その日には全て目につき、全て露見する 早く悔い改めて備えるべきものを用意しなさい
本文 マタイによる福音書22章1−14節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
植物の花の季節が去り、美しく勇壮な紅葉の季節が徐々に過ぎ、もう物寂しい季節がだんだん近づいています。それでも11月の一ヶ月は物寂しさを感じながら街を歩いても歩くことができます。大地の花も散り紅葉も散ると物寂しいですが、クリスチャンという人の花を咲かせれば冬にものどかでしょう。
今日の本文の御言葉を見ると、イエス様はその当世にあった状況と未来に起こることについて比喩を使って話されました。
ある王が自分の息子の結婚披露宴を催し、しもべたちを遣わして招いた人たちに来なさいと言いましたが、彼らが来ることを嫌がりました。王は他のしもべたちを遣わして「私が牛も肥えた獣もほふって食事を準備したから、私の息子の結婚披露宴に来なさい。」と言いました。しかしある人たちは見向きもしなかったし、ある人たちは田畑を耕しに行き、ある人たちは商売に出て行き、またある人たちは王が遣わしたしもべたちを辱め、悪評し、一部は殺しまでしました。誰が聞いても本当に悪い人たちであり、王を無視して踏みにじった人たちであり、「生まれたばかりの子犬はトラを怖がらない」(訳注:「無知は恐れを知らない」という意味のことわざ、日本語で言えば「知らぬが仏」「めくら蛇に怖じず」)と言いますが、王を陵辱した人たちです。
王がその話を聞いて激しく怒って軍隊を遣わし、しもべたちを殺人した人たちを滅ぼして彼らが住んでいる村を燃やしてしまいました。悪い人たちは自分の悪によって迫っていることを本当に知らずに生きています。
王はまたしもべたちを遣わして、道でも、野原でも、出会う人は誰でも、悪人でも善人でもみんな連れて来なさいと言いました。すると結婚披露宴にお客さんがいっぱいになりました。
王は誰が来たのか見ようと結婚披露宴の宮殿の庭をことごとく歩き回りました。ところがその多くの人々の中に、礼服を着ずに来た人がいました。王はその人に「友よ、どうして礼服を着ていないのか。」と訊くと、その人は食べていた食べ物を口にくわえて何も言わずに見つめているだけでした。本当に困ったことです。荒唐無稽なことです。それで王はそばの者たちに命じて「この人の手足を縛って外の暗闇に追い出せ。そこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないなあ。」と言いました。
この時代の私たち皆は、天の国に行くに当たって歴史の宴に招かれて来た人たちです。
今は私たちが神様とイエス様を選んで生きなくてはいけません。イエス様のこの比喩の御言葉はその当世のときに成されたし、その後にも成されました。
王は神様をたとえたものであり、王の息子はイエス様をたとえたものです。イエス様をこの世に新郎のように遣わして、迎えた人は信仰的にその方の新婦の立場になって救われ、その方と一つの体になって天の国に行くようになり、この世で生きる間にもイエス様に仕え、信じて生きることをおっしゃったのです。
王がしもべたちを遣わして宴に来なさいと言ったけれど来なかったということは、イエス様が来られる前の旧約時代4000年間、神様を信じて生きることを願ったけれど信じなかったことをおっしゃったのです。しかし小さな都市くらいのイスラエルの中には神様を信じる人たちがいました。
また王がしもべたちを遣わしたことは、イエス様の天国の福音の宴に来なさいと神様のしもべたちを遣わしたけれど来なかったことをおっしゃったのです。その理由は、自分の生活の場へ行き、あるいは世の中に溺れて生きているためについて来ないし、あるいは関心がなくて来なかったのです。残りの人はイエス様に反対し、異端視し、排斥し、遣わした人たちを悪く言い、その中には殺す人たちまでいました。
イエス様の当世、信じない人たちは福音を蔑視し、反キリストたちだと言って迫害し、異端視し、捕まえて回り、捕まえると獄に閉じ込め、殺しまでしました。どれほど心が傷つき、心情が苦しかったでしょうか。王のような神様がご覧になってどうなさったでしょうか。
イエス様の当世、どれだけイエス様の福音に反対し、迫害したのかご存知ですか。イエス様の福音を伝えると無条件に捕まえて回りました。捕まえる人たちは特にその時代に神様の弟子たちが福音を伝えるたびに、ともすれば彼らに告げ口しました。ローマ人たちはたいてい軍隊でイスラエルを支配し治めました。ローマ人たちが行って聞いてみるとこれといった特別な問題になることではありませんでした。
招いた人たちが来ないので、街で出会う人は誰でも福音を伝えて来させました。悪人でも善人でもみんな来させました。結局、天の国の宴に多くの人たちで満ち溢れました。多くの群れがイエス様の御言葉を聞いて天の国の宴の歴史を成しました。
そのように福音を広げている途中でイエス様が十字架につけられて亡くなった後に、イスラエルはローマの兵士たちによって陥落するようになりました。イエス様の比喩の御言葉どおり、神様が軍隊を遣わして、福音を伝える人たちを迫害し殺した人たちのその悪い行いどおりに行なわれました。
王の息子の結婚披露宴に来た人たちは、悪人でも善人でもみんな追い出されませんでした。しかし礼服を着ていない人は縛られて追い出されました。宴会場に行った人なら、他のことはできなくても礼服だけは整えて着なくてはいけません。整えなければ皆が見て気分が悪いのです。礼儀のない行動です。
この時代も神様がイエス様を世の終わりの終末に遣わされ、再臨を控えて主を迎えさせるために恵みと聖霊の宴をしています。天の国の主を迎える結婚披露宴をしていらっしゃいます。救いの結婚披露宴、恵みの結婚披露宴、聖霊の結婚披露宴、主を新郎として迎える結婚披露宴を神様は進行していらっしゃいます。私たちの目に見えなくても主は私たちの中に現れて行き来していらっしゃいます。
主は人々を遣わして招いて来なさいと言いましたが来ませんでした。再び人々を遣わして、ちょうど王が「肥えた獣をほふって全てのものを用意しておいたから、結婚披露宴に来なさい。」と言ったように、「世の終わりの日だ。再臨の前だ。私が約束どおりに聖霊を与えるから来なさい。聖霊の熱い働きを通して、人間たちが願う全ての恵みを与えてあげるから来なさい。人生を変化させ生まれ変わらせる聖霊の働きをするから来なさい。霊魂が救われて天国に行くようにする永遠の命の御言葉が準備されているから来なさい。」とおっしゃっています。
神様はあちこちイエス様の新婦たちを見て回っていらっしゃいます。ちょうど王がきれいな礼服を着ていない人を見てそばの者たちに命じて引きずり出して外の暗闇に追い出すように、神様は礼服を着ていない人たちをご覧になって追い出されるでしょう。
では礼服はいったい何のことなのか、礼式場に来るお祝いの客たちが着る礼服と新婦たちが着る礼服は信仰人たちにとって何のことなのか話します。
神様の人々は信仰の服を着なくてはいけませんが、これは救われるにあたって絶対に必要な義の服です。
ヨハネの黙示録19章7−8節を見ると「汚れのない衣」は「正しい行い」だと言っています。
汚れのない行いの服を着なくてはいけません。主を信じて生きながら正しく善良な行いをしてこそ、光り輝く汚れのない麻布の衣を着るようになります。悔い改めて主の御心どおりに生きる人にこの服が着せられます。
天国の救いの結婚披露宴に来た人たちなら、誰でも悔い改めなくてはいけません。この世に生きながら神様を信じなくて今信じて神様を愛するようになったこと、神様より世の中を愛して異性で人をより愛して生きたこと、神様の法から外れて生きたこと等を全て間違いだったといって悔い改めてこそ、義人になって神霊で光り輝く白い服を自分の霊に着せてあげることができます。そうしてこそ天国に入って行く福音の宴で礼服を着ていないといって追い出されません。
主がこの世に現れて2000年間働きかけられて以降、今この時は私たちにとって最高の機会です。主は私たちを変化させようとして来られました。限りない御言葉で啓示して下さり、聖霊で働きかけ、しるしで働きかけていらっしゃいます。
引き上げは変化です。変化してこそ引き上げられます。変化しなくては天の国に行くことができません。御言葉を聞いてそのとおりに行なって変化しなくてはいけません。悔い改めることで変化し、聖霊を受けることで変化し、主の啓示を何度も聴いて実践することで変化しなくてはいけません。変化しなかった人たちは結局追い出されました。主は「幼子のように変化しなさい。そうしてこそ天国に行く。」とおっしゃいました。この世で生きても天国の生き方でなければ地獄の生き方をしています。早く彼らのところへ行って「神様が天国に来なさいと招いていらっしゃいます。早く来なさいとおっしゃっています。」と言って連れて来て、時代の御言葉を聞かせ、天国の生き方をさせてあげて下さい。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 マタイによる福音書22章1−14節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
植物の花の季節が去り、美しく勇壮な紅葉の季節が徐々に過ぎ、もう物寂しい季節がだんだん近づいています。それでも11月の一ヶ月は物寂しさを感じながら街を歩いても歩くことができます。大地の花も散り紅葉も散ると物寂しいですが、クリスチャンという人の花を咲かせれば冬にものどかでしょう。
今日の本文の御言葉を見ると、イエス様はその当世にあった状況と未来に起こることについて比喩を使って話されました。
ある王が自分の息子の結婚披露宴を催し、しもべたちを遣わして招いた人たちに来なさいと言いましたが、彼らが来ることを嫌がりました。王は他のしもべたちを遣わして「私が牛も肥えた獣もほふって食事を準備したから、私の息子の結婚披露宴に来なさい。」と言いました。しかしある人たちは見向きもしなかったし、ある人たちは田畑を耕しに行き、ある人たちは商売に出て行き、またある人たちは王が遣わしたしもべたちを辱め、悪評し、一部は殺しまでしました。誰が聞いても本当に悪い人たちであり、王を無視して踏みにじった人たちであり、「生まれたばかりの子犬はトラを怖がらない」(訳注:「無知は恐れを知らない」という意味のことわざ、日本語で言えば「知らぬが仏」「めくら蛇に怖じず」)と言いますが、王を陵辱した人たちです。
王がその話を聞いて激しく怒って軍隊を遣わし、しもべたちを殺人した人たちを滅ぼして彼らが住んでいる村を燃やしてしまいました。悪い人たちは自分の悪によって迫っていることを本当に知らずに生きています。
王はまたしもべたちを遣わして、道でも、野原でも、出会う人は誰でも、悪人でも善人でもみんな連れて来なさいと言いました。すると結婚披露宴にお客さんがいっぱいになりました。
王は誰が来たのか見ようと結婚披露宴の宮殿の庭をことごとく歩き回りました。ところがその多くの人々の中に、礼服を着ずに来た人がいました。王はその人に「友よ、どうして礼服を着ていないのか。」と訊くと、その人は食べていた食べ物を口にくわえて何も言わずに見つめているだけでした。本当に困ったことです。荒唐無稽なことです。それで王はそばの者たちに命じて「この人の手足を縛って外の暗闇に追い出せ。そこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないなあ。」と言いました。
この時代の私たち皆は、天の国に行くに当たって歴史の宴に招かれて来た人たちです。
今は私たちが神様とイエス様を選んで生きなくてはいけません。イエス様のこの比喩の御言葉はその当世のときに成されたし、その後にも成されました。
王は神様をたとえたものであり、王の息子はイエス様をたとえたものです。イエス様をこの世に新郎のように遣わして、迎えた人は信仰的にその方の新婦の立場になって救われ、その方と一つの体になって天の国に行くようになり、この世で生きる間にもイエス様に仕え、信じて生きることをおっしゃったのです。
王がしもべたちを遣わして宴に来なさいと言ったけれど来なかったということは、イエス様が来られる前の旧約時代4000年間、神様を信じて生きることを願ったけれど信じなかったことをおっしゃったのです。しかし小さな都市くらいのイスラエルの中には神様を信じる人たちがいました。
また王がしもべたちを遣わしたことは、イエス様の天国の福音の宴に来なさいと神様のしもべたちを遣わしたけれど来なかったことをおっしゃったのです。その理由は、自分の生活の場へ行き、あるいは世の中に溺れて生きているためについて来ないし、あるいは関心がなくて来なかったのです。残りの人はイエス様に反対し、異端視し、排斥し、遣わした人たちを悪く言い、その中には殺す人たちまでいました。
イエス様の当世、信じない人たちは福音を蔑視し、反キリストたちだと言って迫害し、異端視し、捕まえて回り、捕まえると獄に閉じ込め、殺しまでしました。どれほど心が傷つき、心情が苦しかったでしょうか。王のような神様がご覧になってどうなさったでしょうか。
イエス様の当世、どれだけイエス様の福音に反対し、迫害したのかご存知ですか。イエス様の福音を伝えると無条件に捕まえて回りました。捕まえる人たちは特にその時代に神様の弟子たちが福音を伝えるたびに、ともすれば彼らに告げ口しました。ローマ人たちはたいてい軍隊でイスラエルを支配し治めました。ローマ人たちが行って聞いてみるとこれといった特別な問題になることではありませんでした。
招いた人たちが来ないので、街で出会う人は誰でも福音を伝えて来させました。悪人でも善人でもみんな来させました。結局、天の国の宴に多くの人たちで満ち溢れました。多くの群れがイエス様の御言葉を聞いて天の国の宴の歴史を成しました。
そのように福音を広げている途中でイエス様が十字架につけられて亡くなった後に、イスラエルはローマの兵士たちによって陥落するようになりました。イエス様の比喩の御言葉どおり、神様が軍隊を遣わして、福音を伝える人たちを迫害し殺した人たちのその悪い行いどおりに行なわれました。
王の息子の結婚披露宴に来た人たちは、悪人でも善人でもみんな追い出されませんでした。しかし礼服を着ていない人は縛られて追い出されました。宴会場に行った人なら、他のことはできなくても礼服だけは整えて着なくてはいけません。整えなければ皆が見て気分が悪いのです。礼儀のない行動です。
この時代も神様がイエス様を世の終わりの終末に遣わされ、再臨を控えて主を迎えさせるために恵みと聖霊の宴をしています。天の国の主を迎える結婚披露宴をしていらっしゃいます。救いの結婚披露宴、恵みの結婚披露宴、聖霊の結婚披露宴、主を新郎として迎える結婚披露宴を神様は進行していらっしゃいます。私たちの目に見えなくても主は私たちの中に現れて行き来していらっしゃいます。
主は人々を遣わして招いて来なさいと言いましたが来ませんでした。再び人々を遣わして、ちょうど王が「肥えた獣をほふって全てのものを用意しておいたから、結婚披露宴に来なさい。」と言ったように、「世の終わりの日だ。再臨の前だ。私が約束どおりに聖霊を与えるから来なさい。聖霊の熱い働きを通して、人間たちが願う全ての恵みを与えてあげるから来なさい。人生を変化させ生まれ変わらせる聖霊の働きをするから来なさい。霊魂が救われて天国に行くようにする永遠の命の御言葉が準備されているから来なさい。」とおっしゃっています。
神様はあちこちイエス様の新婦たちを見て回っていらっしゃいます。ちょうど王がきれいな礼服を着ていない人を見てそばの者たちに命じて引きずり出して外の暗闇に追い出すように、神様は礼服を着ていない人たちをご覧になって追い出されるでしょう。
では礼服はいったい何のことなのか、礼式場に来るお祝いの客たちが着る礼服と新婦たちが着る礼服は信仰人たちにとって何のことなのか話します。
神様の人々は信仰の服を着なくてはいけませんが、これは救われるにあたって絶対に必要な義の服です。
ヨハネの黙示録19章7−8節を見ると「汚れのない衣」は「正しい行い」だと言っています。
汚れのない行いの服を着なくてはいけません。主を信じて生きながら正しく善良な行いをしてこそ、光り輝く汚れのない麻布の衣を着るようになります。悔い改めて主の御心どおりに生きる人にこの服が着せられます。
天国の救いの結婚披露宴に来た人たちなら、誰でも悔い改めなくてはいけません。この世に生きながら神様を信じなくて今信じて神様を愛するようになったこと、神様より世の中を愛して異性で人をより愛して生きたこと、神様の法から外れて生きたこと等を全て間違いだったといって悔い改めてこそ、義人になって神霊で光り輝く白い服を自分の霊に着せてあげることができます。そうしてこそ天国に入って行く福音の宴で礼服を着ていないといって追い出されません。
主がこの世に現れて2000年間働きかけられて以降、今この時は私たちにとって最高の機会です。主は私たちを変化させようとして来られました。限りない御言葉で啓示して下さり、聖霊で働きかけ、しるしで働きかけていらっしゃいます。
引き上げは変化です。変化してこそ引き上げられます。変化しなくては天の国に行くことができません。御言葉を聞いてそのとおりに行なって変化しなくてはいけません。悔い改めることで変化し、聖霊を受けることで変化し、主の啓示を何度も聴いて実践することで変化しなくてはいけません。変化しなかった人たちは結局追い出されました。主は「幼子のように変化しなさい。そうしてこそ天国に行く。」とおっしゃいました。この世で生きても天国の生き方でなければ地獄の生き方をしています。早く彼らのところへ行って「神様が天国に来なさいと招いていらっしゃいます。早く来なさいとおっしゃっています。」と言って連れて来て、時代の御言葉を聞かせ、天国の生き方をさせてあげて下さい。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/〔本文〕
マタイによる福音書4:18−19
マタイによる福音書4:23−25
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
10月の最後の主日です。時間が秋の雲のように速く流れて行きますが、広い世の中でせわしく行ったり来たりしながら生きている皆さんはどれほど時間が速く過ぎるでしょうか。
それでも明け方から走っているから数時間より多く得て生きていても時間に追われるでしょう。最近は、夜は長く昼は短いから、あのこと、このこととやってみるとすぐに時間が過ぎて日が西の山に傾いて暗くなります。
今年もクリスマスの期間を除いてみると50日余り残っています。
今、私たちは2009年の終わりに立っています。この年の太陽が西の山にゆらめいています。
死亡へ行く命を導いて来るときは、伝道者の胸に聖霊の火が落ちます。
自分ひとりだけ最後の聖霊と恵みの宴会に参加しないで、必ず一人ずつ連れて来てチョンチョウし、心の門を開かせてあげ、時代を悟らせてあげ、その人と共に聖霊の宴会に参加しなくてはいけません。
主が育ててきた人に、主と共に会わなくてはいけません。
初めて信仰を持つとき主は伝道者にも、伝道される人にも奇跡を見せて下さいます。
まるで自分の願いを成就するように伝道することを主に求めてこそしるしが起こります。
信じますか。
門の外に出て行きさえすれば伝道すべき人です。
「主よ、今年一年だけ待って下さい。」と言いました。もう「50日余りだけ待って下さい。」です。聖霊の実を結ばなくてはいけないし、伝道して命の実も結ばなくてはいけません。
主に祈って主と一緒に行けばすぐに伝道します。命を救うのに何をぐるぐる遠まわしに言いますか。主の御言葉を伝えてあげれば良いでしょう。一人いても、千人いても、御言葉で溶けます。恋愛する人たちが動物の話でもして、食べる話でもして、哲学の話でもして、成功した話でもしていていいでしょうか。愛の話をすべきでしょう。
今は一人を10人、100人のように思うべき時です。毎日主に祈り、伝道のために祈り、そして主と一緒に伝道すべき時です。
主が用意しておかれた人たちがいます。探してみて下さい。探せば聖霊で感動を受けて主が働きかけられます。アマゾンの川辺の密林に暮らす原住民たちも伝道するのに、どうしてできませんか。
伝道すればしるしが起こります。聖霊を受けて伝道し、彼らも聖霊を受けさせてあげなくてはいけません。
ある教会で説教の前に50代のある男性がギターを持って恵み深く讃美を歌っていました。実に感動的でした。その人は讃美三曲を歌って自己紹介をしました。不治の病で6ヶ月しか生きられないという診断を受け、「これからこの世で何をすべきか、6ヶ月が過ぎれば死ぬから、ただ天国へ行くことにだけ気を遣おう。」とずっと祈りながら神様だけ讃美して暮らしたそうです。
ところが6ヶ月が過ぎても死なないので、死ぬ日まで伝道しようと決心したと証をし、死ぬ前の切実な話をしてあげながら、感動的な歌詞を付けて歌を作ってギターの演奏と共に讃美を歌って回ったそうです。自分の死ぬ日までいくらも残っていないから死の敷居であなたに永遠に残る救いを伝える、と言うと、人々が信じてうなずいたそうです。
「今月死ぬだろうか、来月死ぬだろうか。」と思ったけれど、ずっと伝道して回ってみると、現在さらに8年生きていると言いました。彼は、主が伝道する期間を与えたのだと思って讃美しながら伝道するから命を延長して下さったと感激し、恵み深い聖霊の熱い働きを味わわせました。彼は歌もたくさん作って歌いました。
命を救う価値がそれだけ大きいです。
人間は極に直面して生きてこそ変化します。このように伝道して命を生かしてあげれば、神様と主もしるしを起こして下さいます。みんな死の宣告を受けたと思って生きてこそ10倍も気が引き締まって行うようになります。
ハワイに女性勧士と長老の夫婦がいます。奥さんが肺がんで苦労して死に掛かっていたとき、牧師の祈りを受けて治ったと言いました。ところがその後にまたタバコを吸って健康管理を疎かにし、がんが再発して死んだと言いました。
九死に一生を得たのに、そこまでタバコをがまんできなくてまた吸ったなんて。二度とタバコを吸わないようにと繰り返し頼んで、死ぬまでタバコを吸えないようにしました。
皆さんの肉体も霊魂も主が死亡圏から生命圏へ導き出しておかれたのに、我慢できなくて再び死亡圏へ行ったらハワイの勧士のようになります。主が皆さんをサタン圏の死の落とし穴から出て来させて下さったから、どうか耐え忍んで主の仕事をしなくてはいけません。
タバコを止められなかったなんて。自分の命を生かすのにタバコが問題ですか。愛が問題ですか。お金が問題ですか。自分の癖と肉性が問題ですか。眠りが問題ですか。眠りを断つことができなくて明け方の時間をサタンに奪われ、お金のせいで命を奪われ、自分の主観のせいでイエス様を奪われ、世の中のために天国を奪われていいでしょうか。
タバコのせいで肺がんが再発して命を奪われたという話を聞いて、他人の話として聞かないで、自分もそうかとよく見てみて下さい。自分の性格、時分の癖、自分の肉性のせいで聖霊の恵みを奪われ、職務を奪われることになります。主が持って行かれるのです。みんな精神をぐっと引き締めてやらなくてはいけません。
健康をしっかり備えなくてはいけません。
新しく来た皆さんは「また誰かを通して神様がお呼びになるだろう。」と思わないで、今この時に自分の命を永遠に生かさなくてはいけません。この時に神様が最後の機会としてお呼びになったと思って勤勉に御言葉を聴いて熱心にやって下さい。
ある人は高校生のときに伝道されましたが、そのとききちんと信じられなくて出て行って結婚し、15年ぶりに再び戻って来たと言いました。神様がお呼びになったときにきちんと使命を果たせなければ、10年後、20年後、30年後に一度お呼びになります。良い歳月が過ぎてから来たのです。残念です。苦労してもこの世でよくやって天国に行かなくてはいけません。だから伝道された人たちは自分が自分の霊魂と肉体のために心と思いと命を尽くして主の御言葉を聴きながら立派に成し遂げなくてはいけません。
信じますか。
使命をもらって働く人たちはみんな大変ですが立派に成し遂げなくてはいけません。皆さんが住んでいる国で伝道して宣教することは天国です。ある宣教師は主の発令を受けてアマゾンの密林へ行って宣教します。言葉が通じない原住民たちの間でマツケムシを捕って食べながら宣教します。アナコンダ蛇にかまれたら死ぬこともあるし、スズメやバッタに食われながら、おびただしい蚊に食われながら宣教します。
毒虫にかまれて倒れながら、服も着ないで暮らす恐ろしい人たちと一緒に食べて寝ながら福音を伝える人たちのことを考えてみて下さい。あるときは原住民たちの目の色が変わると宣教師を捕って食べるそうです。そんな環境で言葉も通じないのに伝道して聖霊が満ちるようにしてあげ、救って天国に行かせてあげます。
そういう人たちのことを考えるとき、私たちは地上天国の環境で主の福音の使役を果たしているのです。数千年文明が遅れている人たちも福音を伝えると聞いて信じることで天国に行って暮らすのに、現代人たちは神様とイエス様を信じても自分の思い通りに生きるから、彼らにも劣る人たちだと言わざるを得ません。
私たちは同じ国で言葉が通じる人たちを伝道するからどれほど有利ですか。
肉体が死んでも霊魂を生かすには、神様と主を信じて生きなくてはいけません。
主は私たちに対する始めの愛を失っていらっしゃいません。今も前と同じです。
しかしある人は、自分が主に対する始めの愛を失って生きているから、主も失ったと思って心の勇気を失った人もいます。主はいつも始めの愛で接して下さるから、皆さんも主の前に始めと同じくして下さい。
皆さん聖霊の宴会に参加して聖霊を満ちるほど受けることを、主の御名で祝福します。
元記事はこちらですhttp://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111802
マタイによる福音書4:18−19
マタイによる福音書4:23−25
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
10月の最後の主日です。時間が秋の雲のように速く流れて行きますが、広い世の中でせわしく行ったり来たりしながら生きている皆さんはどれほど時間が速く過ぎるでしょうか。
それでも明け方から走っているから数時間より多く得て生きていても時間に追われるでしょう。最近は、夜は長く昼は短いから、あのこと、このこととやってみるとすぐに時間が過ぎて日が西の山に傾いて暗くなります。
今年もクリスマスの期間を除いてみると50日余り残っています。
今、私たちは2009年の終わりに立っています。この年の太陽が西の山にゆらめいています。
死亡へ行く命を導いて来るときは、伝道者の胸に聖霊の火が落ちます。
自分ひとりだけ最後の聖霊と恵みの宴会に参加しないで、必ず一人ずつ連れて来てチョンチョウし、心の門を開かせてあげ、時代を悟らせてあげ、その人と共に聖霊の宴会に参加しなくてはいけません。
主が育ててきた人に、主と共に会わなくてはいけません。
初めて信仰を持つとき主は伝道者にも、伝道される人にも奇跡を見せて下さいます。
まるで自分の願いを成就するように伝道することを主に求めてこそしるしが起こります。
信じますか。
門の外に出て行きさえすれば伝道すべき人です。
「主よ、今年一年だけ待って下さい。」と言いました。もう「50日余りだけ待って下さい。」です。聖霊の実を結ばなくてはいけないし、伝道して命の実も結ばなくてはいけません。
主に祈って主と一緒に行けばすぐに伝道します。命を救うのに何をぐるぐる遠まわしに言いますか。主の御言葉を伝えてあげれば良いでしょう。一人いても、千人いても、御言葉で溶けます。恋愛する人たちが動物の話でもして、食べる話でもして、哲学の話でもして、成功した話でもしていていいでしょうか。愛の話をすべきでしょう。
今は一人を10人、100人のように思うべき時です。毎日主に祈り、伝道のために祈り、そして主と一緒に伝道すべき時です。
主が用意しておかれた人たちがいます。探してみて下さい。探せば聖霊で感動を受けて主が働きかけられます。アマゾンの川辺の密林に暮らす原住民たちも伝道するのに、どうしてできませんか。
伝道すればしるしが起こります。聖霊を受けて伝道し、彼らも聖霊を受けさせてあげなくてはいけません。
ある教会で説教の前に50代のある男性がギターを持って恵み深く讃美を歌っていました。実に感動的でした。その人は讃美三曲を歌って自己紹介をしました。不治の病で6ヶ月しか生きられないという診断を受け、「これからこの世で何をすべきか、6ヶ月が過ぎれば死ぬから、ただ天国へ行くことにだけ気を遣おう。」とずっと祈りながら神様だけ讃美して暮らしたそうです。
ところが6ヶ月が過ぎても死なないので、死ぬ日まで伝道しようと決心したと証をし、死ぬ前の切実な話をしてあげながら、感動的な歌詞を付けて歌を作ってギターの演奏と共に讃美を歌って回ったそうです。自分の死ぬ日までいくらも残っていないから死の敷居であなたに永遠に残る救いを伝える、と言うと、人々が信じてうなずいたそうです。
「今月死ぬだろうか、来月死ぬだろうか。」と思ったけれど、ずっと伝道して回ってみると、現在さらに8年生きていると言いました。彼は、主が伝道する期間を与えたのだと思って讃美しながら伝道するから命を延長して下さったと感激し、恵み深い聖霊の熱い働きを味わわせました。彼は歌もたくさん作って歌いました。
命を救う価値がそれだけ大きいです。
人間は極に直面して生きてこそ変化します。このように伝道して命を生かしてあげれば、神様と主もしるしを起こして下さいます。みんな死の宣告を受けたと思って生きてこそ10倍も気が引き締まって行うようになります。
ハワイに女性勧士と長老の夫婦がいます。奥さんが肺がんで苦労して死に掛かっていたとき、牧師の祈りを受けて治ったと言いました。ところがその後にまたタバコを吸って健康管理を疎かにし、がんが再発して死んだと言いました。
九死に一生を得たのに、そこまでタバコをがまんできなくてまた吸ったなんて。二度とタバコを吸わないようにと繰り返し頼んで、死ぬまでタバコを吸えないようにしました。
皆さんの肉体も霊魂も主が死亡圏から生命圏へ導き出しておかれたのに、我慢できなくて再び死亡圏へ行ったらハワイの勧士のようになります。主が皆さんをサタン圏の死の落とし穴から出て来させて下さったから、どうか耐え忍んで主の仕事をしなくてはいけません。
タバコを止められなかったなんて。自分の命を生かすのにタバコが問題ですか。愛が問題ですか。お金が問題ですか。自分の癖と肉性が問題ですか。眠りが問題ですか。眠りを断つことができなくて明け方の時間をサタンに奪われ、お金のせいで命を奪われ、自分の主観のせいでイエス様を奪われ、世の中のために天国を奪われていいでしょうか。
タバコのせいで肺がんが再発して命を奪われたという話を聞いて、他人の話として聞かないで、自分もそうかとよく見てみて下さい。自分の性格、時分の癖、自分の肉性のせいで聖霊の恵みを奪われ、職務を奪われることになります。主が持って行かれるのです。みんな精神をぐっと引き締めてやらなくてはいけません。
健康をしっかり備えなくてはいけません。
新しく来た皆さんは「また誰かを通して神様がお呼びになるだろう。」と思わないで、今この時に自分の命を永遠に生かさなくてはいけません。この時に神様が最後の機会としてお呼びになったと思って勤勉に御言葉を聴いて熱心にやって下さい。
ある人は高校生のときに伝道されましたが、そのとききちんと信じられなくて出て行って結婚し、15年ぶりに再び戻って来たと言いました。神様がお呼びになったときにきちんと使命を果たせなければ、10年後、20年後、30年後に一度お呼びになります。良い歳月が過ぎてから来たのです。残念です。苦労してもこの世でよくやって天国に行かなくてはいけません。だから伝道された人たちは自分が自分の霊魂と肉体のために心と思いと命を尽くして主の御言葉を聴きながら立派に成し遂げなくてはいけません。
信じますか。
使命をもらって働く人たちはみんな大変ですが立派に成し遂げなくてはいけません。皆さんが住んでいる国で伝道して宣教することは天国です。ある宣教師は主の発令を受けてアマゾンの密林へ行って宣教します。言葉が通じない原住民たちの間でマツケムシを捕って食べながら宣教します。アナコンダ蛇にかまれたら死ぬこともあるし、スズメやバッタに食われながら、おびただしい蚊に食われながら宣教します。
毒虫にかまれて倒れながら、服も着ないで暮らす恐ろしい人たちと一緒に食べて寝ながら福音を伝える人たちのことを考えてみて下さい。あるときは原住民たちの目の色が変わると宣教師を捕って食べるそうです。そんな環境で言葉も通じないのに伝道して聖霊が満ちるようにしてあげ、救って天国に行かせてあげます。
そういう人たちのことを考えるとき、私たちは地上天国の環境で主の福音の使役を果たしているのです。数千年文明が遅れている人たちも福音を伝えると聞いて信じることで天国に行って暮らすのに、現代人たちは神様とイエス様を信じても自分の思い通りに生きるから、彼らにも劣る人たちだと言わざるを得ません。
私たちは同じ国で言葉が通じる人たちを伝道するからどれほど有利ですか。
肉体が死んでも霊魂を生かすには、神様と主を信じて生きなくてはいけません。
主は私たちに対する始めの愛を失っていらっしゃいません。今も前と同じです。
しかしある人は、自分が主に対する始めの愛を失って生きているから、主も失ったと思って心の勇気を失った人もいます。主はいつも始めの愛で接して下さるから、皆さんも主の前に始めと同じくして下さい。
皆さん聖霊の宴会に参加して聖霊を満ちるほど受けることを、主の御名で祝福します。
元記事はこちらですhttp://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111802主の名を呼びなさい
本文 使徒行伝2章21節
使徒行伝4章12節
使徒行伝2章21節 『そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』
使徒行伝4章12節 『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』
ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
今日、主が下さる御言葉は「誰でも私イエスを呼びなさい。そうすれば救いを得るだろう。」です。
世の中の人々を見渡します。彼らは誰を呼びながら生きていますか。誰を呼びながら救われようとし、誰を呼びながら成功しようとしていますか。どうして全能者、神様と主を呼ばずに他の人や偶像の神を呼んで天の国、天国に行くことができるでしょうか。
イエス様が遣わされた使命者たちに従って主の前に来て、主を信じて救われることは、理致に合う話ですが、自分が救うと言ったり、まるで自分が天国の主人として天国に入らせるかのように、自分に仕えなさいと言う人たちは全て人間偶像です。天下にイエス・キリストの他には神様が時代を救う救い主としてお遣わしになりませんでした。
騙されないで毎日主の名を呼ばなくてはいけません。しかし主を、しもべを呼ぶように、使いを呼ぶように、必要なときだけ呼ばないで、威厳と尊敬と愛で仰ぎ見て呼ばなくてはいけません。助けのために、救いのために呼ぶこともありますが、さらには主の心情を慰めて差し上げ、力になって差し上げ、頼りにならなくてはいけないのです。主の心情を知る人は主が「真に愛する人」だとおっしゃいました。
主の名を呼ぶことも習慣になってこそ呼びます。習慣にならなければ、ある問題があるときだけ求めます。主を呼ぶ理由もいろいろあります。救いのために呼び、愛するから呼び、辛いと言って呼び、好きだと言って呼び、助けて下さいと言って呼び、感謝しますと言って呼び、何かを尋ねるときに呼び、祈るときに呼びます。このようにみんな良い習慣になって、精神と霊魂に良い体質が身についてこそ、ことごとくいつも主を呼ぶのです。
呼ぶときに自分の事情を主に詳しく告げなくてはいけません。また一つ一つ悔い改めてこそはばかることがありません。サタンが詰問できないようにきれいに告げなくてはいけません。思い出せないなら、聖霊を受けて深く祈って聖霊の感動を受けて下さい。そうすれば霊魂、心の中にあることまで思い出されるので、そのときに告げるのです。
今、私たちは世の終わりに立っています。明日のことを分からないから毎日数千回ずつ主を呼ぶべき時です。生活の中でもいつも呼んでサタンが来れないようにしなくてはいけません。エホバに会える時に求めなさいとおっしゃったから、主が近く来られた、まさにこの時に呼び求めなくてはいけません。主は呼ぶとおりにその言葉をお聞きになり、その行いと姿を全てご覧になっています。
ところで人々はこの時代がどの地点まで来たのか話しても、その時だけです。祈り続けて主の心情を受け、聖霊で熱くしなくてはいけません。聖霊が心を感動させるときに動いて行動し、昔の位置の生き方をさっと捨てて離れなくてはいけません。
将来に押し寄せて来る患難を考えてみて下さい。恐ろしく想像もつかない、聖書で言ったあらゆる患難が私たちの前に迫って来ています。まるで幼いおちびちゃんたちが海辺で夢中になって遊んでいるときに、数百メートル先から40〜50mの高さで波が押し寄せて来るのを見ているのと同じです。
原子爆弾が爆発する一日前にさえ分かっていたなら、誰がそこにいたでしょうか。ある車が事故に遭う車だということを分かっていたなら、誰がその車に乗ったでしょうか。墜落する飛行機であると分かっていたなら、誰がその飛行機に乗ったでしょうか。奇岩絶壁から落ちるということを分かっていたなら、誰がその日、登山に行ったでしょうか。ノアの時代にあのようになると分かっていたなら、船に乗らない人がいたでしょうか。ロトの時代にあのようになると分かっていたなら、ロトと一緒にソドムとゴモラの町を抜け出さない人がいたでしょうか。
ただ避け所になられるエホバ神様と主を心から呼んで避けなくてはいけません。この時代の人々はノアやロトの時代と同じく患難の前日までも、その日その時間までも自分がしていたことをそのままやっているうちにその日を迎えることになるでしょう。
ところで、ある国は主権者の主権と統率に縛られて信仰の自由がないため、思うままに神様とイエス様を信じられずに生きています。それでは無神論者、独裁者、悪い主権者たちの下で生きている人たちは余りにも無念でかわいそうなので、「どうして神様は彼らを50〜60年以上そのままにしておかれるのだろうか。」「全知全能な神様が『彼らを信じないで私を信じなさい』と一言だけおっしゃればみんなひっくり返るだろうに、どうしてそのようになさらずにやきもきなさっているのだろうか。」と考えが深くなりました。
こんな考えが結局人々に「神様はいない」と言ったり、あるいはことを解決してくれる人を見て「見える人が最高だ」と言い、「大国が力があり、主権者が能力者だ」と考えさせるのだと理解できました。自分が困難なときに神様を呼び求めたけれど助けてくれなかったから信じなくなった人たちもたくさんいます。
しかし神様とイエス様を信じるのは、ある困難な問題を解決してもらうためより、霊魂が救われるためであり、これが根本です。神様の全知全能さは、ただ神様の御心のための全知全能であって、人間が願う意向のための全知全能ではない、と主は話して下さいました。人間が願うことばかりをしてくれていたら神様の御心を成すことができません。
神様は人間が自ら信じるように責任をお与えになったし、また神様を信じなくて罪を負ったらその罪の代価を受けることになり、結局その罪の代価によって永遠な苦痛の世界に行くことになります。
それなら悪い主権者の下に生きている弱者たちは彼らと一緒に死亡の道へ行かなくては行けないから本当に無念ではないでしょうか。父の罪によって子供たちも一緒に苦痛を受けることになり、民族の権力者と主権者たちの罪によって民たちも一緒に苦痛を受けて地獄の生き方をすることになるのです。
だから今日の御言葉で「神様を呼びなさい」と言ったのです。主権者たちや強者たちを通して受ける苦痛が悔しいから、神様を呼べば解決してあげようとおっしゃいました。北朝鮮も隠れて信仰生活をしています。中国も宗教の自由がないようですが、福音を伝える人たちと教会があって信じる人たちは自分が望めばみんな信じています。
今このとき私たち皆は主の名を呼ばなくてはいけません。最後まで呼ぶ人は万事うまくいくことを信じます。主を呼べば霊肉で必ず願っていることが解決されます。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 使徒行伝2章21節
使徒行伝4章12節
使徒行伝2章21節 『そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』
使徒行伝4章12節 『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』
ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
今日、主が下さる御言葉は「誰でも私イエスを呼びなさい。そうすれば救いを得るだろう。」です。
世の中の人々を見渡します。彼らは誰を呼びながら生きていますか。誰を呼びながら救われようとし、誰を呼びながら成功しようとしていますか。どうして全能者、神様と主を呼ばずに他の人や偶像の神を呼んで天の国、天国に行くことができるでしょうか。
イエス様が遣わされた使命者たちに従って主の前に来て、主を信じて救われることは、理致に合う話ですが、自分が救うと言ったり、まるで自分が天国の主人として天国に入らせるかのように、自分に仕えなさいと言う人たちは全て人間偶像です。天下にイエス・キリストの他には神様が時代を救う救い主としてお遣わしになりませんでした。
騙されないで毎日主の名を呼ばなくてはいけません。しかし主を、しもべを呼ぶように、使いを呼ぶように、必要なときだけ呼ばないで、威厳と尊敬と愛で仰ぎ見て呼ばなくてはいけません。助けのために、救いのために呼ぶこともありますが、さらには主の心情を慰めて差し上げ、力になって差し上げ、頼りにならなくてはいけないのです。主の心情を知る人は主が「真に愛する人」だとおっしゃいました。
主の名を呼ぶことも習慣になってこそ呼びます。習慣にならなければ、ある問題があるときだけ求めます。主を呼ぶ理由もいろいろあります。救いのために呼び、愛するから呼び、辛いと言って呼び、好きだと言って呼び、助けて下さいと言って呼び、感謝しますと言って呼び、何かを尋ねるときに呼び、祈るときに呼びます。このようにみんな良い習慣になって、精神と霊魂に良い体質が身についてこそ、ことごとくいつも主を呼ぶのです。
呼ぶときに自分の事情を主に詳しく告げなくてはいけません。また一つ一つ悔い改めてこそはばかることがありません。サタンが詰問できないようにきれいに告げなくてはいけません。思い出せないなら、聖霊を受けて深く祈って聖霊の感動を受けて下さい。そうすれば霊魂、心の中にあることまで思い出されるので、そのときに告げるのです。
今、私たちは世の終わりに立っています。明日のことを分からないから毎日数千回ずつ主を呼ぶべき時です。生活の中でもいつも呼んでサタンが来れないようにしなくてはいけません。エホバに会える時に求めなさいとおっしゃったから、主が近く来られた、まさにこの時に呼び求めなくてはいけません。主は呼ぶとおりにその言葉をお聞きになり、その行いと姿を全てご覧になっています。
ところで人々はこの時代がどの地点まで来たのか話しても、その時だけです。祈り続けて主の心情を受け、聖霊で熱くしなくてはいけません。聖霊が心を感動させるときに動いて行動し、昔の位置の生き方をさっと捨てて離れなくてはいけません。
将来に押し寄せて来る患難を考えてみて下さい。恐ろしく想像もつかない、聖書で言ったあらゆる患難が私たちの前に迫って来ています。まるで幼いおちびちゃんたちが海辺で夢中になって遊んでいるときに、数百メートル先から40〜50mの高さで波が押し寄せて来るのを見ているのと同じです。
原子爆弾が爆発する一日前にさえ分かっていたなら、誰がそこにいたでしょうか。ある車が事故に遭う車だということを分かっていたなら、誰がその車に乗ったでしょうか。墜落する飛行機であると分かっていたなら、誰がその飛行機に乗ったでしょうか。奇岩絶壁から落ちるということを分かっていたなら、誰がその日、登山に行ったでしょうか。ノアの時代にあのようになると分かっていたなら、船に乗らない人がいたでしょうか。ロトの時代にあのようになると分かっていたなら、ロトと一緒にソドムとゴモラの町を抜け出さない人がいたでしょうか。
ただ避け所になられるエホバ神様と主を心から呼んで避けなくてはいけません。この時代の人々はノアやロトの時代と同じく患難の前日までも、その日その時間までも自分がしていたことをそのままやっているうちにその日を迎えることになるでしょう。
ところで、ある国は主権者の主権と統率に縛られて信仰の自由がないため、思うままに神様とイエス様を信じられずに生きています。それでは無神論者、独裁者、悪い主権者たちの下で生きている人たちは余りにも無念でかわいそうなので、「どうして神様は彼らを50〜60年以上そのままにしておかれるのだろうか。」「全知全能な神様が『彼らを信じないで私を信じなさい』と一言だけおっしゃればみんなひっくり返るだろうに、どうしてそのようになさらずにやきもきなさっているのだろうか。」と考えが深くなりました。
こんな考えが結局人々に「神様はいない」と言ったり、あるいはことを解決してくれる人を見て「見える人が最高だ」と言い、「大国が力があり、主権者が能力者だ」と考えさせるのだと理解できました。自分が困難なときに神様を呼び求めたけれど助けてくれなかったから信じなくなった人たちもたくさんいます。
しかし神様とイエス様を信じるのは、ある困難な問題を解決してもらうためより、霊魂が救われるためであり、これが根本です。神様の全知全能さは、ただ神様の御心のための全知全能であって、人間が願う意向のための全知全能ではない、と主は話して下さいました。人間が願うことばかりをしてくれていたら神様の御心を成すことができません。
神様は人間が自ら信じるように責任をお与えになったし、また神様を信じなくて罪を負ったらその罪の代価を受けることになり、結局その罪の代価によって永遠な苦痛の世界に行くことになります。
それなら悪い主権者の下に生きている弱者たちは彼らと一緒に死亡の道へ行かなくては行けないから本当に無念ではないでしょうか。父の罪によって子供たちも一緒に苦痛を受けることになり、民族の権力者と主権者たちの罪によって民たちも一緒に苦痛を受けて地獄の生き方をすることになるのです。
だから今日の御言葉で「神様を呼びなさい」と言ったのです。主権者たちや強者たちを通して受ける苦痛が悔しいから、神様を呼べば解決してあげようとおっしゃいました。北朝鮮も隠れて信仰生活をしています。中国も宗教の自由がないようですが、福音を伝える人たちと教会があって信じる人たちは自分が望めばみんな信じています。
今このとき私たち皆は主の名を呼ばなくてはいけません。最後まで呼ぶ人は万事うまくいくことを信じます。主を呼べば霊肉で必ず願っていることが解決されます。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/〔本文〕
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。
今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。
人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。
この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。
神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。
今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。
元記事はこちらですhttp://http://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111754
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。
今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。
人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。
この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。
神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。
今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。
元記事はこちらですhttp://http://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=1117541、神様と聖霊様とイエス様が現れるとしるしが起こる
2、見える人を中心にせず、自分の肉体と考えを中心にせず、自分の霊がただ主と相談して行ないなさい
本文 ローマ人への手紙8章5−11節
ヨハネによる福音書6章63節
ヨハネによる福音書11章43−44節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。今日初めて来た人たちと、教会に来て間もない人たちと、早く来た全ての人たちは、本当に神様と主が現れることを願いますか。その出会いを自分の人生の最高の希望と思いますか。一国の王に会うのも難しいのに、救い主イエス様に会うことになるならどれほど幸せな人でしょうか。
神様と聖霊様と主は全ての人々に会って心を話したいと思って一日を千年のようにやきもきして待っていらっしゃり、条件を備えた人をお探しになっています。それほど人々に会うことを願っていらっしゃるのになぜ皆に現れないのでしょうか。備えるべきものを備えて条件ができた人に現れます。今この時間にも御言葉で現れて前に来ていらっしゃいます。そして御言葉を送って私たちがどのように聞くのかご覧になっています。
主が各自に現れる状況はいろいろです。人間が切実に求めるときに現れ、ある困難に遭ったときに現れ、愛するときに現れ、行事のときに現れ、栄光を帰すときに現れ、礼拝を捧げるときに現れ、孤独でわびしい時に現れ、病気にかかって苦痛に遭うときに現れます。そして神様も、主も、聖霊様も、時に従って必要なときに現れます。
主は条件ができた人をお探しになっています。主は摂理の全ての人たちに、各教会に、各民族に、各個人に、話したいことを話して下さり、その心情と心を話そうと、祈りの条件、悔い改めの条件、きれいな条件、主の愛の条件ができた人をお探しになっています。
主に会うには「主が願われる条件を立てて主を呼んで求めなくてはいけない。」と言いました。主に会った人たちの話を聞いてみると、長い間条件を立ててきた人たちでした。ある人は主がその人に必ず会ってその人を通して仕事をしなくてはいけないから会って下さることもあります。
ある人は主のやきもきする心情を分かってあげ、その御言葉をはっきりと悟って切実に祈って主を求めると、主が「うん。あなたは心を分かってくれるんだ。あなたが私の心と心情を分かってくれるから私の心があなたの心と一体になってあなたのところに来た。」とおっしゃって、「あれほどにも御言葉を通して私の心を話してあげ、啓示者たちを通して話してあげたのに、人々は私の心を分かっていない。真に悟って分かっているのか私は見てみれば全て分かる。真に私の心情を分かってくれてこそその人と対話をすることができる。」とおっしゃったそうです。そしてこれからどのようにしなさいと教えて行かれたそうです。
主の心情は数十種類、数百種類に現れます。また数十種類、数百種類に主が話そうとされることがあります。主は該当するものを備えた人に現れてそれについて話して下さいます。
主を信じながらも、主が自分をどれほど愛しているのか分かっていません。主を信じない人たちは、自分が信じないから主が自分をそんなに愛していらっしゃると考えられません。主はご自身の体を与えて私たちを買いました。だからご自身の体のように全ての人々を愛していらっしゃるということを知らなくてはいけません。
主はご自身の体を与えて万民のために代わりに死んで下さったために肉がないので、ご自身の体を与えて買った肉体を使って働きかけられます。だから私たちの肉と霊をどれほど尊く思って愛していらっしゃることでしょうか。一度考えて分からなければ二度、三度考えながら、主が私たちをどれほど尊く思っていらっしゃるのかその心情を悟らなくてはいけません。
主がお使いになる体をサタンが引っ張って行き、惑わして行っても、人々は分からずに生きています。また神様と主が天国を予定してみんな来るようになさったのに、知らないから自分の思い通りに生き、知らないから偶像に仕えて生きています。それによって死んだ後に良い世界に行くと思って、この世に生きるときも大きな祝福を受けると思って生きています。また暫しいて離れるこの世でもがき、そこに全ての人生を投資し、あらゆる物質を投資しながら生きています。主がこれをご覧になって本当にやきもきしながら見ているのに分からずに生きています。
10000分の1%も永遠な地獄に行って苦痛を受ける必要はありません。サタンと悪い霊たちの惑わしと主管を受けて肉体がそういう方向へ生きてその霊が地獄へ行く人たちが多すぎて、主は一日にも雲のように多くの人々が地獄へ落ちるのをご覧になっているそうです。
このように主はやきもきする心と愛の心で人々に接し、私のところに来なさいとおっしゃっているのに、人々はその心情を知らずに生きています。自分が主にして差し上げたこともないし、善良なことをしたこともないし、また主を信じても特別な存在ではないのに主が本当に自分を愛して好きだと言うから理解ができません。
摂理人たちもこれを再び悟って伝道し、新しく来た人たちもこれを悟るようにしてあげなくてはいけません。だから主が私たちを愛されるように私たちも主を愛さなくてはいけません。そうしてこそ主が訪ねて来て対話なさいます。
先生も神様と主の歴史を30年間広げてきながら、全ての人々をそれほどにも尊く接して愛で接してあげました。その時、人々は、自分のような人を何を見てそんなに尊く接して愛で接するのか分からないと言って、むしろ負担だと言って遠ざけたりもし、異性的に考えていると言って誤解し、自分なりに他の人たちに話もして噂を立てたりもしました。
ある時はある女性が御言葉を学んで修了した後に私のところに挨拶しに来ました。美しい顔にハエがくっ付いていたので私の手が伸びたら、その女性は「どうしてこんなことするんですか。こんなことしないで下さい。」と言いました。ハエが逃げて行ったから証人もいませんでした。汚いクソバエがくっ付いていたから追い払ってあげようと手が伸びたと言うと、その女性は自分の主観で考えました。その後、近くでは見えませんでした。下品なハエのせいで一人の命が誤解しました。ハエのせいで私の手が伸びたのに、誤解したのです。そういうことが多いからうまくやらなくてはいけません。
先生がよく接してあげるとある人は「感謝します。私も神様と主を愛して先生も愛します。」と言いながら青春が老いるのも気づかないほどに生きてきました。ある人はよく分からなくて「かっこいいしきれいだから愛するんだろう。」と考えたりもしたし、ある人は「私を摂理で使おうとして尊く思うんだ。」と考えました。ある人は「伝道して信者が多くなるようにしようということだから、当然だ。」と考えたりもしました。
これまで先生は食べる物もまともに食べないで、着る物もまともに着ないで、あらゆる迫害と無念な思いと濡れ衣を着せられながらも、じっと我慢して、ひたすら尊く思ってあげ、愛してあげました。主が血で代価を払って代わりに死んでくれて、天国へ行くように予定しておかれたから、永遠に歯軋りしてあらゆる苦痛を受ける、サタンと悪い霊たちが暮らす地獄に行かないで、地上で主を信じて愛し、主の肉体になって祝福されて生きて、天国に来なさいと、主は先生を通してそのように愛して下さり、気を遣って下さり、事故や害を被らないよう守って下さったのです。もう悟りましたか。
人の美しさも、名誉も、毎日虚しくあの空の浮雲のように流れて行きます。主は私たちの肉のためにそのように愛して下さるのではありません。永遠に存在する私たちの霊のためにそのように愛されます。私たちの霊のためにそのように犠牲になり、愛されるのです。私たちの霊が地獄に行くかと思って主がそのようになさっているから、私たちも霊のために悟って生きなくてはいけません。これだけ悟って主に告白しても主は「私の心情を分かっている。」とおっしゃって直ちに来られます。
この時間以降、悟って心で告白してみて下さい。主から「そうだ。」と一言でも答えが来るでしょう。これを分からずに誤解して摂理の懐を離れて行った人たちと、特に関心なくついて来ていた人たちの最後がどのようになったのか見て下さい。またついて来たとしてもこのような根本を知らずについて来た人は成長しませんでした。
主は啓示者たちが心情を分かってくれるから「私の心情を知らずに肉でだけ信仰生活をしていて、引き上げられず、地上に残って患難と迫害を受けて地獄へ行けば、その時行って歯軋りしながら後悔するだろう。メシアである私も、この世の私の時が終われば背を向ける。私が背を向けた後にはいくら呼んでも見ることができない。各自に十分に機会を与えたのにやらなくて終わったのだ。だから呼んでも何の役に立つだろうか。」とおっしゃったそうです。
肉体が老いて年をとったからと言って気を緩めないで下さい。主は霊をご覧になってもっと働きかけられます。霊は非常に若いです。
人々はなぜ全知全能な主が自分をそんなにも愛するのか分からずに生きています。分からないことも罪です。親や自分の恋人が、自分が何かをしてあげたから、功績があるから愛しますか。何の功績がなくても親や恋人は愛で生んで育て、愛するものです。神様も主もそうです。神様と主が下さる愛を受けられなくて、後になって後悔し、滅亡するこの世の愛を受けてはいけません。
神様は全ての人々を子供として選んでおかれ、地獄に行かないで天国に来て生きなさいと愛して下さいます。
主が「私の肉体を渡してあなたがたのために代わりに死んであげたから、あなたがたは私のものであり、私の新婦たちだ。サタンと悪魔と悪い人たちが私を十字架で殺したから、私が伝えようとしていた天国の福音を伝えられなかった。だから私の言葉をよく聴いて伝えてあげ、サタンを滅ぼし、悪人を悔い改めさせながら、この世で祝福されて生きて、天国に来て永遠に喜びで生きなさい。この世で私の仕事をしていてやりたいことができず、享受できなかったことを、天国に来てすべてもらい、享受しなさい。」とおっしゃいます。
主はそのまま放っておいたら特に価値もない人々をそれほどにも愛していらっしゃいます。この全ての御言葉は主の啓示の御言葉で、説教で解いて伝えてあげているのです。
ある啓示者に主が啓示なさった内容を見ました。その人に罪があってサタンが引っ張って行こうと詰問したそうです。主がご覧になって、そのままでは引っ張って行かれるのでご覧になりながらその人にどのようになさったのか、啓示の内容を送ってきました。
その人が悔い改めをしましたが、悔い改めるべき期間までに全てできなかったのです。だからサタンが少し残っているその罪の条件によって何が何でも引っ張って行こうとしたそうです。そのとき主がサタンに「サタンよ。そのままにしておけ。そこに置いておけ。その残った罪は私が責任を負う。」とおっしゃり、その罪をまた引き受けて代わりに十字架の苦痛をお受けになったそうです。
罪を悔い改めてこそ主が代わりに十字架を負われません。だから主は「どうか自分の罪を悔い改めなさい。私の苦痛のために赦してあげる。」とおっしゃいます。主は生きていたとき肉的に十字架を負われ、死んだ後にも私たちの霊を生かそうとして霊で十字架を負ってまた苦痛を受けていらっしゃいます。主を愛するなら罪を悔い改めてその心情を分かってあげて生きなくてはいけません。そういう人は主に十字架を負わせない人で、主がこの上なく愛されお喜びになります。
主はおっしゃいました。
「私と通じる人は自分の考えと主観、肉性を全て捨てた人だ。私は幼子のような人たちのところに行く。天国は肉性があると行けない。肉性のせいで天国に行けなかったらどんなに無念だろうか。自分の肉性を葬りなさい。そうしなくてはいけない。霊で考えてこそ私と通じる。私を優先権にしなさいと言ったのに教役者たちも、また教団に立てた人たちも、各機関も、まだ自分の考えを優先権にして決定している。私の意見と私の考えを訊いてみなさい。一時間も二時間も祈って私の答えを聞かずにどうして自分の肉の考えで決定するのか。良い意見は全て受け入れてまとめて報告し、決裁を受けて行ないなさい。」とおっしゃいました。
それで先生は主に、肉に属した人たちが分からないから、これから霊に属した人たちを立てて主がその人に啓示なさって相談して決定させようと相談しました。
主は「それでは、肉的な人たちの結果がどうなるだろうか。直して霊に属した人になってこそ天国に行くのではないか。肉が霊の考えに新しく変わらなくてはいけないのではないか。一年だけ待って下さいと言ったのではないか。自分が全ての肉性と肉に属した考えを殺し、霊に属した考えをして私イエスの考えをしなくてはいけない。誰でも個人も、教団も、各教会も、各部署も、全世界みんな、集まって会議をするならそのようにしなくてはいけない。」とおっしゃいました。
主はこれを啓示者たちを通して指摘したりもなさいました。みんな主を優先権にするという概念だけ持っていて、決心だけしているからです。実際に行なうときは見たり聞いたりすることに考えが向かって、考えと自分の肉性で行なっています。こういう人は自分優先の人です。霊の考えを持って主の考えで絶対に主最優先にしなくてはいけません。
主は「祈りだけが対話か?明け方に私と対話した人は昼にも私と対話すべき人だ。」とおっしゃいました。主は啓示者たちに「私は全世界の人々がすることをすべて見ている。」とおっしゃいました。天使も全て記録します。
ある人は「世の中に主を求める人たちが数え切れないほどたくさんいるのに、明け方のその短い時間に主が何人も直接会って下さるのか。」と言います。啓示を受ける人たちがそれぞれ啓示を受けた時間を書いて先生に送りましたが、ほとんど同じ時間に受けた人たちが多いです。
主が下さった啓示を記録すると、ある人は30分かかり、ある人は2時間かかったりもします。手紙を少し長く書くときも明け方まで校正して再び補充して書くと本当に時間がたくさんかかるでしょう。
先生もこの御言葉を朝から書いていますが、今、午後5時近くになっています。主に、土曜日の午前に書き終えると大きなことを言いました。笑いながら、午前に御言葉を書き終え、午後には校正し、残りの時間は手紙を書いて決裁すればいいと言いました。主はすでに全てご存知で、できないとおっしゃいました。良くおっしゃっただけです。しかしまだまだです。祈りの時間にも祈らなくてはいけないから、明日の午後までにしてこそ校正まで終わります。説教も一冊の短い本です。
啓示を受ける時間について話したでしょう。同じ時間に主が下さった啓示が同じ内容であれば、数百人でも数千人でも同じ時間に受けることができますが、その内容を見るとそれぞれ異なって啓示して下さいました。いつか、同じ日にち、同じ時間に啓示を受けた人が3人くらい出て来て話してみて下さい。同じ時間に受けた啓示なのに不思議に内容は異なります。
主は「百万人でも一千万人でも条件ができればそれぞれ同じ時間に啓示してやることができる。」と言いました。他の霊たちは主が使命を下さればある程度はしますが主のようにはできません。しかし主は霊でいらっしゃり、全知全能な三位体なのでなさいます。だから摂理人たちが多いからと言って同じ明け方の時間に主が自分に啓示して下さることはできないと心配しないで下さい。その心配も全て肉の考えです。
肉の考えは霊の考えとてんで違います。なぜ違うでしょうか。霊界と肉界も違い、霊と肉のその能力自体が違います。肉は自分の体では空中を巡ることはできませんが、霊は思い通りに行き来します。肉の目ではわずかな距離しか見えませんが、霊の目では天の国まで見て地球世界を貫いて見ます。だから霊と肉は法も、生き方も、理致も違います。
肉性は神様と主の仕事を妨害すると言いました。この御言葉を聞いて実践すれば霊的な人たちになって、主が勝てる人たちが本当に多くなるでしょう。肉性を全て殺して葬らなければなりません。自分の使命にだけ溺れないで、心から主を呼びながら深い対話を願い求めなくてはいけません。まずやきもきしている主の心を分かって接しなくてはいけません。
主の平安が満ちることを祈ります。
今は私たちの神様の能力と、主の愛とその深い御言葉と、聖霊の熱い感動、感化、御働きが、御言葉を聴く全ての人たちに満ちることを、聖父、聖子、聖霊の御名によって祝福します。アァメン。
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2、見える人を中心にせず、自分の肉体と考えを中心にせず、自分の霊がただ主と相談して行ないなさい
本文 ローマ人への手紙8章5−11節
ヨハネによる福音書6章63節
ヨハネによる福音書11章43−44節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。今日初めて来た人たちと、教会に来て間もない人たちと、早く来た全ての人たちは、本当に神様と主が現れることを願いますか。その出会いを自分の人生の最高の希望と思いますか。一国の王に会うのも難しいのに、救い主イエス様に会うことになるならどれほど幸せな人でしょうか。
神様と聖霊様と主は全ての人々に会って心を話したいと思って一日を千年のようにやきもきして待っていらっしゃり、条件を備えた人をお探しになっています。それほど人々に会うことを願っていらっしゃるのになぜ皆に現れないのでしょうか。備えるべきものを備えて条件ができた人に現れます。今この時間にも御言葉で現れて前に来ていらっしゃいます。そして御言葉を送って私たちがどのように聞くのかご覧になっています。
主が各自に現れる状況はいろいろです。人間が切実に求めるときに現れ、ある困難に遭ったときに現れ、愛するときに現れ、行事のときに現れ、栄光を帰すときに現れ、礼拝を捧げるときに現れ、孤独でわびしい時に現れ、病気にかかって苦痛に遭うときに現れます。そして神様も、主も、聖霊様も、時に従って必要なときに現れます。
主は条件ができた人をお探しになっています。主は摂理の全ての人たちに、各教会に、各民族に、各個人に、話したいことを話して下さり、その心情と心を話そうと、祈りの条件、悔い改めの条件、きれいな条件、主の愛の条件ができた人をお探しになっています。
主に会うには「主が願われる条件を立てて主を呼んで求めなくてはいけない。」と言いました。主に会った人たちの話を聞いてみると、長い間条件を立ててきた人たちでした。ある人は主がその人に必ず会ってその人を通して仕事をしなくてはいけないから会って下さることもあります。
ある人は主のやきもきする心情を分かってあげ、その御言葉をはっきりと悟って切実に祈って主を求めると、主が「うん。あなたは心を分かってくれるんだ。あなたが私の心と心情を分かってくれるから私の心があなたの心と一体になってあなたのところに来た。」とおっしゃって、「あれほどにも御言葉を通して私の心を話してあげ、啓示者たちを通して話してあげたのに、人々は私の心を分かっていない。真に悟って分かっているのか私は見てみれば全て分かる。真に私の心情を分かってくれてこそその人と対話をすることができる。」とおっしゃったそうです。そしてこれからどのようにしなさいと教えて行かれたそうです。
主の心情は数十種類、数百種類に現れます。また数十種類、数百種類に主が話そうとされることがあります。主は該当するものを備えた人に現れてそれについて話して下さいます。
主を信じながらも、主が自分をどれほど愛しているのか分かっていません。主を信じない人たちは、自分が信じないから主が自分をそんなに愛していらっしゃると考えられません。主はご自身の体を与えて私たちを買いました。だからご自身の体のように全ての人々を愛していらっしゃるということを知らなくてはいけません。
主はご自身の体を与えて万民のために代わりに死んで下さったために肉がないので、ご自身の体を与えて買った肉体を使って働きかけられます。だから私たちの肉と霊をどれほど尊く思って愛していらっしゃることでしょうか。一度考えて分からなければ二度、三度考えながら、主が私たちをどれほど尊く思っていらっしゃるのかその心情を悟らなくてはいけません。
主がお使いになる体をサタンが引っ張って行き、惑わして行っても、人々は分からずに生きています。また神様と主が天国を予定してみんな来るようになさったのに、知らないから自分の思い通りに生き、知らないから偶像に仕えて生きています。それによって死んだ後に良い世界に行くと思って、この世に生きるときも大きな祝福を受けると思って生きています。また暫しいて離れるこの世でもがき、そこに全ての人生を投資し、あらゆる物質を投資しながら生きています。主がこれをご覧になって本当にやきもきしながら見ているのに分からずに生きています。
10000分の1%も永遠な地獄に行って苦痛を受ける必要はありません。サタンと悪い霊たちの惑わしと主管を受けて肉体がそういう方向へ生きてその霊が地獄へ行く人たちが多すぎて、主は一日にも雲のように多くの人々が地獄へ落ちるのをご覧になっているそうです。
このように主はやきもきする心と愛の心で人々に接し、私のところに来なさいとおっしゃっているのに、人々はその心情を知らずに生きています。自分が主にして差し上げたこともないし、善良なことをしたこともないし、また主を信じても特別な存在ではないのに主が本当に自分を愛して好きだと言うから理解ができません。
摂理人たちもこれを再び悟って伝道し、新しく来た人たちもこれを悟るようにしてあげなくてはいけません。だから主が私たちを愛されるように私たちも主を愛さなくてはいけません。そうしてこそ主が訪ねて来て対話なさいます。
先生も神様と主の歴史を30年間広げてきながら、全ての人々をそれほどにも尊く接して愛で接してあげました。その時、人々は、自分のような人を何を見てそんなに尊く接して愛で接するのか分からないと言って、むしろ負担だと言って遠ざけたりもし、異性的に考えていると言って誤解し、自分なりに他の人たちに話もして噂を立てたりもしました。
ある時はある女性が御言葉を学んで修了した後に私のところに挨拶しに来ました。美しい顔にハエがくっ付いていたので私の手が伸びたら、その女性は「どうしてこんなことするんですか。こんなことしないで下さい。」と言いました。ハエが逃げて行ったから証人もいませんでした。汚いクソバエがくっ付いていたから追い払ってあげようと手が伸びたと言うと、その女性は自分の主観で考えました。その後、近くでは見えませんでした。下品なハエのせいで一人の命が誤解しました。ハエのせいで私の手が伸びたのに、誤解したのです。そういうことが多いからうまくやらなくてはいけません。
先生がよく接してあげるとある人は「感謝します。私も神様と主を愛して先生も愛します。」と言いながら青春が老いるのも気づかないほどに生きてきました。ある人はよく分からなくて「かっこいいしきれいだから愛するんだろう。」と考えたりもしたし、ある人は「私を摂理で使おうとして尊く思うんだ。」と考えました。ある人は「伝道して信者が多くなるようにしようということだから、当然だ。」と考えたりもしました。
これまで先生は食べる物もまともに食べないで、着る物もまともに着ないで、あらゆる迫害と無念な思いと濡れ衣を着せられながらも、じっと我慢して、ひたすら尊く思ってあげ、愛してあげました。主が血で代価を払って代わりに死んでくれて、天国へ行くように予定しておかれたから、永遠に歯軋りしてあらゆる苦痛を受ける、サタンと悪い霊たちが暮らす地獄に行かないで、地上で主を信じて愛し、主の肉体になって祝福されて生きて、天国に来なさいと、主は先生を通してそのように愛して下さり、気を遣って下さり、事故や害を被らないよう守って下さったのです。もう悟りましたか。
人の美しさも、名誉も、毎日虚しくあの空の浮雲のように流れて行きます。主は私たちの肉のためにそのように愛して下さるのではありません。永遠に存在する私たちの霊のためにそのように愛されます。私たちの霊のためにそのように犠牲になり、愛されるのです。私たちの霊が地獄に行くかと思って主がそのようになさっているから、私たちも霊のために悟って生きなくてはいけません。これだけ悟って主に告白しても主は「私の心情を分かっている。」とおっしゃって直ちに来られます。
この時間以降、悟って心で告白してみて下さい。主から「そうだ。」と一言でも答えが来るでしょう。これを分からずに誤解して摂理の懐を離れて行った人たちと、特に関心なくついて来ていた人たちの最後がどのようになったのか見て下さい。またついて来たとしてもこのような根本を知らずについて来た人は成長しませんでした。
主は啓示者たちが心情を分かってくれるから「私の心情を知らずに肉でだけ信仰生活をしていて、引き上げられず、地上に残って患難と迫害を受けて地獄へ行けば、その時行って歯軋りしながら後悔するだろう。メシアである私も、この世の私の時が終われば背を向ける。私が背を向けた後にはいくら呼んでも見ることができない。各自に十分に機会を与えたのにやらなくて終わったのだ。だから呼んでも何の役に立つだろうか。」とおっしゃったそうです。
肉体が老いて年をとったからと言って気を緩めないで下さい。主は霊をご覧になってもっと働きかけられます。霊は非常に若いです。
人々はなぜ全知全能な主が自分をそんなにも愛するのか分からずに生きています。分からないことも罪です。親や自分の恋人が、自分が何かをしてあげたから、功績があるから愛しますか。何の功績がなくても親や恋人は愛で生んで育て、愛するものです。神様も主もそうです。神様と主が下さる愛を受けられなくて、後になって後悔し、滅亡するこの世の愛を受けてはいけません。
神様は全ての人々を子供として選んでおかれ、地獄に行かないで天国に来て生きなさいと愛して下さいます。
主が「私の肉体を渡してあなたがたのために代わりに死んであげたから、あなたがたは私のものであり、私の新婦たちだ。サタンと悪魔と悪い人たちが私を十字架で殺したから、私が伝えようとしていた天国の福音を伝えられなかった。だから私の言葉をよく聴いて伝えてあげ、サタンを滅ぼし、悪人を悔い改めさせながら、この世で祝福されて生きて、天国に来て永遠に喜びで生きなさい。この世で私の仕事をしていてやりたいことができず、享受できなかったことを、天国に来てすべてもらい、享受しなさい。」とおっしゃいます。
主はそのまま放っておいたら特に価値もない人々をそれほどにも愛していらっしゃいます。この全ての御言葉は主の啓示の御言葉で、説教で解いて伝えてあげているのです。
ある啓示者に主が啓示なさった内容を見ました。その人に罪があってサタンが引っ張って行こうと詰問したそうです。主がご覧になって、そのままでは引っ張って行かれるのでご覧になりながらその人にどのようになさったのか、啓示の内容を送ってきました。
その人が悔い改めをしましたが、悔い改めるべき期間までに全てできなかったのです。だからサタンが少し残っているその罪の条件によって何が何でも引っ張って行こうとしたそうです。そのとき主がサタンに「サタンよ。そのままにしておけ。そこに置いておけ。その残った罪は私が責任を負う。」とおっしゃり、その罪をまた引き受けて代わりに十字架の苦痛をお受けになったそうです。
罪を悔い改めてこそ主が代わりに十字架を負われません。だから主は「どうか自分の罪を悔い改めなさい。私の苦痛のために赦してあげる。」とおっしゃいます。主は生きていたとき肉的に十字架を負われ、死んだ後にも私たちの霊を生かそうとして霊で十字架を負ってまた苦痛を受けていらっしゃいます。主を愛するなら罪を悔い改めてその心情を分かってあげて生きなくてはいけません。そういう人は主に十字架を負わせない人で、主がこの上なく愛されお喜びになります。
主はおっしゃいました。
「私と通じる人は自分の考えと主観、肉性を全て捨てた人だ。私は幼子のような人たちのところに行く。天国は肉性があると行けない。肉性のせいで天国に行けなかったらどんなに無念だろうか。自分の肉性を葬りなさい。そうしなくてはいけない。霊で考えてこそ私と通じる。私を優先権にしなさいと言ったのに教役者たちも、また教団に立てた人たちも、各機関も、まだ自分の考えを優先権にして決定している。私の意見と私の考えを訊いてみなさい。一時間も二時間も祈って私の答えを聞かずにどうして自分の肉の考えで決定するのか。良い意見は全て受け入れてまとめて報告し、決裁を受けて行ないなさい。」とおっしゃいました。
それで先生は主に、肉に属した人たちが分からないから、これから霊に属した人たちを立てて主がその人に啓示なさって相談して決定させようと相談しました。
主は「それでは、肉的な人たちの結果がどうなるだろうか。直して霊に属した人になってこそ天国に行くのではないか。肉が霊の考えに新しく変わらなくてはいけないのではないか。一年だけ待って下さいと言ったのではないか。自分が全ての肉性と肉に属した考えを殺し、霊に属した考えをして私イエスの考えをしなくてはいけない。誰でも個人も、教団も、各教会も、各部署も、全世界みんな、集まって会議をするならそのようにしなくてはいけない。」とおっしゃいました。
主はこれを啓示者たちを通して指摘したりもなさいました。みんな主を優先権にするという概念だけ持っていて、決心だけしているからです。実際に行なうときは見たり聞いたりすることに考えが向かって、考えと自分の肉性で行なっています。こういう人は自分優先の人です。霊の考えを持って主の考えで絶対に主最優先にしなくてはいけません。
主は「祈りだけが対話か?明け方に私と対話した人は昼にも私と対話すべき人だ。」とおっしゃいました。主は啓示者たちに「私は全世界の人々がすることをすべて見ている。」とおっしゃいました。天使も全て記録します。
ある人は「世の中に主を求める人たちが数え切れないほどたくさんいるのに、明け方のその短い時間に主が何人も直接会って下さるのか。」と言います。啓示を受ける人たちがそれぞれ啓示を受けた時間を書いて先生に送りましたが、ほとんど同じ時間に受けた人たちが多いです。
主が下さった啓示を記録すると、ある人は30分かかり、ある人は2時間かかったりもします。手紙を少し長く書くときも明け方まで校正して再び補充して書くと本当に時間がたくさんかかるでしょう。
先生もこの御言葉を朝から書いていますが、今、午後5時近くになっています。主に、土曜日の午前に書き終えると大きなことを言いました。笑いながら、午前に御言葉を書き終え、午後には校正し、残りの時間は手紙を書いて決裁すればいいと言いました。主はすでに全てご存知で、できないとおっしゃいました。良くおっしゃっただけです。しかしまだまだです。祈りの時間にも祈らなくてはいけないから、明日の午後までにしてこそ校正まで終わります。説教も一冊の短い本です。
啓示を受ける時間について話したでしょう。同じ時間に主が下さった啓示が同じ内容であれば、数百人でも数千人でも同じ時間に受けることができますが、その内容を見るとそれぞれ異なって啓示して下さいました。いつか、同じ日にち、同じ時間に啓示を受けた人が3人くらい出て来て話してみて下さい。同じ時間に受けた啓示なのに不思議に内容は異なります。
主は「百万人でも一千万人でも条件ができればそれぞれ同じ時間に啓示してやることができる。」と言いました。他の霊たちは主が使命を下さればある程度はしますが主のようにはできません。しかし主は霊でいらっしゃり、全知全能な三位体なのでなさいます。だから摂理人たちが多いからと言って同じ明け方の時間に主が自分に啓示して下さることはできないと心配しないで下さい。その心配も全て肉の考えです。
肉の考えは霊の考えとてんで違います。なぜ違うでしょうか。霊界と肉界も違い、霊と肉のその能力自体が違います。肉は自分の体では空中を巡ることはできませんが、霊は思い通りに行き来します。肉の目ではわずかな距離しか見えませんが、霊の目では天の国まで見て地球世界を貫いて見ます。だから霊と肉は法も、生き方も、理致も違います。
肉性は神様と主の仕事を妨害すると言いました。この御言葉を聞いて実践すれば霊的な人たちになって、主が勝てる人たちが本当に多くなるでしょう。肉性を全て殺して葬らなければなりません。自分の使命にだけ溺れないで、心から主を呼びながら深い対話を願い求めなくてはいけません。まずやきもきしている主の心を分かって接しなくてはいけません。
主の平安が満ちることを祈ります。
今は私たちの神様の能力と、主の愛とその深い御言葉と、聖霊の熱い感動、感化、御働きが、御言葉を聴く全ての人たちに満ちることを、聖父、聖子、聖霊の御名によって祝福します。アァメン。
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