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<title>摂理のほんやくコンニャク</title>
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<description>世界の摂理は広い！摂理の海外情報を勝手にほんやくするブログです。</description>
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<title>心を動かし体を癒された神様</title>
<description> 証　文：チョン・ヒジョン（仁川ソンビッ教会青年部）心を動かし体を癒された神様私が摂理に初めて来たとき、16歳でした。摂理に出会う前から健康に問題があった私は、病名すら詳しく分からなかった病気によって、次第に信仰が怠惰になるようになりました。体が少しずつ悪くなり、どうして私にこんなことが起こるのかと恨む心が生じ、結局神様とイエス様を頼みの綱としました。偶然にも再会した友達の助けで教会へ来はしましたが、
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<![CDATA[ <span style="font-size:x-small;"><strong>証</strong>　文：チョン・ヒジョン（仁川ソンビッ教会青年部）</span><br /><br /><strong><span style="font-size:x-large;">心を動かし体を癒された神様</span></strong><br /><br />私が<strong>摂理</strong>に初めて来たとき、16歳でした。<strong>摂理</strong>に出会う前から健康に問題があった私は、病名すら詳しく分からなかった病気によって、次第に信仰が怠惰になるようになりました。体が少しずつ悪くなり、どうして私にこんなことが起こるのかと恨む心が生じ、結局神様とイエス様を頼みの綱としました。<br />偶然にも再会した友達の助けで教会へ来はしましたが、以前よりさらに悪くなった体を皆に見せるのが嫌で、自分の心とは異なる明るい教会の雰囲気に適応することができませんでした。極度に落胆していたある日、先生が夢に現れて「主があなたのことを分かっていらっしゃる。」とおっしゃいました。しかし私はその意味をよく分からないまま過ごしました。<br />10代のときから体に異常な症状がありましたが、20代になって教会に再び来るようになって、わたしの病名が「パーキンソン病（脳の神経細胞が原因、気づかないうちに退化して発生する神経系の障害）」だということを知るようになりました。手術を受けたかったのですが、家庭の暮らし向きが良くなかったので、薬物治療だけ受けていました。そうして体の状態がさらに悪くなるので、無気力な肉体を引っ張って教会へ出かけることすらわずらわしくなり、家に一人でいる日が多くなりました。<br />そんなときに先生は私の夢にまた現れて「すっかり良くなるから心配するな。」と言って下さいました。その後、手術を受けることができるようになり、震える心で手術を待っていたある日、友達が電話してきて「ヒジョン、今までお疲れ様。」と言いました。その言葉は誰より私の心を推し測ってくれる言葉でした。病魔と闘いながら過ごしてきた私にとって、イエス様が友達を通して言って下さった、思いやりのある温かい愛がこもった声だということを心情熱く感じました。手術の成功と早い回復についてあらかじめ教えて下さった啓示でした。<br />2008年、手術を契機に私と共になさるイエス様を悟るようになり、心も体も少しずつ変化しました。手術後一番先にしたかった月明洞訪問は、神様が私に下さったとても大きなプレゼントでした。両手を広げて喜んで迎えて下さった月明洞のイエス様の像と、その日、人を通して祈って下さったことを忘れられません。そして先生が摂理の全ての体調の悪い人々のために、イエス様に治して下さいと熱く祈って下さったその週、勇気を出して仁川の巡回に行くことになりました。<br />以前はボタンをはめるような細かいことができなかったけれど今はうまくできるし、他の人が100字書く間にやっと一、二文字を書いていた私が、他の健常者たちと特に変わらず書くし、歩くのが大変で車椅子に乗ったり杖を突いて歩いていた私が、今は歩けるようになりました。タオルもはたけなかった私が布団をはたいていることに気づいたときの喜びは、とうてい言い表せないほどに大きいです。ハレルヤ～<br />私は今、始まりという出発点に立っています。根気強くリハビリを並行しながら肉体の健康を求め、御言葉を通して心の病も治していくつもりです。本当に神様の奇跡があると申し上げたいです。イエス様が私に見せて下さった愛と癒しの働きに応える道は、絶対信仰によって、私のように体と心が病んでいる人たちに神様とイエス様の愛を証することだと思います。神様、イエス様、感謝します。私がもらった愛を実践して生きていきたいです。 <br /><br /><br /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/149.gif"  class="emoji" style="border:none;" /><strong>摂理</strong>の月刊誌「チョウンソリ」2-3月号より<br />この記事はこちらのサイトでも読むことができます<a href="http://cgm.or.kr/" target="_blank">http://cgm.or.kr/</a> ]]>
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<dc:subject>チョウンソリ</dc:subject>
<dc:date>2009-11-21T11:16:16+09:00</dc:date>
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<title>私に現れたイエス様</title>
<description> 証　文：チャイ・ジョンハン（蔡忠漢、台湾ミョンウォル教会）私に現れたイエス様私は、イエス様がすぐに再臨なさるから準備しなさいというメッセージを聴いたり読んだりして、「主はいつ来られるのだろうか」と考えながら緊張の中に過ごしています。「果たして私は何を準備すべきか。何を悔い改めるべきだろうか。私が罪を犯しても罪であると分からずにいることはないか。」「もし完全に悔い改めなければイエス様の再臨を迎えられ
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<![CDATA[ <span style="font-size:x-small;"><strong>証</strong>　文：チャイ・ジョンハン（蔡忠漢、台湾ミョンウォル教会）</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;"><strong>私に現れたイエス様</strong></span><br /><br />私は、イエス様がすぐに再臨なさるから準備しなさいというメッセージを聴いたり読んだりして、「主はいつ来られるのだろうか」と考えながら緊張の中に過ごしています。「果たして私は何を準備すべきか。何を悔い改めるべきだろうか。私が罪を犯しても罪であると分からずにいることはないか。」「もし完全に悔い改めなければイエス様の再臨を迎えられないだろう…。」私は心配になりました。「霊界に深く入って一つ一つ悔い改めなくてはいけないし、悔い改めになったのかはイエス様が各自悟らせてくれるだろう。」という先生の御言葉を聴いて、イエス様が私の状態を悟らせて下さることを切実に願うようになりました。<br />そんな時、深くお祈りをしていると、突然1年前の明け方のお祈りの時に見た映像が見えました。<br />当時、主日の御言葉に「天国へ行く道は狭い。」という御言葉が出ました。前へ歩き続けていると、ある方が私の前を歩いていました。その方は黒い髪に長い縮れ髪をして、白の長い外套のような服を着ていらっしゃいました。その時私は「この方がイエス様だ！」と思いました。しばらく歩くとその方が突然身を翻して手を差し伸べ、私を抱こうとなさいました。しかし私は信仰が幼かったのでよく分からなくてイエス様のほうへ行って抱かれませんでした。その時イエス様を見たことを、ただ一つの想像や、一種の信仰体験とばかり思っていました。イエス様が訪ねて来られた後にも私は3年間信仰生活をしながら、イエス様を意識できないまま暮らし、イエス様とあまり近くないということを悟りました。これを悟る瞬間、心がとても痛くて、イエス様に申し訳ないと思いました。イエス様がそれまで私に多くのことを教えて下さり、守って下さったのに、知らなかったのでした。「イエス様はいつも御言葉を通して私たちを教えて下さる。」と言ったのに、私が御言葉を間違って理解しているということさえ分かっていませんでした。御言葉を深く研究せず、ただ知識的にだけ聞きながら、御言葉をしっかり理解していると思っていました。このことまで悟ると、本当にイエス様に対してあまりにも申し訳ありませんでした。<br />この時イエス様が現れました。イエス様の顔はぼやけて見えましたが、心配しもどかしく思って少し怒っていらっしゃるということだけ感じることができました。イエス様は「あなたがこのように御言葉を理解できないなら、私が本当に救ってあげるのが難しい。」とおっしゃってすぐに消えました。瞬間、心があまりにも苦しく、悲しく、うろたえ、心配になりました。それで思い切って顔を上げることができず、頭を地に深く下げて「イエス様、申し訳ありません。私が間違っていました。御言葉を理解できないのは全て私の責任です。もっと早く悟って御言葉を理解しようと努力をすべきでした。イエス様、私が本当に間違っていました。申し訳ありません。イエス様、私を赦して下さい。」と涙で悔い改めの祈りをしました。<br />このように祈ってからどれくらい過ぎたか分かりません。イエス様が背中を斜め後ろに向けたまま私に再び現れて「あなたが見聞きしたことを教会の牧師に話しなさい。」とおっしゃいました。私の心はいっそう軽くなり、イエス様が私を赦して下さったという感じがしました。そして本当にイエス様が摂理の一人一人を全て分かっていらっしゃるということを悟りました。<br />その後、水曜礼拝の前に準備のお祈りをしていると、またイエス様を見ました。以前と同じで白い服の長い外套のような服を着て、黒の長い縮れ髪をしていらっしゃいました。イエス様は教会の牧師がいつも説教するときに歩いて行く通路を通って壇上に上がられ、私たちのほうへ体を向けられました。その顔はとても輝いてイエス様の霊人体の写真と似ていましたが、若くて素敵な姿でした。<br />イエス様は「今日の御言葉は私が伝える。」とおっしゃり、私は「イエス様、私、必ず御言葉をよく聴きます。そして熱心に一字一字全て書いて御言葉を尊く思い、もっと真摯に御言葉を聴きます。」、「神様！私が御言葉を聴くとき、精神を集中して全精神を全て傾けて聴くことができるように守って下さい！神様！私に能力を下さい。」といいながら切実に祈りました。<br />このようにすっかり緊張していると、牧師が、イエス様が歩いて行かれた通路に沿って壇上に上がられました。そして御言葉を伝えられてまもなく牧師が突然「今日の御言葉は私が伝えるものではありません。イエス様が自らお伝えになるものです。」とおっしゃるのでした。私はこの言葉を聴いてあまりにも驚き、いっそう目を覚まして御言葉を聴き、御言葉の一言一言が全てイエス様が自ら私におっしゃっているようでした。これによって私の胸が熱くなり、感動をたくさん受けました。イエス様が熱心に御言葉を伝えて下さったからです。イエス様が直々に私たちの教会を訪問なさり、尊い御言葉を伝えて下さったことに、本当に感謝申し上げます。ハレルヤ！<br /><br /><br /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/149.gif"  class="emoji" style="border:none;" /><strong>摂理</strong>の月刊誌「チョウンソリ」2009年2-3月号より<br />この記事はこちらのサイトでも読むことができます<a href="http://cgm.or.kr/" target="_blank">http://cgm.or.kr/</a> ]]>
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<dc:subject>チョウンソリ</dc:subject>
<dc:date>2009-11-19T11:13:02+09:00</dc:date>
<dc:creator>marusum</dc:creator>
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<title>＜2009年11月15日　主日の御言葉＞</title>
<description> 霊と肉、不可能なことはない本文　ピリピ人への手紙4章12－13節ハレルヤ！主の平安を祈ります。私が明け方に祈るとき、「自分自ら存在するように自力の能力を実行し、私の能力と恵みを受けて共にしなくてはいけない。」と『自力』について悟らせて下さいました。英雄だったチンギスハンやナポレオンは、神様に仕えて生きていた人たちではありませんでした。しかしナポレオンは「不可能というものはない。」と言いながら人間の無限な
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<![CDATA[ <strong><span style="font-size:x-large;">霊と肉、不可能なことはない</span></strong><br /><br />本文　ピリピ人への手紙4章12－13節<br /><br /><br />ハレルヤ！主の平安を祈ります。<br />私が明け方に祈るとき、「自分自ら存在するように自力の能力を実行し、私の能力と恵みを受けて共にしなくてはいけない。」と『自力』について悟らせて下さいました。<br />英雄だったチンギスハンやナポレオンは、神様に仕えて生きていた人たちではありませんでした。しかしナポレオンは「不可能というものはない。」と言いながら人間の無限な可能性を見せて生きました。それだけ自力を使いながら生きたから英雄になったのです。自分の力だけではなく、人々を集めて彼らに英雄のような精神を入れてあげ、彼らもそのように生きるようにしました。だから戦争においてその精神で武装した兵士たちにかなわなかったし、その強い行動にかなわなかったのです。<br />神様を全く信じない無神論者たちを見ると、自力によって民族を立てて治めていきました。もし、神様とメシアを信じなくては到底生きるのが不可能であり、何もできず、存在することができないとすれば、みんな神様とイエス様を信じて求めて生きるしかないでしょう。しかし神様とイエス様を信じなくても生きることができるし、金持ちにもなるし、名誉も得るし、富み・栄華も享受するし、主権を行使して生きます。<br />だから神様とイエス様を信じない人たちが、信じる人たちに「現実において生きるのを見るとき、あなたがたと私たちが特別に異なることは何なのか。」と言いながら、信じる人たちに言うべき言葉を失わせます。むしろ神様とイエス様を信じなくてももっと成功し、よく享受して生きている人たちの言葉に呼応するようになります。<br />神様とイエス様を信じない人たちはお金、名誉、愛、権勢にだけ没頭するから、成功するのが当然です。<br /><br />神様は人間を創造するとき、誰でも自力によって十分に生きていけるように創造しておかれました。人は自力によって自動機械のようにものすごい仕事をします。フォークレーン、クレーン、自動車も自動化しておけば想像もつかない仕事をします。<br />車は一日千里を走っても疲れたと言いません。むしろ車に座って手足を動かしながら楽に行く人間が本当に疲れたと言います。フォークレーンは一日中地面を掘り出す作業をします。月明洞でも工事現場で見たでしょう。一日中地面を掘り出して夜にまたやっても疲れたと言いません。しかし人間はフォークレーンに乗って足だけ動かし、両手だけ動かしてやっても疲れて鼻血が出るし、疲労のため病気にかかるし、大騒ぎです。<br />人間がどうして機械をそのように強く力があって丈夫に造ったのでしょうか。皆さんがよく知っているように、人間が楽なように丈夫に造っておいたのです。人間が苦労しないように、人間が有益なように、そのように丈夫に造っておいたのです。<br />これと同じく神様が人間たちを創造なさるとき、人間自らすべきことをできるように、自ら問題を解決できるように、強く創っておいたということです。神様を信じても信じなくても、誰でも人間として自ら存在できるように丈夫に創っておきました。<br />自動車会社で車を造るとき、どの車もその車に該当するエンジンを入れてやり、その車に該当するだけの機能を作って送り出します。神様も人間をお創りになるとき、男性と女性として、その人に該当するとおりに創って送り出されました。使命どおりに十分にやり遂げるように、精神と肉体を作って送り出されました。<br />神様と主がいつも加担なさらなくても人間自ら十分に想像もつかない仕事をすることができるように創造なさったということを分かって、自らやればできるということです。みんな信仰の英雄、人生の英雄になって生きられるように創っておかれました。だから「どうしてあの人は神様も信じていないのに成功してものすごいことをしているんだろう。」と言って疑わしく思う必要はないということです。それこそ人間として不可能なことがないくらいにできるということです。<br /><br />神様だけ仰ぎ見て、神様だけ待ち望みながらじっとしていてはいけません。しかし神様だけ仰ぎ見ながらじっとしている人たちが、信じている人たちほど多すぎます。神様と主の御心を悟って御言葉を聴いたら、その御言葉どおりにさらに英雄のように生きなくてはいけません。<br />人間としてよく食べて、よく着て、名誉と権勢を持って、英雄やスターになって富み・栄華を享受することができます。神様がそのように祝福して創造しておかれたからです。創世記を見ると、「生めよ、ふえよ、万物を治めよ。」とおっしゃいました。だから漠然と神様と主だけ仰ぎ見ないで、強くやりなさいということです。<br /><br />戦争のときも全く同じです。全ての人々の自力を合わせて神様の御心を求めて行なえばダビデのように勝ちます。ダビデは天の側だったし、戦争のときに命を尽くして神様に頼り、自力を尽くして戦ったから勝ったのです。自分の自力ですべきことをしないで、神様ばかり頼っていくと勝てません。なぜですか。人間の責任を果たさずに行なったからできません。<br />人間の責任がどれほど大きな威力と勢力なのかご存知ですか。人間の責任を果たさずに主を呼んでみて下さい。主は約束どおりに共になさり、働きかけて下さいます。ところが結局敗れます。それは神様が人間を創造なさるとき、自ら行なうように絶対的な自力を下さったのに、その自力の法度にしたがって行なわなかったからです。<br /><br />今まで主がクリスチャンたちと共になさって恵みを受けて生きてきたのに、どうして信仰において敗れ、倒れ、失敗者になる人たちがいますか。主に切に求めることで主が共にして下さったし、主が私たちを愛され、私たちが主を愛することで主が共になさって恵みを下さいました。しかし自分の責任を果たさなくて人生が変わらなかったので、自分の勝利をできなかったのです。主が火のように下さるときだけ存在していたのです。クリスチャンたちの中にはこのような信仰人たちが多すぎるということです。<br /><br />神様と主を信じない人たちが誰も頼らずに劇的に行なうように、クリスチャンたち皆そのようにしなさいということです。<br /><br />最初に信仰を始めるときは自力の火がついていたのに、時間が過ぎてだんだん火が冷めて、自分はじっとしていて神様ばかり頼り、主ばかり呼ぶから弱くなるのです。<br />自分の自力の能力を行なわず主の恵みと愛ばかり受けた人は、自分の心の器に冷たい水があってそこに熱い湯をもらったのと同じですぐに冷めてしまいます。心が冷めないように続けて主の御言葉どおりに熱く自力の働きを起こさなくてはいけません。<br /><br />自力の能力、精神の能力、行動の能力、霊の能力を最大に発揮しながら神様の能力と御働きを受けなくてはいけません。これは絶対的な理論です。<br /><br />今日は自力の力とその能力の限界について話し、またそれに対する答えをしてあげました。自分の責任を果たさず、無限な能力を使わずに、神様とイエス様が下さるものばかりもらっては弱いということです。神様が皆に自力の力を無限に下さったから、各自実践しながら、神様と主を呼びながら行なって下さい。<br /><br /><br /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/149.gif"  class="emoji" style="border:none;" />元記事はこちらです<a href="http://cgm.or.kr/" target="_blank">http://cgm.or.kr/</a> ]]>
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<dc:subject>御言葉</dc:subject>
<dc:date>2009-11-18T07:48:57+09:00</dc:date>
<dc:creator>marusum</dc:creator>
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<title>勝利の足跡</title>
<description> 寄稿　文：デジタル宣教研究所企画室勝利の足跡「イエス様の御言葉を守る人だけが、その精神がイエス様の精神になり、その体がイエス様の体になって使われて生きるようになります。私たちはイエス様の国を建てるために善の戦いをする人たちです。悪に対して善で接し、敵を愛し、真理を行ない、平和にし、互いに敬ってあげ、仕えてあげ、憎む人たちのために祈ってあげなくてはいけません。」（2009年2月15日　主日の御言葉より）事
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<![CDATA[ <span style="font-size:x-small;"><strong>寄稿</strong>　文：デジタル宣教研究所企画室</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;"><strong>勝利の足跡</strong></span><br /><br /><span style="color:#990099">「イエス様の御言葉を守る人だけが、その精神がイエス様の精神になり、その体がイエス様の体になって使われて生きるようになります。私たちはイエス様の国を建てるために善の戦いをする人たちです。悪に対して善で接し、敵を愛し、真理を行ない、平和にし、互いに敬ってあげ、仕えてあげ、憎む人たちのために祈ってあげなくてはいけません。」（2009年2月15日　主日の御言葉より）</span><br /><br />事必歸正という言葉は、「正しくないことが一時的に猛威を振るうようであっても、結局長続きせず、結局正しいことが勝つようになっている。」という意味だ。神様は全世界を一貫性を持ってその目的どおりに治めていかれるので、人類の歴史は結局は善なる神様の主管圏の中で成されていく。だから神様が主管する人類の歴史には、善で義なる戦いをした人たちが残した数多くの勝利の足跡がある。<br /><br /><span style="color:#000099"><strong>マーティン・ルーサー・キング牧師（Martin Luther King Jr., 1929～1968）</strong></span><br />アメリカの浸礼教会の牧師であり、黒人人権運動家だった、マーティン・ルーサー・キング1）牧師は、非暴力主義に立脚した民権運動の指導者だった。キング牧師は民権運動をしながらFBIの監視を受け、不順人物との烙印を押され、数回の収監生活をしなくてはならなかった。キング牧師の非暴力主義は、黒人の平等権運動をより輝かせ、キングの真心から湧き出る愛の訴えは、多くの人を感動させた。結局キング牧師は、身分と肌の色を超越して全ての人間が自由と平等の中に共に暮らすように努力した一生涯の人生を認められ、1964年、ノーベル平和賞を受けることになる。永遠で絶対的なものに価値を置き、世の中の誤解と迫害に譲歩することのなかった、マーティン・ルーサー・キング牧師こそ、善の戦いの勝利者だと言わざるを得ない。<br /><br /><span style="color:#000099"><strong>マンデラ（Nelson Rolihlahla Mandela、前南アフリカ共和国大統領）</strong></span>「全ての人が同等な機会を与えられ、共に調和を成して生きる自由民主社会の理想のために、私の命まで捧げる準備ができている。」反逆罪で逮捕され、終身刑を言い渡されたマンデラが、28年にわたる収監生活を控えて、南アフリカ共和国の国民を相手に言った最後の法廷発言の一部である。<br />マンデラは反逆罪で逮捕され、終身刑を言い渡されたが、26年経った1990年2月11日に出所する。そして1994年の大統領選挙で90％を超える支持率で南アフリカ共和国初の黒人大統領に当選した。マンデラは大統領に当選して、許しと和解を強調する、過去の出来事の清算を実施する。終身刑を言い渡されて孤独でわびしい収監生活をしながらも、自由民主社会の理想のために決して引き下がらなかったマンデラ、彼は人類の歴史にまた一つの勝利の足跡を残した。<br /><br /><strong><span style="color:#000099">聖書の中心人物たちが残した勝利の足跡</span></strong><br />ヨセフは、エジプトに売られて行ったとき、無念な濡れ衣を着せられて獄に入れられ監獄生活をしたとき、想像もつかない茨の道と困難の中でも、心で、行動で、絶対に引き下がらず、最後まで神様に頼り、善をもって悪に打ち勝っていった。結局その困難と苦痛、兄弟たちの憎しみも終わった。エジプトの総理大臣になって名誉と主権を回復し、彼を憎んでいた兄弟たちを愛し、神様の歴史に勝利の足跡を残した。<br />ヨブにはいろいろな困難が突然迫ってきた。実際はサタンたちがヨブを妬んで、神様の許可の下に試みたことだった。ヨブの三人の友達はヨブを罪人として責め立て、彼の妻はヨブに、いっそ神をのろって死になさいと言う（ヨブ2：9）ヨブはあまりにもひどい心情の苦痛がたくさんあったが、耐え忍んだ。ヨブは「主が与え、主が取られたのだ。（ヨブ1：21）」「彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。（ヨブ23：10）」と言って最後まで忍耐し、神様の祝福を受けた。そういう過程を経て、ヨブは忍耐を通して神様の歴史にまた一つの勝利の足跡を残した。<br />エステルは、ハマンの謀略によって民族が抹殺されるという困難に直面したとき、引き下がることなく、断食した後、「死なねばならないのなら、死にます。」という心情で王の前に進み出て、民族の運命を変えた（エステル4：16～17）。ダニエルは、誰でも王をおいて、神または人に願い事をするものがあれば、ししの穴に投げ入れる、という脅しの中でも決して譲歩することなく、一日に三回ずつひざまずいて祈り、神様に感謝した（ダニエル6：7～10）<br />使徒パウロは、イエス様の福音を伝えたら死ぬかもしれないという環境でも「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。（使20：22～24）」と言って大胆にイエス様の福音を伝えた。<br /><br /><strong><span style="color:#000099">信仰の表象イエス様が残した偉大な勝利の足跡</span></strong><br />神様の唯一のひとり子として、限りない愛と赦しを身をもって実践なさったイエス・キリスト。イエス様はひたすら神様の御心を成そうと、御言葉を伝えて信じさせ、行なわせ、救いを受けさせようとしてこの地上に来られた。ところが無知なユダヤ宗教人たちは、何の罪もないイエス様をあらゆる陰謀を使っておとし入れ、イスラエルの全ての人たちにその偽りを信じさせ、結局十字架につけられて亡くなるようにした。しかしイエス様は最後の瞬間までも「彼らが分からなくてしたことなので彼らを赦して下さい」とご自分を十字架につけて殺す敵たちのために神様に祈られた。イエス様は全ての人類を愛され、世界の全ての人々のために十字架の死という道をお選びになったのである。十字架につけられて亡くなりながらも、神様のため、全人類の救いのために、神様の御心を成す善の戦いにおいて少しも引き下がることはなさらなかった。天国のための善の戦いにおいて、善をもって悪に打ち勝った。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。（コリントⅠ1：18）」本当にイエス様は神様の歴史、人類の歴史に最も偉大な勝利の足跡を残された方だ。<br /><br /><strong><span style="color:#000099">前進する信仰によって勝利の足跡を残そう</span></strong><br />コロンブスが新大陸を探して荒々しい波の中を切り抜けて前進していた。何日経っても見えるものと言えば茫々たる海と深い霧ばかりだった。回航しようという船員たちの恨み言が絶えなかった。航海士がコロンブスに訊いた。「船長、どう致しましょう？」するとコロンブスがこのように叫んだ。「続けて前へ！前進、また前進！」その一言は西洋史の新たな地平を開いた重大な分水嶺となった。<br />2000年前、イエス様の弟子たちは、イエス様が亡くなった後、イエス様が生前語られた御言葉を実践できなかったことを心苦しく思い、皆が一団となり、患難や迫害を恐れることなく、命をかけて福音を伝えた。世の中のどんな患難や迫害も、命をかけて福音を伝えるイエス様の弟子たちを止めることはできなかった。イエス様が世の中の罪のため代わりに十字架を負っていかれた時のもどかしい心とハンの残る心を福音を伝えながら解き、イエス様の道に従って行った弟子たちも、神様の歴史に偉大な勝利の足跡を残した人物たちだ。<br />今この時代の私たちも、信仰の第一線において絶対に引き下がらないようにしよう。毎日明け方を呼び起こして感謝と悔い改めで祈り、清くなり、新しく変化して前進しよう。地球村をイエス様・キリストの福音で波打たせ、勝利の足跡を残そう。<br /> <br /><br /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/149.gif"  class="emoji" style="border:none;" /><strong>摂理</strong>の月刊誌「チョウンソリ」2009年2-3月号より<br />この記事はこちらのサイトでも読むことができます<a href="http://cgm.or.kr/" target="_blank">http://cgm.or.kr/</a> ]]>
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<dc:subject>チョウンソリ</dc:subject>
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<title>「天国は本当にある」を読んで</title>
<description> チョウン本　文：ぺ・ジェヨン牧師「天国は本当にある」を読んで「天国は本当にある」（トマス・チュナム著、チョ・ヨンギ訳、ソウル出版社、2003）は韓国系アメリカ人トマス・チュナム女史が、イエス様の特別な恵みによって選ばれ、過去7年間、天国へ実に17回も行って来たという驚くべき体験を記録した本だ。1996年1月にイエス様と共に行って来た一連の天国訪問は、彼女の人生と運命を変え、ついにこの注目すべき本を誕生させた。
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<![CDATA[ <span style="font-size:x-small;"><strong>チョウン本</strong>　文：ぺ・ジェヨン牧師</span><br /><br /><span style="font-size:x-large<strong>;">「天国は本当にある」を読んで</strong></span><br /><br />「天国は本当にある」（トマス・チュナム著、チョ・ヨンギ訳、ソウル出版社、2003）は韓国系アメリカ人トマス・チュナム女史が、イエス様の特別な恵みによって選ばれ、過去7年間、天国へ実に17回も行って来たという驚くべき体験を記録した本だ。1996年1月にイエス様と共に行って来た一連の天国訪問は、彼女の人生と運命を変え、ついにこの注目すべき本を誕生させた。この本は特にチュナム女史がイエス様に直接会って見聞きしたことを記録しているので読者たちに感動と霊的な悟りを与える。トマス・チュナム女史は、イエス様に対する愛によって霊魂の救いのための責任感を感じて家族全員を伝道し、彼女が出会う全ての人に影響を与えている。この本はアメリカで出版された後、多くの国の言語に翻訳され、数十万人の人々が読み、数多くの人々に霊的な覚醒を呼び起こしてくれた本だ。<br />しかしキリスト教では、聖書の完成と共にそれ以上特別啓示はないと考えているため、イエス様の声を聞いたというチュナム女史を異端視し、本の内容が聖書的でないと批判したりもした。しかし神様の歴史は今も進行中であり、神様は御心をお広げになるためにいつの時代も特別啓示を始めとして、自然万物を通しての自然啓示、そして夢や幻、夢うつつのような超自然啓示を与えていらっしゃるということを考えるとき、チュナム女史を通してのイエス様の切実で切迫したメッセージは、この時代に対する預言者の叫びであるということを、私たちははっきりと認識すべきであろう。<br /><br /><strong>イエス様との出会いと天国訪問</strong><br />平凡な主婦であったが、イエス様を真実に愛していたチュナム女史の告白は、私自身に霊的な戒めを悟る心がけを呼び起こしてくれた<span style="color:#00cccc">。「どうしたことか神様は、ご自分の特別な働きのために私を選ばれました。主イエス様は、私が何よりもまず、主イエス様を知るようになり、主に従う事を学んで、主だけを仰ぐ事を願うと語ってくれました。主は私に、天国とそのほかの全ての幻を体験する特権を与えてくださいました。このようにされながら私は、主が呼ばれた働きのために準備をするようになったのです。」</span><br />チュナム女史は心が純粋で、イエス様に従順する娘だった。イエス様はチュナム女史を信頼なさった。それゆえに重要な働きのためにチュナム女史を選んだのだと私は信じる。そしてイエス様がチュナム女史を訪問するたびに見せて下さった姿は、時には友達のようで、時には親のようで、時には恋人のようで、全ての命に対するイエス様の愛を切々と感じさせてくれた。本を読みながら、本当にイエス様の心で全ての人に接するなら、自然に天国が成されるだろうと思った。<br />天の国、天国は既に準備されており、イエス様は早く来られるとおっしゃった。またイエス様は主の数多くの子供たちが天国に行くことを切実に願っていらっしゃり、地獄は実際に存在するというもどかしい心情を伝え続けていらっしゃった。イエス様が早く来ることを切迫して伝えながら、時間がほとんどないことを警告している。<br /><span style="color:#00cccc">「余りにも多くの子供達が、まだ、わたしを迎える準備ができていないのだ。彼らがこの世を、愛しすぎているからだ。これがあなたに本を書いてもらいたい理由だ。」<br />「良い信仰を持ったクリスチャンさえも、実のところ天国の存在を疑っている。わたしは全ての子供達が、天国は実在するという事実を信仰によって受け入れるよう願っている。」<br />「わたしの言葉通りに生きる者達を全て天国に連れて行こうと思うが、天国に行く道は簡単ではない。全ての信じる者達は終わりの日にわたしの前に立たなければならない。その中でわたしの言葉によって生きなかった多くの者達は、大いに失望するだろう。」<br />「わたしは全ての子供達に天国に来てほしい。この本を読む誰もが、天国に入るためにこの世でどのように生きなければならないかを悟ってほしい。」<br />「この本は、私がどれ程早く来るのかを人々に悟らせる最後の機会となるだろう。わたしは、彼らが予想するよりももっと早く来るのだ。」</span><br />チュナム女史を通してのイエス様の強力なメッセージは、ちょうどゲツセマネの園の切迫した劇的な祈りのようだった。天国の民になるためには急いで悔い改めて自分をきれいにし、マタイによる福音書25章に記録されている通りに油を準備した思慮深い五人のおとめのように、新郎を迎えるために準備し、備えなくてはいけないということだ。この本は私に信仰の目を覚ましてくれ、新しく変化するのを助けてくれた。いったい私は天国に備えて本当に主が喜ばれる生き方をしているのかと反省してみる。チュナム女史は天国に入ることのできる条件をイエス様の直接的な御言葉によって何度にも渡って記録している。<br /><span style="color:#00cccc">「そこに行く事ができる人は、従順で心がきれいな子供達だけである。」「すなわち自分の人生においてわたしを優先に置く者を選ぶのだ。」「ただ透き通った水のように心がきよめられた人だけが、婚礼の礼服を着るようになるのです。」</span><br />このメッセージは先生の詩篇を思い浮かばせもする。<br />「植物が／地にくっついて／生きるように／あの空に／星々が／くっついて生きるように／精神が／神様に／くっついて／生きなくてはいけない／／清潔な人／従順者が／主は／好きだ／主を／最優先に／考える／人だ」（＜チョウンソリ2008.8～9.＞）<br />セミの幼虫がセミにならなくては空へ飛んで行くことができないように、私たちも新しく変化しなくては天国の民になることができない。ローマ人への手紙12：2「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」という御言葉のように、今こそ目を覚ましてわきまえ知るべき時だと思われる。<br /><br /><strong>終末の兆しとイエス様の再臨の時</strong><br />終末には人々がお金を愛し、自分ばかり愛する、と聖書を通して終末の現象と兆候について語った。神様のことを思わず地上のことばかり思い、物質と経済とお金ばかり追い、思うため、神様は悟りなさいと世界的に多くの兆候を見せていらっしゃる。<br /><span style="color:#00cccc">「わたしは、洪水と大いなる風と地震をもって、多くの国々を滅ぼそう。これは、わたしが神であり、わたしの再臨に備えなければならない事を、人々に示すためなのだ。多くの人々は苦しみを受け、離婚し、彼らの愛する者達のために胸を痛め、クリスチャンを含めて多くの人々が死ぬだろう。わたしの娘よ、あなたは全ての幻を本に記録しなければならない。」</span><br />終末には何よりも神様を愛してこそその霊魂が神様とイエス様につながって天の国に行き、全てのことが地上のことより数十億万倍良く、完全に、実際に存在する世界で生きるようになるのである。終末とは、人間たちの時が終わったから、神様の計画を実践する時だ。目を覚まして準備してこそ主を完全に迎えることができるのである。<br /><span style="color:#00cccc">「誰であれ、わたしに会う準備ができた者はラッパの音を聞くであろうし、準備されていない者達は患難を通る事だろう。そして準備のできていない者達の多くは、サタンに属するようになるだろう。私は既に、人々にわたしの再臨を準備する十分な機会を与えた。けれども彼らは、私の言葉に耳を傾けないのだ。わたしは彼らを永遠に待ってやる事はできない。わたしはわたしのために準備された者達のために来るのだ。」</span><br />最後の再臨の時、救われて主の栄光に参加する人になるためには、何よりも自分自身を徹底的に点検し、少しも残さず悔い改めて、清く清潔になることが急いですべきことだ。実際に深い祈りの中に入って悔い改めると、それまでに思いもよらなかった全ての罪と過ちが思い出され、イエス様に申し訳なく恥ずかしい思いばかりだった。天国を望みながらも生活の中で完全にイエス様を最優先に仕えられなかった自分自身が限りなく恥ずかしかった。世の中と世の中にあるものを愛しながら、どうやってその国とその義を求めることができるだろうか。<br />光にある者はその日が盗人のように臨まないとおっしゃったように、この世に暮らしながら生活の中でイエス様を迎え、もっと緊張して目を覚ましている信仰人になってこそ、来られるイエス様を迎えることができるだろう。<br />先生は今まで生活の中でイエス様に仕える生き方をもって私たちに信仰の手本を見せて下さった。イエス様の霊的な降臨について教えて下さりながら、イエス様をメシアとして信じて生きた人は救われた人であり、生まれ変わった人だとおっしゃった。これが霊と肉の復活であり、地球という空中で引き上げられたことだと教えて下さった。そして私たちが考えるより天国が近く、終わりの時が差し迫っているとおっしゃった。緊張して目を覚ましていてこそ、新郎でいらっしゃるイエス様を迎えることができるとおっしゃった。<br />これまで患難と迫害を通してむしろ神様をもっと近くし、イエス様をもっと求めるようになったから、これもまた感謝するしかない。ひとりの命も地獄に行かず、みな天国のためになることを願うイエス様の切実な願いを思いながら、この地上に望みを置かないで、天国を望んで生きていかなくてはいけない。漠然と再び来られるイエス様ばかり待っているのではなく、平素に命よりももっとイエス様を愛し、イエス様との深い人格的な交際を切に求めなくてはいけない。自分自身にも準備していらっしゃる特別な計画があるとすれば、それを一つ一つ成すために準備し備えなくてはいけない。みな水と聖霊で生まれ変わって主を迎えなくてはいけない。<br /><br /><br /><br /><br /><img src="http://blog-imgs-1.fc2.com/image/e/149.gif"  class="emoji" style="border:none;" /><strong>摂理</strong>の月刊誌「チョウンソリ」2009年2-3月号より<br />この記事はこちらのサイトでも読むことができます<a href="http://cgm.or.kr/" target="_blank">http://cgm.or.kr/</a><br /><br />文中の本書からの引用文（青字の部分）については、日本語版「天国は本当にある！」の訳文を引用させて頂きました。 ]]>
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<dc:date>2009-11-10T10:48:33+09:00</dc:date>
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