です。
主は「過去も考えないで、未来も考えないで、今を考えなさい。」とおっしゃいました。今自分が主の前によくやっているのか、鏡に自分の顔を映して見るように、主の御言葉で自分を映して見なさいとおっしゃいました。
御言葉に引っかかった人は死亡の道にいる人であり、左側にいる人です。すぐに悔い改めて反省しなければ、だんだん自分が出て来れない深い落とし穴へ行ってしまいます。
主がおっしゃるときは最後に悔い改める機会があり、反省する機会があるのです。地獄は自分が同調して行くものだと言いました。サタンの主管を受けて自分が好んで「不法」を行なって行くのです。今日、主はその「不法」とは内部で分れ争う人たちだとおっしゃいました。
主は私たちにお尋ねになりました。「あなたがたはどの道を選択するのか。」
「こっちへ行こうか、あっちへ行こうか。摂理を出て行こうか、このままいようか。」と右往左往する人たちをご覧になって主は「あなたがたの前に二つの道がある。死亡の道と命の道だ。早く一つを選びなさい。」とおっしゃいます。
恵みを受けて熱心にやる人たちには困難に二つの道が現れません。そのようにできなかった人たちに困難に二つの道が現れて「どうしようか。」と悩ませます。心が堅固でない人を主はお選びになりません。
自分の内部で分れ争ってはいけません。自分の肉の考えと自分の霊の考えが分かれ争ってはいけません。そして教会の中で派を分けないで、皆一つにならなくてはいけません。サタンは分れ争いの霊です。サタンの主管を受けると分れ争うようになります。
御言葉で言わなくても各自は毎日行なったとおりに受けています。各自行なったとおりに毎日裁きを受けたり祝福を受けたりしています。自分が祝福を受けたのか、災いを受けたのか、捨てられたのか、自分たちはよく分かります。自分たちが恵みを受ければ自らよく分かります。
自分を冷徹に判断し「神様と私、主と私」の人生にならなくてはいけません。先生によく見せようとしないで、主の前に遜色があってはいけません。きれいでなくてはいけません。毎日自分の行いを悔い改めなくてはいけません。毎日洗って磨くように、毎日ごはんを食べるように、毎日寝るように、信仰もそのようにしなくてはいけません。
聖父・神様の大きな愛と主の恵みと慈悲が充満し、聖霊様の感動・感化・御働きが充満することを祝福します。アァメン。
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