霊と肉、不可能なことはない
本文 ピリピ人への手紙4章12−13節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
私が明け方に祈るとき、「自分自ら存在するように自力の能力を実行し、私の能力と恵みを受けて共にしなくてはいけない。」と『自力』について悟らせて下さいました。
英雄だったチンギスハンやナポレオンは、神様に仕えて生きていた人たちではありませんでした。しかしナポレオンは「不可能というものはない。」と言いながら人間の無限な可能性を見せて生きました。それだけ自力を使いながら生きたから英雄になったのです。自分の力だけではなく、人々を集めて彼らに英雄のような精神を入れてあげ、彼らもそのように生きるようにしました。だから戦争においてその精神で武装した兵士たちにかなわなかったし、その強い行動にかなわなかったのです。
神様を全く信じない無神論者たちを見ると、自力によって民族を立てて治めていきました。もし、神様とメシアを信じなくては到底生きるのが不可能であり、何もできず、存在することができないとすれば、みんな神様とイエス様を信じて求めて生きるしかないでしょう。しかし神様とイエス様を信じなくても生きることができるし、金持ちにもなるし、名誉も得るし、富み・栄華も享受するし、主権を行使して生きます。
だから神様とイエス様を信じない人たちが、信じる人たちに「現実において生きるのを見るとき、あなたがたと私たちが特別に異なることは何なのか。」と言いながら、信じる人たちに言うべき言葉を失わせます。むしろ神様とイエス様を信じなくてももっと成功し、よく享受して生きている人たちの言葉に呼応するようになります。
神様とイエス様を信じない人たちはお金、名誉、愛、権勢にだけ没頭するから、成功するのが当然です。
神様は人間を創造するとき、誰でも自力によって十分に生きていけるように創造しておかれました。人は自力によって自動機械のようにものすごい仕事をします。フォークレーン、クレーン、自動車も自動化しておけば想像もつかない仕事をします。
車は一日千里を走っても疲れたと言いません。むしろ車に座って手足を動かしながら楽に行く人間が本当に疲れたと言います。フォークレーンは一日中地面を掘り出す作業をします。月明洞でも工事現場で見たでしょう。一日中地面を掘り出して夜にまたやっても疲れたと言いません。しかし人間はフォークレーンに乗って足だけ動かし、両手だけ動かしてやっても疲れて鼻血が出るし、疲労のため病気にかかるし、大騒ぎです。
人間がどうして機械をそのように強く力があって丈夫に造ったのでしょうか。皆さんがよく知っているように、人間が楽なように丈夫に造っておいたのです。人間が苦労しないように、人間が有益なように、そのように丈夫に造っておいたのです。
これと同じく神様が人間たちを創造なさるとき、人間自らすべきことをできるように、自ら問題を解決できるように、強く創っておいたということです。神様を信じても信じなくても、誰でも人間として自ら存在できるように丈夫に創っておきました。
自動車会社で車を造るとき、どの車もその車に該当するエンジンを入れてやり、その車に該当するだけの機能を作って送り出します。神様も人間をお創りになるとき、男性と女性として、その人に該当するとおりに創って送り出されました。使命どおりに十分にやり遂げるように、精神と肉体を作って送り出されました。
神様と主がいつも加担なさらなくても人間自ら十分に想像もつかない仕事をすることができるように創造なさったということを分かって、自らやればできるということです。みんな信仰の英雄、人生の英雄になって生きられるように創っておかれました。だから「どうしてあの人は神様も信じていないのに成功してものすごいことをしているんだろう。」と言って疑わしく思う必要はないということです。それこそ人間として不可能なことがないくらいにできるということです。
神様だけ仰ぎ見て、神様だけ待ち望みながらじっとしていてはいけません。しかし神様だけ仰ぎ見ながらじっとしている人たちが、信じている人たちほど多すぎます。神様と主の御心を悟って御言葉を聴いたら、その御言葉どおりにさらに英雄のように生きなくてはいけません。
人間としてよく食べて、よく着て、名誉と権勢を持って、英雄やスターになって富み・栄華を享受することができます。神様がそのように祝福して創造しておかれたからです。創世記を見ると、「生めよ、ふえよ、万物を治めよ。」とおっしゃいました。だから漠然と神様と主だけ仰ぎ見ないで、強くやりなさいということです。
戦争のときも全く同じです。全ての人々の自力を合わせて神様の御心を求めて行なえばダビデのように勝ちます。ダビデは天の側だったし、戦争のときに命を尽くして神様に頼り、自力を尽くして戦ったから勝ったのです。自分の自力ですべきことをしないで、神様ばかり頼っていくと勝てません。なぜですか。人間の責任を果たさずに行なったからできません。
人間の責任がどれほど大きな威力と勢力なのかご存知ですか。人間の責任を果たさずに主を呼んでみて下さい。主は約束どおりに共になさり、働きかけて下さいます。ところが結局敗れます。それは神様が人間を創造なさるとき、自ら行なうように絶対的な自力を下さったのに、その自力の法度にしたがって行なわなかったからです。
今まで主がクリスチャンたちと共になさって恵みを受けて生きてきたのに、どうして信仰において敗れ、倒れ、失敗者になる人たちがいますか。主に切に求めることで主が共にして下さったし、主が私たちを愛され、私たちが主を愛することで主が共になさって恵みを下さいました。しかし自分の責任を果たさなくて人生が変わらなかったので、自分の勝利をできなかったのです。主が火のように下さるときだけ存在していたのです。クリスチャンたちの中にはこのような信仰人たちが多すぎるということです。
神様と主を信じない人たちが誰も頼らずに劇的に行なうように、クリスチャンたち皆そのようにしなさいということです。
最初に信仰を始めるときは自力の火がついていたのに、時間が過ぎてだんだん火が冷めて、自分はじっとしていて神様ばかり頼り、主ばかり呼ぶから弱くなるのです。
自分の自力の能力を行なわず主の恵みと愛ばかり受けた人は、自分の心の器に冷たい水があってそこに熱い湯をもらったのと同じですぐに冷めてしまいます。心が冷めないように続けて主の御言葉どおりに熱く自力の働きを起こさなくてはいけません。
自力の能力、精神の能力、行動の能力、霊の能力を最大に発揮しながら神様の能力と御働きを受けなくてはいけません。これは絶対的な理論です。
今日は自力の力とその能力の限界について話し、またそれに対する答えをしてあげました。自分の責任を果たさず、無限な能力を使わずに、神様とイエス様が下さるものばかりもらっては弱いということです。神様が皆に自力の力を無限に下さったから、各自実践しながら、神様と主を呼びながら行なって下さい。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 ピリピ人への手紙4章12−13節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
私が明け方に祈るとき、「自分自ら存在するように自力の能力を実行し、私の能力と恵みを受けて共にしなくてはいけない。」と『自力』について悟らせて下さいました。
英雄だったチンギスハンやナポレオンは、神様に仕えて生きていた人たちではありませんでした。しかしナポレオンは「不可能というものはない。」と言いながら人間の無限な可能性を見せて生きました。それだけ自力を使いながら生きたから英雄になったのです。自分の力だけではなく、人々を集めて彼らに英雄のような精神を入れてあげ、彼らもそのように生きるようにしました。だから戦争においてその精神で武装した兵士たちにかなわなかったし、その強い行動にかなわなかったのです。
神様を全く信じない無神論者たちを見ると、自力によって民族を立てて治めていきました。もし、神様とメシアを信じなくては到底生きるのが不可能であり、何もできず、存在することができないとすれば、みんな神様とイエス様を信じて求めて生きるしかないでしょう。しかし神様とイエス様を信じなくても生きることができるし、金持ちにもなるし、名誉も得るし、富み・栄華も享受するし、主権を行使して生きます。
だから神様とイエス様を信じない人たちが、信じる人たちに「現実において生きるのを見るとき、あなたがたと私たちが特別に異なることは何なのか。」と言いながら、信じる人たちに言うべき言葉を失わせます。むしろ神様とイエス様を信じなくてももっと成功し、よく享受して生きている人たちの言葉に呼応するようになります。
神様とイエス様を信じない人たちはお金、名誉、愛、権勢にだけ没頭するから、成功するのが当然です。
神様は人間を創造するとき、誰でも自力によって十分に生きていけるように創造しておかれました。人は自力によって自動機械のようにものすごい仕事をします。フォークレーン、クレーン、自動車も自動化しておけば想像もつかない仕事をします。
車は一日千里を走っても疲れたと言いません。むしろ車に座って手足を動かしながら楽に行く人間が本当に疲れたと言います。フォークレーンは一日中地面を掘り出す作業をします。月明洞でも工事現場で見たでしょう。一日中地面を掘り出して夜にまたやっても疲れたと言いません。しかし人間はフォークレーンに乗って足だけ動かし、両手だけ動かしてやっても疲れて鼻血が出るし、疲労のため病気にかかるし、大騒ぎです。
人間がどうして機械をそのように強く力があって丈夫に造ったのでしょうか。皆さんがよく知っているように、人間が楽なように丈夫に造っておいたのです。人間が苦労しないように、人間が有益なように、そのように丈夫に造っておいたのです。
これと同じく神様が人間たちを創造なさるとき、人間自らすべきことをできるように、自ら問題を解決できるように、強く創っておいたということです。神様を信じても信じなくても、誰でも人間として自ら存在できるように丈夫に創っておきました。
自動車会社で車を造るとき、どの車もその車に該当するエンジンを入れてやり、その車に該当するだけの機能を作って送り出します。神様も人間をお創りになるとき、男性と女性として、その人に該当するとおりに創って送り出されました。使命どおりに十分にやり遂げるように、精神と肉体を作って送り出されました。
神様と主がいつも加担なさらなくても人間自ら十分に想像もつかない仕事をすることができるように創造なさったということを分かって、自らやればできるということです。みんな信仰の英雄、人生の英雄になって生きられるように創っておかれました。だから「どうしてあの人は神様も信じていないのに成功してものすごいことをしているんだろう。」と言って疑わしく思う必要はないということです。それこそ人間として不可能なことがないくらいにできるということです。
神様だけ仰ぎ見て、神様だけ待ち望みながらじっとしていてはいけません。しかし神様だけ仰ぎ見ながらじっとしている人たちが、信じている人たちほど多すぎます。神様と主の御心を悟って御言葉を聴いたら、その御言葉どおりにさらに英雄のように生きなくてはいけません。
人間としてよく食べて、よく着て、名誉と権勢を持って、英雄やスターになって富み・栄華を享受することができます。神様がそのように祝福して創造しておかれたからです。創世記を見ると、「生めよ、ふえよ、万物を治めよ。」とおっしゃいました。だから漠然と神様と主だけ仰ぎ見ないで、強くやりなさいということです。
戦争のときも全く同じです。全ての人々の自力を合わせて神様の御心を求めて行なえばダビデのように勝ちます。ダビデは天の側だったし、戦争のときに命を尽くして神様に頼り、自力を尽くして戦ったから勝ったのです。自分の自力ですべきことをしないで、神様ばかり頼っていくと勝てません。なぜですか。人間の責任を果たさずに行なったからできません。
人間の責任がどれほど大きな威力と勢力なのかご存知ですか。人間の責任を果たさずに主を呼んでみて下さい。主は約束どおりに共になさり、働きかけて下さいます。ところが結局敗れます。それは神様が人間を創造なさるとき、自ら行なうように絶対的な自力を下さったのに、その自力の法度にしたがって行なわなかったからです。
今まで主がクリスチャンたちと共になさって恵みを受けて生きてきたのに、どうして信仰において敗れ、倒れ、失敗者になる人たちがいますか。主に切に求めることで主が共にして下さったし、主が私たちを愛され、私たちが主を愛することで主が共になさって恵みを下さいました。しかし自分の責任を果たさなくて人生が変わらなかったので、自分の勝利をできなかったのです。主が火のように下さるときだけ存在していたのです。クリスチャンたちの中にはこのような信仰人たちが多すぎるということです。
神様と主を信じない人たちが誰も頼らずに劇的に行なうように、クリスチャンたち皆そのようにしなさいということです。
最初に信仰を始めるときは自力の火がついていたのに、時間が過ぎてだんだん火が冷めて、自分はじっとしていて神様ばかり頼り、主ばかり呼ぶから弱くなるのです。
自分の自力の能力を行なわず主の恵みと愛ばかり受けた人は、自分の心の器に冷たい水があってそこに熱い湯をもらったのと同じですぐに冷めてしまいます。心が冷めないように続けて主の御言葉どおりに熱く自力の働きを起こさなくてはいけません。
自力の能力、精神の能力、行動の能力、霊の能力を最大に発揮しながら神様の能力と御働きを受けなくてはいけません。これは絶対的な理論です。
今日は自力の力とその能力の限界について話し、またそれに対する答えをしてあげました。自分の責任を果たさず、無限な能力を使わずに、神様とイエス様が下さるものばかりもらっては弱いということです。神様が皆に自力の力を無限に下さったから、各自実践しながら、神様と主を呼びながら行なって下さい。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/その日には全て目につき、全て露見する 早く悔い改めて備えるべきものを用意しなさい
本文 マタイによる福音書22章1−14節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
植物の花の季節が去り、美しく勇壮な紅葉の季節が徐々に過ぎ、もう物寂しい季節がだんだん近づいています。それでも11月の一ヶ月は物寂しさを感じながら街を歩いても歩くことができます。大地の花も散り紅葉も散ると物寂しいですが、クリスチャンという人の花を咲かせれば冬にものどかでしょう。
今日の本文の御言葉を見ると、イエス様はその当世にあった状況と未来に起こることについて比喩を使って話されました。
ある王が自分の息子の結婚披露宴を催し、しもべたちを遣わして招いた人たちに来なさいと言いましたが、彼らが来ることを嫌がりました。王は他のしもべたちを遣わして「私が牛も肥えた獣もほふって食事を準備したから、私の息子の結婚披露宴に来なさい。」と言いました。しかしある人たちは見向きもしなかったし、ある人たちは田畑を耕しに行き、ある人たちは商売に出て行き、またある人たちは王が遣わしたしもべたちを辱め、悪評し、一部は殺しまでしました。誰が聞いても本当に悪い人たちであり、王を無視して踏みにじった人たちであり、「生まれたばかりの子犬はトラを怖がらない」(訳注:「無知は恐れを知らない」という意味のことわざ、日本語で言えば「知らぬが仏」「めくら蛇に怖じず」)と言いますが、王を陵辱した人たちです。
王がその話を聞いて激しく怒って軍隊を遣わし、しもべたちを殺人した人たちを滅ぼして彼らが住んでいる村を燃やしてしまいました。悪い人たちは自分の悪によって迫っていることを本当に知らずに生きています。
王はまたしもべたちを遣わして、道でも、野原でも、出会う人は誰でも、悪人でも善人でもみんな連れて来なさいと言いました。すると結婚披露宴にお客さんがいっぱいになりました。
王は誰が来たのか見ようと結婚披露宴の宮殿の庭をことごとく歩き回りました。ところがその多くの人々の中に、礼服を着ずに来た人がいました。王はその人に「友よ、どうして礼服を着ていないのか。」と訊くと、その人は食べていた食べ物を口にくわえて何も言わずに見つめているだけでした。本当に困ったことです。荒唐無稽なことです。それで王はそばの者たちに命じて「この人の手足を縛って外の暗闇に追い出せ。そこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないなあ。」と言いました。
この時代の私たち皆は、天の国に行くに当たって歴史の宴に招かれて来た人たちです。
今は私たちが神様とイエス様を選んで生きなくてはいけません。イエス様のこの比喩の御言葉はその当世のときに成されたし、その後にも成されました。
王は神様をたとえたものであり、王の息子はイエス様をたとえたものです。イエス様をこの世に新郎のように遣わして、迎えた人は信仰的にその方の新婦の立場になって救われ、その方と一つの体になって天の国に行くようになり、この世で生きる間にもイエス様に仕え、信じて生きることをおっしゃったのです。
王がしもべたちを遣わして宴に来なさいと言ったけれど来なかったということは、イエス様が来られる前の旧約時代4000年間、神様を信じて生きることを願ったけれど信じなかったことをおっしゃったのです。しかし小さな都市くらいのイスラエルの中には神様を信じる人たちがいました。
また王がしもべたちを遣わしたことは、イエス様の天国の福音の宴に来なさいと神様のしもべたちを遣わしたけれど来なかったことをおっしゃったのです。その理由は、自分の生活の場へ行き、あるいは世の中に溺れて生きているためについて来ないし、あるいは関心がなくて来なかったのです。残りの人はイエス様に反対し、異端視し、排斥し、遣わした人たちを悪く言い、その中には殺す人たちまでいました。
イエス様の当世、信じない人たちは福音を蔑視し、反キリストたちだと言って迫害し、異端視し、捕まえて回り、捕まえると獄に閉じ込め、殺しまでしました。どれほど心が傷つき、心情が苦しかったでしょうか。王のような神様がご覧になってどうなさったでしょうか。
イエス様の当世、どれだけイエス様の福音に反対し、迫害したのかご存知ですか。イエス様の福音を伝えると無条件に捕まえて回りました。捕まえる人たちは特にその時代に神様の弟子たちが福音を伝えるたびに、ともすれば彼らに告げ口しました。ローマ人たちはたいてい軍隊でイスラエルを支配し治めました。ローマ人たちが行って聞いてみるとこれといった特別な問題になることではありませんでした。
招いた人たちが来ないので、街で出会う人は誰でも福音を伝えて来させました。悪人でも善人でもみんな来させました。結局、天の国の宴に多くの人たちで満ち溢れました。多くの群れがイエス様の御言葉を聞いて天の国の宴の歴史を成しました。
そのように福音を広げている途中でイエス様が十字架につけられて亡くなった後に、イスラエルはローマの兵士たちによって陥落するようになりました。イエス様の比喩の御言葉どおり、神様が軍隊を遣わして、福音を伝える人たちを迫害し殺した人たちのその悪い行いどおりに行なわれました。
王の息子の結婚披露宴に来た人たちは、悪人でも善人でもみんな追い出されませんでした。しかし礼服を着ていない人は縛られて追い出されました。宴会場に行った人なら、他のことはできなくても礼服だけは整えて着なくてはいけません。整えなければ皆が見て気分が悪いのです。礼儀のない行動です。
この時代も神様がイエス様を世の終わりの終末に遣わされ、再臨を控えて主を迎えさせるために恵みと聖霊の宴をしています。天の国の主を迎える結婚披露宴をしていらっしゃいます。救いの結婚披露宴、恵みの結婚披露宴、聖霊の結婚披露宴、主を新郎として迎える結婚披露宴を神様は進行していらっしゃいます。私たちの目に見えなくても主は私たちの中に現れて行き来していらっしゃいます。
主は人々を遣わして招いて来なさいと言いましたが来ませんでした。再び人々を遣わして、ちょうど王が「肥えた獣をほふって全てのものを用意しておいたから、結婚披露宴に来なさい。」と言ったように、「世の終わりの日だ。再臨の前だ。私が約束どおりに聖霊を与えるから来なさい。聖霊の熱い働きを通して、人間たちが願う全ての恵みを与えてあげるから来なさい。人生を変化させ生まれ変わらせる聖霊の働きをするから来なさい。霊魂が救われて天国に行くようにする永遠の命の御言葉が準備されているから来なさい。」とおっしゃっています。
神様はあちこちイエス様の新婦たちを見て回っていらっしゃいます。ちょうど王がきれいな礼服を着ていない人を見てそばの者たちに命じて引きずり出して外の暗闇に追い出すように、神様は礼服を着ていない人たちをご覧になって追い出されるでしょう。
では礼服はいったい何のことなのか、礼式場に来るお祝いの客たちが着る礼服と新婦たちが着る礼服は信仰人たちにとって何のことなのか話します。
神様の人々は信仰の服を着なくてはいけませんが、これは救われるにあたって絶対に必要な義の服です。
ヨハネの黙示録19章7−8節を見ると「汚れのない衣」は「正しい行い」だと言っています。
汚れのない行いの服を着なくてはいけません。主を信じて生きながら正しく善良な行いをしてこそ、光り輝く汚れのない麻布の衣を着るようになります。悔い改めて主の御心どおりに生きる人にこの服が着せられます。
天国の救いの結婚披露宴に来た人たちなら、誰でも悔い改めなくてはいけません。この世に生きながら神様を信じなくて今信じて神様を愛するようになったこと、神様より世の中を愛して異性で人をより愛して生きたこと、神様の法から外れて生きたこと等を全て間違いだったといって悔い改めてこそ、義人になって神霊で光り輝く白い服を自分の霊に着せてあげることができます。そうしてこそ天国に入って行く福音の宴で礼服を着ていないといって追い出されません。
主がこの世に現れて2000年間働きかけられて以降、今この時は私たちにとって最高の機会です。主は私たちを変化させようとして来られました。限りない御言葉で啓示して下さり、聖霊で働きかけ、しるしで働きかけていらっしゃいます。
引き上げは変化です。変化してこそ引き上げられます。変化しなくては天の国に行くことができません。御言葉を聞いてそのとおりに行なって変化しなくてはいけません。悔い改めることで変化し、聖霊を受けることで変化し、主の啓示を何度も聴いて実践することで変化しなくてはいけません。変化しなかった人たちは結局追い出されました。主は「幼子のように変化しなさい。そうしてこそ天国に行く。」とおっしゃいました。この世で生きても天国の生き方でなければ地獄の生き方をしています。早く彼らのところへ行って「神様が天国に来なさいと招いていらっしゃいます。早く来なさいとおっしゃっています。」と言って連れて来て、時代の御言葉を聞かせ、天国の生き方をさせてあげて下さい。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 マタイによる福音書22章1−14節
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
植物の花の季節が去り、美しく勇壮な紅葉の季節が徐々に過ぎ、もう物寂しい季節がだんだん近づいています。それでも11月の一ヶ月は物寂しさを感じながら街を歩いても歩くことができます。大地の花も散り紅葉も散ると物寂しいですが、クリスチャンという人の花を咲かせれば冬にものどかでしょう。
今日の本文の御言葉を見ると、イエス様はその当世にあった状況と未来に起こることについて比喩を使って話されました。
ある王が自分の息子の結婚披露宴を催し、しもべたちを遣わして招いた人たちに来なさいと言いましたが、彼らが来ることを嫌がりました。王は他のしもべたちを遣わして「私が牛も肥えた獣もほふって食事を準備したから、私の息子の結婚披露宴に来なさい。」と言いました。しかしある人たちは見向きもしなかったし、ある人たちは田畑を耕しに行き、ある人たちは商売に出て行き、またある人たちは王が遣わしたしもべたちを辱め、悪評し、一部は殺しまでしました。誰が聞いても本当に悪い人たちであり、王を無視して踏みにじった人たちであり、「生まれたばかりの子犬はトラを怖がらない」(訳注:「無知は恐れを知らない」という意味のことわざ、日本語で言えば「知らぬが仏」「めくら蛇に怖じず」)と言いますが、王を陵辱した人たちです。
王がその話を聞いて激しく怒って軍隊を遣わし、しもべたちを殺人した人たちを滅ぼして彼らが住んでいる村を燃やしてしまいました。悪い人たちは自分の悪によって迫っていることを本当に知らずに生きています。
王はまたしもべたちを遣わして、道でも、野原でも、出会う人は誰でも、悪人でも善人でもみんな連れて来なさいと言いました。すると結婚披露宴にお客さんがいっぱいになりました。
王は誰が来たのか見ようと結婚披露宴の宮殿の庭をことごとく歩き回りました。ところがその多くの人々の中に、礼服を着ずに来た人がいました。王はその人に「友よ、どうして礼服を着ていないのか。」と訊くと、その人は食べていた食べ物を口にくわえて何も言わずに見つめているだけでした。本当に困ったことです。荒唐無稽なことです。それで王はそばの者たちに命じて「この人の手足を縛って外の暗闇に追い出せ。そこで泣き叫んだり歯噛みをしたりするであろう。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないなあ。」と言いました。
この時代の私たち皆は、天の国に行くに当たって歴史の宴に招かれて来た人たちです。
今は私たちが神様とイエス様を選んで生きなくてはいけません。イエス様のこの比喩の御言葉はその当世のときに成されたし、その後にも成されました。
王は神様をたとえたものであり、王の息子はイエス様をたとえたものです。イエス様をこの世に新郎のように遣わして、迎えた人は信仰的にその方の新婦の立場になって救われ、その方と一つの体になって天の国に行くようになり、この世で生きる間にもイエス様に仕え、信じて生きることをおっしゃったのです。
王がしもべたちを遣わして宴に来なさいと言ったけれど来なかったということは、イエス様が来られる前の旧約時代4000年間、神様を信じて生きることを願ったけれど信じなかったことをおっしゃったのです。しかし小さな都市くらいのイスラエルの中には神様を信じる人たちがいました。
また王がしもべたちを遣わしたことは、イエス様の天国の福音の宴に来なさいと神様のしもべたちを遣わしたけれど来なかったことをおっしゃったのです。その理由は、自分の生活の場へ行き、あるいは世の中に溺れて生きているためについて来ないし、あるいは関心がなくて来なかったのです。残りの人はイエス様に反対し、異端視し、排斥し、遣わした人たちを悪く言い、その中には殺す人たちまでいました。
イエス様の当世、信じない人たちは福音を蔑視し、反キリストたちだと言って迫害し、異端視し、捕まえて回り、捕まえると獄に閉じ込め、殺しまでしました。どれほど心が傷つき、心情が苦しかったでしょうか。王のような神様がご覧になってどうなさったでしょうか。
イエス様の当世、どれだけイエス様の福音に反対し、迫害したのかご存知ですか。イエス様の福音を伝えると無条件に捕まえて回りました。捕まえる人たちは特にその時代に神様の弟子たちが福音を伝えるたびに、ともすれば彼らに告げ口しました。ローマ人たちはたいてい軍隊でイスラエルを支配し治めました。ローマ人たちが行って聞いてみるとこれといった特別な問題になることではありませんでした。
招いた人たちが来ないので、街で出会う人は誰でも福音を伝えて来させました。悪人でも善人でもみんな来させました。結局、天の国の宴に多くの人たちで満ち溢れました。多くの群れがイエス様の御言葉を聞いて天の国の宴の歴史を成しました。
そのように福音を広げている途中でイエス様が十字架につけられて亡くなった後に、イスラエルはローマの兵士たちによって陥落するようになりました。イエス様の比喩の御言葉どおり、神様が軍隊を遣わして、福音を伝える人たちを迫害し殺した人たちのその悪い行いどおりに行なわれました。
王の息子の結婚披露宴に来た人たちは、悪人でも善人でもみんな追い出されませんでした。しかし礼服を着ていない人は縛られて追い出されました。宴会場に行った人なら、他のことはできなくても礼服だけは整えて着なくてはいけません。整えなければ皆が見て気分が悪いのです。礼儀のない行動です。
この時代も神様がイエス様を世の終わりの終末に遣わされ、再臨を控えて主を迎えさせるために恵みと聖霊の宴をしています。天の国の主を迎える結婚披露宴をしていらっしゃいます。救いの結婚披露宴、恵みの結婚披露宴、聖霊の結婚披露宴、主を新郎として迎える結婚披露宴を神様は進行していらっしゃいます。私たちの目に見えなくても主は私たちの中に現れて行き来していらっしゃいます。
主は人々を遣わして招いて来なさいと言いましたが来ませんでした。再び人々を遣わして、ちょうど王が「肥えた獣をほふって全てのものを用意しておいたから、結婚披露宴に来なさい。」と言ったように、「世の終わりの日だ。再臨の前だ。私が約束どおりに聖霊を与えるから来なさい。聖霊の熱い働きを通して、人間たちが願う全ての恵みを与えてあげるから来なさい。人生を変化させ生まれ変わらせる聖霊の働きをするから来なさい。霊魂が救われて天国に行くようにする永遠の命の御言葉が準備されているから来なさい。」とおっしゃっています。
神様はあちこちイエス様の新婦たちを見て回っていらっしゃいます。ちょうど王がきれいな礼服を着ていない人を見てそばの者たちに命じて引きずり出して外の暗闇に追い出すように、神様は礼服を着ていない人たちをご覧になって追い出されるでしょう。
では礼服はいったい何のことなのか、礼式場に来るお祝いの客たちが着る礼服と新婦たちが着る礼服は信仰人たちにとって何のことなのか話します。
神様の人々は信仰の服を着なくてはいけませんが、これは救われるにあたって絶対に必要な義の服です。
ヨハネの黙示録19章7−8節を見ると「汚れのない衣」は「正しい行い」だと言っています。
汚れのない行いの服を着なくてはいけません。主を信じて生きながら正しく善良な行いをしてこそ、光り輝く汚れのない麻布の衣を着るようになります。悔い改めて主の御心どおりに生きる人にこの服が着せられます。
天国の救いの結婚披露宴に来た人たちなら、誰でも悔い改めなくてはいけません。この世に生きながら神様を信じなくて今信じて神様を愛するようになったこと、神様より世の中を愛して異性で人をより愛して生きたこと、神様の法から外れて生きたこと等を全て間違いだったといって悔い改めてこそ、義人になって神霊で光り輝く白い服を自分の霊に着せてあげることができます。そうしてこそ天国に入って行く福音の宴で礼服を着ていないといって追い出されません。
主がこの世に現れて2000年間働きかけられて以降、今この時は私たちにとって最高の機会です。主は私たちを変化させようとして来られました。限りない御言葉で啓示して下さり、聖霊で働きかけ、しるしで働きかけていらっしゃいます。
引き上げは変化です。変化してこそ引き上げられます。変化しなくては天の国に行くことができません。御言葉を聞いてそのとおりに行なって変化しなくてはいけません。悔い改めることで変化し、聖霊を受けることで変化し、主の啓示を何度も聴いて実践することで変化しなくてはいけません。変化しなかった人たちは結局追い出されました。主は「幼子のように変化しなさい。そうしてこそ天国に行く。」とおっしゃいました。この世で生きても天国の生き方でなければ地獄の生き方をしています。早く彼らのところへ行って「神様が天国に来なさいと招いていらっしゃいます。早く来なさいとおっしゃっています。」と言って連れて来て、時代の御言葉を聞かせ、天国の生き方をさせてあげて下さい。
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マタイによる福音書4:18−19
マタイによる福音書4:23−25
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
10月の最後の主日です。時間が秋の雲のように速く流れて行きますが、広い世の中でせわしく行ったり来たりしながら生きている皆さんはどれほど時間が速く過ぎるでしょうか。
それでも明け方から走っているから数時間より多く得て生きていても時間に追われるでしょう。最近は、夜は長く昼は短いから、あのこと、このこととやってみるとすぐに時間が過ぎて日が西の山に傾いて暗くなります。
今年もクリスマスの期間を除いてみると50日余り残っています。
今、私たちは2009年の終わりに立っています。この年の太陽が西の山にゆらめいています。
死亡へ行く命を導いて来るときは、伝道者の胸に聖霊の火が落ちます。
自分ひとりだけ最後の聖霊と恵みの宴会に参加しないで、必ず一人ずつ連れて来てチョンチョウし、心の門を開かせてあげ、時代を悟らせてあげ、その人と共に聖霊の宴会に参加しなくてはいけません。
主が育ててきた人に、主と共に会わなくてはいけません。
初めて信仰を持つとき主は伝道者にも、伝道される人にも奇跡を見せて下さいます。
まるで自分の願いを成就するように伝道することを主に求めてこそしるしが起こります。
信じますか。
門の外に出て行きさえすれば伝道すべき人です。
「主よ、今年一年だけ待って下さい。」と言いました。もう「50日余りだけ待って下さい。」です。聖霊の実を結ばなくてはいけないし、伝道して命の実も結ばなくてはいけません。
主に祈って主と一緒に行けばすぐに伝道します。命を救うのに何をぐるぐる遠まわしに言いますか。主の御言葉を伝えてあげれば良いでしょう。一人いても、千人いても、御言葉で溶けます。恋愛する人たちが動物の話でもして、食べる話でもして、哲学の話でもして、成功した話でもしていていいでしょうか。愛の話をすべきでしょう。
今は一人を10人、100人のように思うべき時です。毎日主に祈り、伝道のために祈り、そして主と一緒に伝道すべき時です。
主が用意しておかれた人たちがいます。探してみて下さい。探せば聖霊で感動を受けて主が働きかけられます。アマゾンの川辺の密林に暮らす原住民たちも伝道するのに、どうしてできませんか。
伝道すればしるしが起こります。聖霊を受けて伝道し、彼らも聖霊を受けさせてあげなくてはいけません。
ある教会で説教の前に50代のある男性がギターを持って恵み深く讃美を歌っていました。実に感動的でした。その人は讃美三曲を歌って自己紹介をしました。不治の病で6ヶ月しか生きられないという診断を受け、「これからこの世で何をすべきか、6ヶ月が過ぎれば死ぬから、ただ天国へ行くことにだけ気を遣おう。」とずっと祈りながら神様だけ讃美して暮らしたそうです。
ところが6ヶ月が過ぎても死なないので、死ぬ日まで伝道しようと決心したと証をし、死ぬ前の切実な話をしてあげながら、感動的な歌詞を付けて歌を作ってギターの演奏と共に讃美を歌って回ったそうです。自分の死ぬ日までいくらも残っていないから死の敷居であなたに永遠に残る救いを伝える、と言うと、人々が信じてうなずいたそうです。
「今月死ぬだろうか、来月死ぬだろうか。」と思ったけれど、ずっと伝道して回ってみると、現在さらに8年生きていると言いました。彼は、主が伝道する期間を与えたのだと思って讃美しながら伝道するから命を延長して下さったと感激し、恵み深い聖霊の熱い働きを味わわせました。彼は歌もたくさん作って歌いました。
命を救う価値がそれだけ大きいです。
人間は極に直面して生きてこそ変化します。このように伝道して命を生かしてあげれば、神様と主もしるしを起こして下さいます。みんな死の宣告を受けたと思って生きてこそ10倍も気が引き締まって行うようになります。
ハワイに女性勧士と長老の夫婦がいます。奥さんが肺がんで苦労して死に掛かっていたとき、牧師の祈りを受けて治ったと言いました。ところがその後にまたタバコを吸って健康管理を疎かにし、がんが再発して死んだと言いました。
九死に一生を得たのに、そこまでタバコをがまんできなくてまた吸ったなんて。二度とタバコを吸わないようにと繰り返し頼んで、死ぬまでタバコを吸えないようにしました。
皆さんの肉体も霊魂も主が死亡圏から生命圏へ導き出しておかれたのに、我慢できなくて再び死亡圏へ行ったらハワイの勧士のようになります。主が皆さんをサタン圏の死の落とし穴から出て来させて下さったから、どうか耐え忍んで主の仕事をしなくてはいけません。
タバコを止められなかったなんて。自分の命を生かすのにタバコが問題ですか。愛が問題ですか。お金が問題ですか。自分の癖と肉性が問題ですか。眠りが問題ですか。眠りを断つことができなくて明け方の時間をサタンに奪われ、お金のせいで命を奪われ、自分の主観のせいでイエス様を奪われ、世の中のために天国を奪われていいでしょうか。
タバコのせいで肺がんが再発して命を奪われたという話を聞いて、他人の話として聞かないで、自分もそうかとよく見てみて下さい。自分の性格、時分の癖、自分の肉性のせいで聖霊の恵みを奪われ、職務を奪われることになります。主が持って行かれるのです。みんな精神をぐっと引き締めてやらなくてはいけません。
健康をしっかり備えなくてはいけません。
新しく来た皆さんは「また誰かを通して神様がお呼びになるだろう。」と思わないで、今この時に自分の命を永遠に生かさなくてはいけません。この時に神様が最後の機会としてお呼びになったと思って勤勉に御言葉を聴いて熱心にやって下さい。
ある人は高校生のときに伝道されましたが、そのとききちんと信じられなくて出て行って結婚し、15年ぶりに再び戻って来たと言いました。神様がお呼びになったときにきちんと使命を果たせなければ、10年後、20年後、30年後に一度お呼びになります。良い歳月が過ぎてから来たのです。残念です。苦労してもこの世でよくやって天国に行かなくてはいけません。だから伝道された人たちは自分が自分の霊魂と肉体のために心と思いと命を尽くして主の御言葉を聴きながら立派に成し遂げなくてはいけません。
信じますか。
使命をもらって働く人たちはみんな大変ですが立派に成し遂げなくてはいけません。皆さんが住んでいる国で伝道して宣教することは天国です。ある宣教師は主の発令を受けてアマゾンの密林へ行って宣教します。言葉が通じない原住民たちの間でマツケムシを捕って食べながら宣教します。アナコンダ蛇にかまれたら死ぬこともあるし、スズメやバッタに食われながら、おびただしい蚊に食われながら宣教します。
毒虫にかまれて倒れながら、服も着ないで暮らす恐ろしい人たちと一緒に食べて寝ながら福音を伝える人たちのことを考えてみて下さい。あるときは原住民たちの目の色が変わると宣教師を捕って食べるそうです。そんな環境で言葉も通じないのに伝道して聖霊が満ちるようにしてあげ、救って天国に行かせてあげます。
そういう人たちのことを考えるとき、私たちは地上天国の環境で主の福音の使役を果たしているのです。数千年文明が遅れている人たちも福音を伝えると聞いて信じることで天国に行って暮らすのに、現代人たちは神様とイエス様を信じても自分の思い通りに生きるから、彼らにも劣る人たちだと言わざるを得ません。
私たちは同じ国で言葉が通じる人たちを伝道するからどれほど有利ですか。
肉体が死んでも霊魂を生かすには、神様と主を信じて生きなくてはいけません。
主は私たちに対する始めの愛を失っていらっしゃいません。今も前と同じです。
しかしある人は、自分が主に対する始めの愛を失って生きているから、主も失ったと思って心の勇気を失った人もいます。主はいつも始めの愛で接して下さるから、皆さんも主の前に始めと同じくして下さい。
皆さん聖霊の宴会に参加して聖霊を満ちるほど受けることを、主の御名で祝福します。
元記事はこちらですhttp://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111802
マタイによる福音書4:18−19
マタイによる福音書4:23−25
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
10月の最後の主日です。時間が秋の雲のように速く流れて行きますが、広い世の中でせわしく行ったり来たりしながら生きている皆さんはどれほど時間が速く過ぎるでしょうか。
それでも明け方から走っているから数時間より多く得て生きていても時間に追われるでしょう。最近は、夜は長く昼は短いから、あのこと、このこととやってみるとすぐに時間が過ぎて日が西の山に傾いて暗くなります。
今年もクリスマスの期間を除いてみると50日余り残っています。
今、私たちは2009年の終わりに立っています。この年の太陽が西の山にゆらめいています。
死亡へ行く命を導いて来るときは、伝道者の胸に聖霊の火が落ちます。
自分ひとりだけ最後の聖霊と恵みの宴会に参加しないで、必ず一人ずつ連れて来てチョンチョウし、心の門を開かせてあげ、時代を悟らせてあげ、その人と共に聖霊の宴会に参加しなくてはいけません。
主が育ててきた人に、主と共に会わなくてはいけません。
初めて信仰を持つとき主は伝道者にも、伝道される人にも奇跡を見せて下さいます。
まるで自分の願いを成就するように伝道することを主に求めてこそしるしが起こります。
信じますか。
門の外に出て行きさえすれば伝道すべき人です。
「主よ、今年一年だけ待って下さい。」と言いました。もう「50日余りだけ待って下さい。」です。聖霊の実を結ばなくてはいけないし、伝道して命の実も結ばなくてはいけません。
主に祈って主と一緒に行けばすぐに伝道します。命を救うのに何をぐるぐる遠まわしに言いますか。主の御言葉を伝えてあげれば良いでしょう。一人いても、千人いても、御言葉で溶けます。恋愛する人たちが動物の話でもして、食べる話でもして、哲学の話でもして、成功した話でもしていていいでしょうか。愛の話をすべきでしょう。
今は一人を10人、100人のように思うべき時です。毎日主に祈り、伝道のために祈り、そして主と一緒に伝道すべき時です。
主が用意しておかれた人たちがいます。探してみて下さい。探せば聖霊で感動を受けて主が働きかけられます。アマゾンの川辺の密林に暮らす原住民たちも伝道するのに、どうしてできませんか。
伝道すればしるしが起こります。聖霊を受けて伝道し、彼らも聖霊を受けさせてあげなくてはいけません。
ある教会で説教の前に50代のある男性がギターを持って恵み深く讃美を歌っていました。実に感動的でした。その人は讃美三曲を歌って自己紹介をしました。不治の病で6ヶ月しか生きられないという診断を受け、「これからこの世で何をすべきか、6ヶ月が過ぎれば死ぬから、ただ天国へ行くことにだけ気を遣おう。」とずっと祈りながら神様だけ讃美して暮らしたそうです。
ところが6ヶ月が過ぎても死なないので、死ぬ日まで伝道しようと決心したと証をし、死ぬ前の切実な話をしてあげながら、感動的な歌詞を付けて歌を作ってギターの演奏と共に讃美を歌って回ったそうです。自分の死ぬ日までいくらも残っていないから死の敷居であなたに永遠に残る救いを伝える、と言うと、人々が信じてうなずいたそうです。
「今月死ぬだろうか、来月死ぬだろうか。」と思ったけれど、ずっと伝道して回ってみると、現在さらに8年生きていると言いました。彼は、主が伝道する期間を与えたのだと思って讃美しながら伝道するから命を延長して下さったと感激し、恵み深い聖霊の熱い働きを味わわせました。彼は歌もたくさん作って歌いました。
命を救う価値がそれだけ大きいです。
人間は極に直面して生きてこそ変化します。このように伝道して命を生かしてあげれば、神様と主もしるしを起こして下さいます。みんな死の宣告を受けたと思って生きてこそ10倍も気が引き締まって行うようになります。
ハワイに女性勧士と長老の夫婦がいます。奥さんが肺がんで苦労して死に掛かっていたとき、牧師の祈りを受けて治ったと言いました。ところがその後にまたタバコを吸って健康管理を疎かにし、がんが再発して死んだと言いました。
九死に一生を得たのに、そこまでタバコをがまんできなくてまた吸ったなんて。二度とタバコを吸わないようにと繰り返し頼んで、死ぬまでタバコを吸えないようにしました。
皆さんの肉体も霊魂も主が死亡圏から生命圏へ導き出しておかれたのに、我慢できなくて再び死亡圏へ行ったらハワイの勧士のようになります。主が皆さんをサタン圏の死の落とし穴から出て来させて下さったから、どうか耐え忍んで主の仕事をしなくてはいけません。
タバコを止められなかったなんて。自分の命を生かすのにタバコが問題ですか。愛が問題ですか。お金が問題ですか。自分の癖と肉性が問題ですか。眠りが問題ですか。眠りを断つことができなくて明け方の時間をサタンに奪われ、お金のせいで命を奪われ、自分の主観のせいでイエス様を奪われ、世の中のために天国を奪われていいでしょうか。
タバコのせいで肺がんが再発して命を奪われたという話を聞いて、他人の話として聞かないで、自分もそうかとよく見てみて下さい。自分の性格、時分の癖、自分の肉性のせいで聖霊の恵みを奪われ、職務を奪われることになります。主が持って行かれるのです。みんな精神をぐっと引き締めてやらなくてはいけません。
健康をしっかり備えなくてはいけません。
新しく来た皆さんは「また誰かを通して神様がお呼びになるだろう。」と思わないで、今この時に自分の命を永遠に生かさなくてはいけません。この時に神様が最後の機会としてお呼びになったと思って勤勉に御言葉を聴いて熱心にやって下さい。
ある人は高校生のときに伝道されましたが、そのとききちんと信じられなくて出て行って結婚し、15年ぶりに再び戻って来たと言いました。神様がお呼びになったときにきちんと使命を果たせなければ、10年後、20年後、30年後に一度お呼びになります。良い歳月が過ぎてから来たのです。残念です。苦労してもこの世でよくやって天国に行かなくてはいけません。だから伝道された人たちは自分が自分の霊魂と肉体のために心と思いと命を尽くして主の御言葉を聴きながら立派に成し遂げなくてはいけません。
信じますか。
使命をもらって働く人たちはみんな大変ですが立派に成し遂げなくてはいけません。皆さんが住んでいる国で伝道して宣教することは天国です。ある宣教師は主の発令を受けてアマゾンの密林へ行って宣教します。言葉が通じない原住民たちの間でマツケムシを捕って食べながら宣教します。アナコンダ蛇にかまれたら死ぬこともあるし、スズメやバッタに食われながら、おびただしい蚊に食われながら宣教します。
毒虫にかまれて倒れながら、服も着ないで暮らす恐ろしい人たちと一緒に食べて寝ながら福音を伝える人たちのことを考えてみて下さい。あるときは原住民たちの目の色が変わると宣教師を捕って食べるそうです。そんな環境で言葉も通じないのに伝道して聖霊が満ちるようにしてあげ、救って天国に行かせてあげます。
そういう人たちのことを考えるとき、私たちは地上天国の環境で主の福音の使役を果たしているのです。数千年文明が遅れている人たちも福音を伝えると聞いて信じることで天国に行って暮らすのに、現代人たちは神様とイエス様を信じても自分の思い通りに生きるから、彼らにも劣る人たちだと言わざるを得ません。
私たちは同じ国で言葉が通じる人たちを伝道するからどれほど有利ですか。
肉体が死んでも霊魂を生かすには、神様と主を信じて生きなくてはいけません。
主は私たちに対する始めの愛を失っていらっしゃいません。今も前と同じです。
しかしある人は、自分が主に対する始めの愛を失って生きているから、主も失ったと思って心の勇気を失った人もいます。主はいつも始めの愛で接して下さるから、皆さんも主の前に始めと同じくして下さい。
皆さん聖霊の宴会に参加して聖霊を満ちるほど受けることを、主の御名で祝福します。
元記事はこちらですhttp://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111802主の名を呼びなさい
本文 使徒行伝2章21節
使徒行伝4章12節
使徒行伝2章21節 『そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』
使徒行伝4章12節 『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』
ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
今日、主が下さる御言葉は「誰でも私イエスを呼びなさい。そうすれば救いを得るだろう。」です。
世の中の人々を見渡します。彼らは誰を呼びながら生きていますか。誰を呼びながら救われようとし、誰を呼びながら成功しようとしていますか。どうして全能者、神様と主を呼ばずに他の人や偶像の神を呼んで天の国、天国に行くことができるでしょうか。
イエス様が遣わされた使命者たちに従って主の前に来て、主を信じて救われることは、理致に合う話ですが、自分が救うと言ったり、まるで自分が天国の主人として天国に入らせるかのように、自分に仕えなさいと言う人たちは全て人間偶像です。天下にイエス・キリストの他には神様が時代を救う救い主としてお遣わしになりませんでした。
騙されないで毎日主の名を呼ばなくてはいけません。しかし主を、しもべを呼ぶように、使いを呼ぶように、必要なときだけ呼ばないで、威厳と尊敬と愛で仰ぎ見て呼ばなくてはいけません。助けのために、救いのために呼ぶこともありますが、さらには主の心情を慰めて差し上げ、力になって差し上げ、頼りにならなくてはいけないのです。主の心情を知る人は主が「真に愛する人」だとおっしゃいました。
主の名を呼ぶことも習慣になってこそ呼びます。習慣にならなければ、ある問題があるときだけ求めます。主を呼ぶ理由もいろいろあります。救いのために呼び、愛するから呼び、辛いと言って呼び、好きだと言って呼び、助けて下さいと言って呼び、感謝しますと言って呼び、何かを尋ねるときに呼び、祈るときに呼びます。このようにみんな良い習慣になって、精神と霊魂に良い体質が身についてこそ、ことごとくいつも主を呼ぶのです。
呼ぶときに自分の事情を主に詳しく告げなくてはいけません。また一つ一つ悔い改めてこそはばかることがありません。サタンが詰問できないようにきれいに告げなくてはいけません。思い出せないなら、聖霊を受けて深く祈って聖霊の感動を受けて下さい。そうすれば霊魂、心の中にあることまで思い出されるので、そのときに告げるのです。
今、私たちは世の終わりに立っています。明日のことを分からないから毎日数千回ずつ主を呼ぶべき時です。生活の中でもいつも呼んでサタンが来れないようにしなくてはいけません。エホバに会える時に求めなさいとおっしゃったから、主が近く来られた、まさにこの時に呼び求めなくてはいけません。主は呼ぶとおりにその言葉をお聞きになり、その行いと姿を全てご覧になっています。
ところで人々はこの時代がどの地点まで来たのか話しても、その時だけです。祈り続けて主の心情を受け、聖霊で熱くしなくてはいけません。聖霊が心を感動させるときに動いて行動し、昔の位置の生き方をさっと捨てて離れなくてはいけません。
将来に押し寄せて来る患難を考えてみて下さい。恐ろしく想像もつかない、聖書で言ったあらゆる患難が私たちの前に迫って来ています。まるで幼いおちびちゃんたちが海辺で夢中になって遊んでいるときに、数百メートル先から40〜50mの高さで波が押し寄せて来るのを見ているのと同じです。
原子爆弾が爆発する一日前にさえ分かっていたなら、誰がそこにいたでしょうか。ある車が事故に遭う車だということを分かっていたなら、誰がその車に乗ったでしょうか。墜落する飛行機であると分かっていたなら、誰がその飛行機に乗ったでしょうか。奇岩絶壁から落ちるということを分かっていたなら、誰がその日、登山に行ったでしょうか。ノアの時代にあのようになると分かっていたなら、船に乗らない人がいたでしょうか。ロトの時代にあのようになると分かっていたなら、ロトと一緒にソドムとゴモラの町を抜け出さない人がいたでしょうか。
ただ避け所になられるエホバ神様と主を心から呼んで避けなくてはいけません。この時代の人々はノアやロトの時代と同じく患難の前日までも、その日その時間までも自分がしていたことをそのままやっているうちにその日を迎えることになるでしょう。
ところで、ある国は主権者の主権と統率に縛られて信仰の自由がないため、思うままに神様とイエス様を信じられずに生きています。それでは無神論者、独裁者、悪い主権者たちの下で生きている人たちは余りにも無念でかわいそうなので、「どうして神様は彼らを50〜60年以上そのままにしておかれるのだろうか。」「全知全能な神様が『彼らを信じないで私を信じなさい』と一言だけおっしゃればみんなひっくり返るだろうに、どうしてそのようになさらずにやきもきなさっているのだろうか。」と考えが深くなりました。
こんな考えが結局人々に「神様はいない」と言ったり、あるいはことを解決してくれる人を見て「見える人が最高だ」と言い、「大国が力があり、主権者が能力者だ」と考えさせるのだと理解できました。自分が困難なときに神様を呼び求めたけれど助けてくれなかったから信じなくなった人たちもたくさんいます。
しかし神様とイエス様を信じるのは、ある困難な問題を解決してもらうためより、霊魂が救われるためであり、これが根本です。神様の全知全能さは、ただ神様の御心のための全知全能であって、人間が願う意向のための全知全能ではない、と主は話して下さいました。人間が願うことばかりをしてくれていたら神様の御心を成すことができません。
神様は人間が自ら信じるように責任をお与えになったし、また神様を信じなくて罪を負ったらその罪の代価を受けることになり、結局その罪の代価によって永遠な苦痛の世界に行くことになります。
それなら悪い主権者の下に生きている弱者たちは彼らと一緒に死亡の道へ行かなくては行けないから本当に無念ではないでしょうか。父の罪によって子供たちも一緒に苦痛を受けることになり、民族の権力者と主権者たちの罪によって民たちも一緒に苦痛を受けて地獄の生き方をすることになるのです。
だから今日の御言葉で「神様を呼びなさい」と言ったのです。主権者たちや強者たちを通して受ける苦痛が悔しいから、神様を呼べば解決してあげようとおっしゃいました。北朝鮮も隠れて信仰生活をしています。中国も宗教の自由がないようですが、福音を伝える人たちと教会があって信じる人たちは自分が望めばみんな信じています。
今このとき私たち皆は主の名を呼ばなくてはいけません。最後まで呼ぶ人は万事うまくいくことを信じます。主を呼べば霊肉で必ず願っていることが解決されます。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/
本文 使徒行伝2章21節
使徒行伝4章12節
使徒行伝2章21節 『そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』
使徒行伝4章12節 『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。』
ハレルヤ!主の御名で平安を祈ります。
今日、主が下さる御言葉は「誰でも私イエスを呼びなさい。そうすれば救いを得るだろう。」です。
世の中の人々を見渡します。彼らは誰を呼びながら生きていますか。誰を呼びながら救われようとし、誰を呼びながら成功しようとしていますか。どうして全能者、神様と主を呼ばずに他の人や偶像の神を呼んで天の国、天国に行くことができるでしょうか。
イエス様が遣わされた使命者たちに従って主の前に来て、主を信じて救われることは、理致に合う話ですが、自分が救うと言ったり、まるで自分が天国の主人として天国に入らせるかのように、自分に仕えなさいと言う人たちは全て人間偶像です。天下にイエス・キリストの他には神様が時代を救う救い主としてお遣わしになりませんでした。
騙されないで毎日主の名を呼ばなくてはいけません。しかし主を、しもべを呼ぶように、使いを呼ぶように、必要なときだけ呼ばないで、威厳と尊敬と愛で仰ぎ見て呼ばなくてはいけません。助けのために、救いのために呼ぶこともありますが、さらには主の心情を慰めて差し上げ、力になって差し上げ、頼りにならなくてはいけないのです。主の心情を知る人は主が「真に愛する人」だとおっしゃいました。
主の名を呼ぶことも習慣になってこそ呼びます。習慣にならなければ、ある問題があるときだけ求めます。主を呼ぶ理由もいろいろあります。救いのために呼び、愛するから呼び、辛いと言って呼び、好きだと言って呼び、助けて下さいと言って呼び、感謝しますと言って呼び、何かを尋ねるときに呼び、祈るときに呼びます。このようにみんな良い習慣になって、精神と霊魂に良い体質が身についてこそ、ことごとくいつも主を呼ぶのです。
呼ぶときに自分の事情を主に詳しく告げなくてはいけません。また一つ一つ悔い改めてこそはばかることがありません。サタンが詰問できないようにきれいに告げなくてはいけません。思い出せないなら、聖霊を受けて深く祈って聖霊の感動を受けて下さい。そうすれば霊魂、心の中にあることまで思い出されるので、そのときに告げるのです。
今、私たちは世の終わりに立っています。明日のことを分からないから毎日数千回ずつ主を呼ぶべき時です。生活の中でもいつも呼んでサタンが来れないようにしなくてはいけません。エホバに会える時に求めなさいとおっしゃったから、主が近く来られた、まさにこの時に呼び求めなくてはいけません。主は呼ぶとおりにその言葉をお聞きになり、その行いと姿を全てご覧になっています。
ところで人々はこの時代がどの地点まで来たのか話しても、その時だけです。祈り続けて主の心情を受け、聖霊で熱くしなくてはいけません。聖霊が心を感動させるときに動いて行動し、昔の位置の生き方をさっと捨てて離れなくてはいけません。
将来に押し寄せて来る患難を考えてみて下さい。恐ろしく想像もつかない、聖書で言ったあらゆる患難が私たちの前に迫って来ています。まるで幼いおちびちゃんたちが海辺で夢中になって遊んでいるときに、数百メートル先から40〜50mの高さで波が押し寄せて来るのを見ているのと同じです。
原子爆弾が爆発する一日前にさえ分かっていたなら、誰がそこにいたでしょうか。ある車が事故に遭う車だということを分かっていたなら、誰がその車に乗ったでしょうか。墜落する飛行機であると分かっていたなら、誰がその飛行機に乗ったでしょうか。奇岩絶壁から落ちるということを分かっていたなら、誰がその日、登山に行ったでしょうか。ノアの時代にあのようになると分かっていたなら、船に乗らない人がいたでしょうか。ロトの時代にあのようになると分かっていたなら、ロトと一緒にソドムとゴモラの町を抜け出さない人がいたでしょうか。
ただ避け所になられるエホバ神様と主を心から呼んで避けなくてはいけません。この時代の人々はノアやロトの時代と同じく患難の前日までも、その日その時間までも自分がしていたことをそのままやっているうちにその日を迎えることになるでしょう。
ところで、ある国は主権者の主権と統率に縛られて信仰の自由がないため、思うままに神様とイエス様を信じられずに生きています。それでは無神論者、独裁者、悪い主権者たちの下で生きている人たちは余りにも無念でかわいそうなので、「どうして神様は彼らを50〜60年以上そのままにしておかれるのだろうか。」「全知全能な神様が『彼らを信じないで私を信じなさい』と一言だけおっしゃればみんなひっくり返るだろうに、どうしてそのようになさらずにやきもきなさっているのだろうか。」と考えが深くなりました。
こんな考えが結局人々に「神様はいない」と言ったり、あるいはことを解決してくれる人を見て「見える人が最高だ」と言い、「大国が力があり、主権者が能力者だ」と考えさせるのだと理解できました。自分が困難なときに神様を呼び求めたけれど助けてくれなかったから信じなくなった人たちもたくさんいます。
しかし神様とイエス様を信じるのは、ある困難な問題を解決してもらうためより、霊魂が救われるためであり、これが根本です。神様の全知全能さは、ただ神様の御心のための全知全能であって、人間が願う意向のための全知全能ではない、と主は話して下さいました。人間が願うことばかりをしてくれていたら神様の御心を成すことができません。
神様は人間が自ら信じるように責任をお与えになったし、また神様を信じなくて罪を負ったらその罪の代価を受けることになり、結局その罪の代価によって永遠な苦痛の世界に行くことになります。
それなら悪い主権者の下に生きている弱者たちは彼らと一緒に死亡の道へ行かなくては行けないから本当に無念ではないでしょうか。父の罪によって子供たちも一緒に苦痛を受けることになり、民族の権力者と主権者たちの罪によって民たちも一緒に苦痛を受けて地獄の生き方をすることになるのです。
だから今日の御言葉で「神様を呼びなさい」と言ったのです。主権者たちや強者たちを通して受ける苦痛が悔しいから、神様を呼べば解決してあげようとおっしゃいました。北朝鮮も隠れて信仰生活をしています。中国も宗教の自由がないようですが、福音を伝える人たちと教会があって信じる人たちは自分が望めばみんな信じています。
今このとき私たち皆は主の名を呼ばなくてはいけません。最後まで呼ぶ人は万事うまくいくことを信じます。主を呼べば霊肉で必ず願っていることが解決されます。
元記事はこちらですhttp://cgm.or.kr/〔本文〕
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。
今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。
人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。
この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。
神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。
今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。
元記事はこちらですhttp://http://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111754
ルカによる福音書17:22−30
創世記19:12−17
ハレルヤ!主の平安を祈ります。
イエス様はイスラエルで肉の体をもって弟子たちと共にいらっしゃったとき、世の終わりの日、つまり人の子が来る日について弟子たちに話して下さいました。
今日の本文の御言葉(ルカ17:22−23)を見ると、イエス様は
「私が来るその日に皆、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。いなづまが東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来る。」とおっしゃいました。この御言葉は
「人の子が来るとき瞬間だから見られない。」という御言葉にもなるし、「2000年後に成されるからあなたがたの肉では見られない。」という御言葉にもなります。
主の再臨は人間たちが考え想像したとおりに成されず、神様が計画なさったとおりに成されます。人々は主の再臨について、聖書の御言葉を基準としていろいろと想像しながら自分なりに考えています。引き上げについて「どういうふうに引き上げられるのか。」、「主が私たちをどのように連れて行くのだろうか。」と考えて疑問を抱きます。しかし私たちがすべきことは「どのように準備し完全に備えておこうか。」です。これが私たちにとってより急ぐことであり、必ずすべきことです。
聖書に記録されていますが、具体的に主が解釈をして下さってこそ、主が再臨なさるということを分かるし、再臨なさった主にどのようについて行くのかも分かります。
今日の本文の御言葉(ルカ17:25)を見ると、イエス様は人の子が来る前の兆候と時代の現象について語られました。
「時代が人の子に苦難を与え、人の子は捨てられるだろう。」とおっしゃいました。
イエス様がイスラエルに現れたとき、その時代は人間を救いに来られたイエス様を捨てて殺しました。その時代の人はイエス様について行く人々も捨てました。迫害し、苦難を与え、あらゆる苦痛を与えました。そしてその時代に主が遣わした使命者たちが福音を伝え、イエス様をメシアとして証すると、追い払い、排斥しました。
救い主とその方が遣わした人たちを排斥し不信したら、それ以上救いの歴史を広げることができないのです。だから結局、救おうとする人たちと救われようとする人たちが苦痛を受けるようになり、それに該当する苦痛の道を行くようになり、その時代はそれによって裁かれるようになります。
イエス様が肉の体をもって直々に福音をお伝えになったとき、歴史は花を咲かせ、希望の歴史が起こりました。しかし主は不信者たちによって十字架に付けられて亡くなり、弟子たちも苦難を受けるようになりました。主は当世にできなかったことをするために聖霊を約束なさり、使徒たちは神様が下さる聖霊の恵みを受けて最後の歴史を広げ、福音を伝えました。そして引き続き民族は大患難と戦争によって廃墟になり、滅びるようになりました。
イスラエル民族はほとんどいなくなるかのようにしました。
今この時代も、メシアでいらっしゃるイエス様がイスラエルに現れた時と同じく、時代がイエス様を排斥し顔を背けています。主を信じる宗教が機能を発揮できずに死んでいると、主は十字架を負っているのと同じで、時代の使命者たちも捨てられ排斥されます。
私たちが主を信じると言いますが、霊で見ると主の心情を分からずに世の中に溺れて肉的に自分の思い通りに生きています。私たちのその罪によって十字架を負っていらっしゃいます。
形式的に主を信じるから、これは主を冒涜することです。
親や、子供や、愛する人のせいで心がひどく痛むことや心配の種がある人は、精神的に十字架の苦痛を受けることになります。彼らが心を痛めず嬉しいことをしたら十字架の苦痛を受けずに一緒に嬉しいのです。
この時代に主を信じて生きる人たちが、罪があるのに悔い改めず御言葉に従順しなくてサタンに引っ張られて行い、死亡と暗闇に属して生きたら、主はその人を生かすために代わりに十字架の苦痛を受けることになります。主は罪人たちのために今この時代にも十字架を負っていらっしゃいます。これを悟って早く主の御言葉を聞いて従順してこそ主に苦痛を与えなくなります。
主が願われる御心どおりに従順して生きられず、主の心情を分からず、主を愛さずに生きる人たちは、主を毎日十字架に付ける人です。そういう人がどうやって主の新婦になることができ、天国に行くことができるでしょうか。だからきれいに悔い改めて主の御言葉に従順しなくてはいけません。
主が私たちの霊魂を救うためには代わりに十字架を負わなくてはいけないし、主が私たちの罪を代わりに負っていらっしゃるときに早く悔い改めて主と一体になれば、救われて生きることができます。しかしそうしなければ主だけ十字架の苦痛に遭うことになり、無念に終わってしまうことになります。
救いは私たちが主を信じさえすれば成されるのではありません。救い主でいらっしゃる主は想像もつかない代価をお支払いになることで私たちをお救いになるということを必ず悟らなくてはいけません。自分を救う主を十字架に付けておいてサタンと交わって生きる無知な行為を教えてあげたから、もう止めて主に従順しなくてはいけません。
メシアでいらっしゃる主の価値を分からなくては救われることもできないし、救いを受けたとしても喪失することになります。人生、一生の間もがいて救いを成すのです。一生もがいて救いを得ても救われさえしたなら永遠な有益です。永遠に天国で暮らすからです。
人間の体が汚れたら洗えばきれいになります。服が汚れたら新しい服に着替えたり洗濯して着ればきれいになります。人間の心と行いが腐敗して汚れたら悔い改めてこそなくなります。悔い改めることによって贖罪しなくてはいけません。永遠に罪をなくして下さるイエス様の御名で神様に一つ一つ告げて悔い改めて赦してもらわなくてはいけません。
そしてその後には主がさせるとおりに従順しながら生きなくてはいけません。イエス様を救い主として信じ、救われてこそ、自分の霊が天国に行くということをはっきりと信じて生きなくてはいけません。そして肉もそれによってこの世に生きながら完全に天に属した人になって義のある人に生まれ変わり、新しく生きなくてはいけません。主に救われた人は主の御心どおりにだけ生きなくてはいけません。これが「救われた生活の証票」です。
いつの時代でも腐敗し、汚くなり、真より偽りの中に生き、人間を中心として生き、人間の感情のままに天を遠ざけ、肉的に生きると、神様がその時代に遣わした人まで苦痛を受けることになります。
神様がお裁きになる前、最後の時を見ると、その時代の人々は最後の行為をします。縮小して個人を見ても、個人の最後の時になると、特に滅亡に行く人はこの上なく肉的に自分の考えと感情のままに生き、自分が好きなことに溺れて生きます。
聖書を見ると、終末の時に現れる兆候について出てきます。自分を劇的に愛し、異性に劇的に溺れて暮らし、お金と物質を愛し、愛が冷めて冷酷になり、人々に残忍に過酷に接して人生を生きると言いました。これによって乱れるままに乱れ汚れた人々と使いようのない世の中になるかと思って神様は手を付けられます。
人間たちの乱れた心と行いに神様が手をお付けになる時は兆候が現れます。あちこち自然を通しての災害と苦痛の現象が起こり、病気が生じ、戦争が起こり、人と物質の間に失望することが起こって希望が壊れます。そうして終局には裁きの日が迫って滅亡することになります。悪の世界が裁かれると、ノアの時代のノアのように、ソドムとゴモラの町のロトのように、より義なる人たちが残されてまた歴史を広げるようになります。
今日の本文の御言葉に出てくるノアの時代とロトの時代のように、2千年前イエス様がイスラエルに現れたときも、ちょうどノアの時代と同じだったし、ロトの時代と同じでした。みんな裁かれるその日を知りませんでした。
終末の時その時代を見ると、ちょうど裁かれる前のノアの時代とロトの時代の人々と同じく、義が底をつき、不義は天までそびえ、義人を探しても見出せません。ロトの時代にも数十万人の中に義人を探しましたが、義人十人がいなかったし、ノアの時代にも実際義人十人がいませんでした。ロトの時代には義人がやっとロトとその娘二人の、三人だったし、ノアの時代にはやっとノアの家族八人だけでした。彼らだけが肉体も生き、霊魂も生きる救いを受けました。
義人はそのように稀です。
義人一人がどうするかによって一つの町や一つの民族の運命が左右されます。義人が金とダイヤモンド、トラック一台分よりも貴いということを知らずに生きています。神様と主がご覧になると義人はすべての国家や社会や都市で本当に貴い人として宝物トラック十台分よりも貴く価値あるように神様と主がお使いになります。ところがこの世はこのことを知らずに生きています。
義人が裁かれる人たちの運命をどれほど左右するのか悟らなくてはいけません。義人のおかげで死ぬべき人が生き、義人のおかげで神様の裁きが左右されるということです。ロトの時代、ノアの時代、イエス様の時代もそうでした。どの民族、どの都市も同じです。
この世で今まで神様をよく信じ、イエス様を愛しながら暮らしている地域なのに無念にも裁かれたところがありますか。過去を振り返って、神様の裁きを受けたと思う地域を思い浮かべてみて下さい。どんな地域だったのか見て下さい。果たして神様を愛して生きている所だったのか、偶像に仕える所だったのか、互いに憎んで争っていた所なのか、神様の御心どおりに生きるより自分たちが好むとおりに生きていた所だったのか、みんな考えてみて下さい。
悟って学んでこそ神様をもっと知って信じるようになります。
この世に目を開いた人は、この世を発見してそれを享受しながら満足して生きます。天の世界に目を開いた人は、天の世界を発見してその世界に行ってこそ満足します。
この世のすべての物が自分の物だとしても死んだら終わってしまいます。この世でどんな栄光を享受した人も、天の国、天国に行けずに死亡の地獄のほうへ行くとしたら、地獄に行ったとき、この世で甲斐を享受したことがたったの1分も有益になりません。すべて後悔されるだけです。
この世で享受した栄光がすべて過酷な後悔として戻ってきます。
この世で90歳まで生きたある人が、富み、栄華を享受し尽くして、この世であらゆるものを享受し尽くして生きたとしても、その霊魂が天国の救いを受けられずに地獄へ行くとしたら、その人を見て絶対に幸せだとは言いません。地球世界がみんなその人を見てうらやみ、幸せな人だと言っても、その人を見て絶対に幸せな人だとは言いません。幸せとは、永遠にずっと幸せであってこそ幸せだというものです。縮小して人生の一日を見ましょうか。ある人が一日中、富み・栄華と名誉を享受して一日を過ごすから、自分も人々もみんな幸せだと言いました。ところが翌日に死んでその霊魂が地獄へ行きました。果たしてその人生が幸せな人生だと言えますか。
「不幸になるために昨日あのように生きたんだ。地獄を前にしてあの世の使者のご飯を食べたんだ。」と言うでしょう。
人生を分かって生きなくてはいけません。分かって享受しなくてはいけません。分かって話し、主張しなくてはいけません。
人生一生を縮小して、一日を生きるときに、空腹と貧しさと踏みにじられることの中で、誰一人分かってくれる人もいなくてさびしく生きる人がいます。その人は着ることができず、食べることができず、享受することができず、あらゆる苦痛を受けながらもイエス様を信じて楽しんで、それでも幸せだと言って生きました。その人も死にました。その霊魂が天国に行きました。永遠に幸せな世界へ行きました。
「あの人の一日は天国に行くためのもがきの生き方だった。」と言うでしょう。その人の苦痛も実際は幸せな生き方だったのです。
神様はアブラハムと義人について対話なさり、すぐに天使をソドムとゴモラの町に遣わされました。旅人のような彼らが城門を通過して、日が薄明るい頃に町の人々に道を尋ねると、人々が道を教えてくれました。道を尋ねた人たちは、神様が遣わした天使たちでした。天使が人間のように見えて対話するからみんな分からないでしょう。そういうことがよくあります。現実にもあります。
神様が遣わした天使たちに道を教えてくれた人たちの中の一人はロトでした。
ロトは彼らを丁重にもてなしました。
ロトは家に帰って天使たちに食事をご馳走しました。彼らは「遠い道を来て疲れているからもう寝ます。」と言いました。このとき町の人々がロトの家を取り囲んでロトを呼び出し「あなたの家に来た人はどこにいるのか。私たちは彼らを把握しなくてはいけない。この町に害を与えに来た人ではないのか。」と言いました。ロトは絶対違うと言いましたが、町の人々は過酷にロトを押しのけました。
ロトは「私に二人の娘がいるが、男を近づけたこともない。あなたがたが連れて行って好きなように行いなさい。そして私の家に来たあの人たちは私が責任を負って一晩泊めて見送ろうと連れて来たからどうか手を付けないでくれ。ただ寝るところがない旅人をもてなそうと思うと言ったのに、あなたがたがこんなふうにしたらどうなるんだ。絶対だめだ。」と言いました。
ロトは客のもてなしをこのように立派にしました。このくらいにしてこそ客をもてなしたと言うのです。食べる物だけもてなすのが全てではありません。天使たちもロトの義なる行為を見ました。自分の娘たちまで犠牲にしながら自分たちを助けるその責任分担の行為を見ました。ロトは平素いつもそのようにしていて、この日はソドムとゴモラの町を裁くために神様が遣わされた天使たちを家に案内してもてなしたのです。
町の人々はロトの言葉を信じず、ロトを押しのけて戸を引っ張り篭城をしながら平素の行為どおりに血気を振るって荒々しくしました。彼らが最後に戸を引っ張る瞬間、部屋にいた天使たちが見かねて出て行って彼らを押しのけ、ロトの手をつかんで部屋の中へ引き込み、外にいる人たちの目を暗くして何も見えないようにしました。
彼らは見えないから出入り口を越えられなくて転び、結局散らばりました。
天使たちがロトに
「ロトよ、あなたに属している人がここに見える人でなくもっといますか。あなたの婿や、嫁がせた娘や、兄弟たちがいるなら、早く呼び集めて下さい。エホバ神様が今日の夜この町を滅ぼしなさいと私たちを遣わされました。私たちは神様の使者たちです。ロトよ、早くあなたに属している人たちを探して集めて下さい。」と言いました。
ロトはとても驚きました。天使たちは
「時間がありません。迅速に動かなくてはいけません。夜明け前にこの町を抜け出さなくては助かりません。」と言って急いでいる話をしました。ロトはすぐに娘たちと婚約している婿たちのところに行って、神様がこの町を滅ぼすから早く抜け出さなくてはいけないと言いました。しかしその言葉を信じず冗談だと思いました。
ロトがそのまま家に帰って来ると、神様の使者たちである天使たちが
「では、ここにいる娘たちとあなたの妻と共にここを離れて下さい。エホバがすぐにこの町を滅ぼされます。引越しの荷物も包まないで体だけ行かなくてはいけません。何も手に持たずに明け方、東の空が明るくなるときに離れなくてはいけません。今から妻の手を取って下さい。二人の娘の手を取って下さい。時間がありません。この町を離れて行きながら振り返って眺めたり止まっていたら滅亡を避けることができません。あそこの山まで、最後まで急いで行かなくてはいけません。」と言いました。
このときロトは遅れていました。このとき天使が急ぐ言葉で急き立てました。
「今がいつの時代だと思って他の事を考えて余裕を見せているのですか。緊張して稲妻のように行わなくては助かりません。時間がありません。」と言いました。
天使はいろいろとせっぱ詰まって死ぬという話をしましたが、ロトが引き続き遅れているのでだめだと思って最後にロトとその妻と娘たちの手をつかんでその家から引っ張り出しました。
現実に主と天使たちが私たちに行われる立場と同じです。いろいろとせっぱ詰まった話をしても遅れている私たちをご覧になって結局主は私たちの手をつかんで引っ張り出していらっしゃいます。霊的に見ると、主は言葉で言ってもだめだから手を引っ張って連れて来られます。
肉的に見ると、伝道者や使役者たちによって手をつかんでその位置から引っ張って来られます。
結局ロトとその家族は天使たちの手に導かれて家から出て来ました。天使が「行く途中で後ろを振り返ったり、行く途中で止まったりしたら命を保つことができません。あそこに見える山まで振り返らないで最後まで行かなくてはいけません。」と言いました。結局天使はロトの家族四人を見送りました。
神様が定めた時間、その日とその時は誰も分からないという、その時間になりました。ロトとその妻と二人の娘たちがその町から逃げるとすぐ、空から火の雨が降り注ぎ始めました。火の雨は町全体を覆って一人も残らず、アリの子一匹も残らず、生きのあるものたちは全て火で燃やしました。地下まで溶鉱炉のようになってしまいました。
どれほどすさまじく瞬く間にソドムとゴモラの町が火の海になったのか、それと類似したポンペイの遺跡を通して想像することができます。人々が焼け死んだりもしましたが、男女が抱きしめたままで固まって花崗岩になったりもしました。後世にも見なさいとそのようにしたのです。
その町は火山による灰の山が12mも高く積もっていて、男女が抱きしめている姿が残っていて、彼らが神様がごらんになるとどれほど腐敗し不法を行なって生きたのか、そのときの生活の様子と痕跡がそのまま残って証しています。一瞬でそのようになったのです。
ロトの妻はあれほどにも天使が後ろを振り返るなと言ったのに後ろを振り返って塩の柱になってしまいました。どうして振り返ったのでしょうか。天使の言葉を信じられなかったから、死を懸けて振り返り、燃える町を眺めていたのです。
今は主が皆の手をつかんでお導きになります。
悟ってこそ、神様が行われることなのか、偶然に起こることなのか、聖書にすでに記録された時が来たのか、再臨による現象なのか、分かるようになります。
主が遅れている私たちの手をつかんで導き出される時です。止まっていたり振り返って見ないで行かなくてはいけません。
聖書のらい病人たちが、イエス様が通り過ぎられるときに「ナザレのイエスよ、私を救って下さい。」と言ったように呼ばなくてはいけません。(マタイ8:2−3、マルコ10:47−52)
そのとき主を呼んだらい病人たちはみんな治って一生喜んで生きたし、そのとき呼ばなかった人たちはらい病を患って死にました。生きていたときも地獄の苦痛を受けながらいろいろと卑しんでないがしろにされて暮らして死んだし、死んだ後にもその霊魂が地獄の苦痛を受けることになったのです。いつの時代でも、王の王でいらっしゃるイエス様の前に条件を立てるべきことは誰でも同じであり、自分が呼び求めて信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
呼んで信じる条件を立ててこそ主がお救いになります。
今は心から主を呼んで生きなくてはならない時です。
元記事はこちらですhttp://http://www.hananim.or.kr/mboard.php?bcode=god_word&mode=read&page=1&cat=&part=&keyword=&bidx=111754

